【第一羽】四、名も無き村

 自分でも驚くほど自然と出てきた言葉だった。その口調にリヴがはっと顔を上げる。


「ええ、ええ。もちろんです。

 何もない所なので、大したお持て成しは出来ませんが……うちには空いている部屋が幾つかあります。どうぞ遠慮せずに使ってください」


 案内します、とリヴが手を伸ばす。目標とは少し外れた方角へと伸ばされたその手を見つめながら、レインは迷う。


 そもそも天使が仕事以外で人間界に降り立つことは禁止されている。その上、人間と言葉を交わし、その居住区へ行き、更に多くの人間と関わることにレインは罪悪感があった。勝手に人間界へ降り立ったのは確かに自分の意志で行ったことだが、まさかこんなことになるとは思ってもいなかった。


(じゃあ、どうなると思ったんだ)


 自問自答してみるが、答えはない。天界を勝手に飛び出してきたことさえも、何か見通しがあったわけではなく、感情的なものであったことを今では冷静に考えている。これからどうするかなど全く考えていなかった。


 突然、全てが面倒に思えてきた。これからどうするのかと考えることも、天界の禁を守り抜くことも。


 潮騒が不規則なリズムで岩壁を打ち、海風は、ただ滔々とうとうと流れていく。それらと共にレインの思考も空の彼方へと流されていった。


 どうぞ、と伸ばされた手に、そっと自分の手を重ねてみる。途端、それまで恐怖と不安に青白んだ少女の顔にぱっと朱が散り、はにかむ笑顔へと変わった。


 レインの胸がことりと音を立てた。くるくると表情がよく変わる子だ、とレインは思った。


 二人は、ぎこちなくも手を繋いだまま歩き出した。何もない荒野へと。二人の足元を一匹の犬がくるくると走り回る。彼らの背後には、果ての見えない海だけがある。岩壁に打ち付ける波音が二人の出逢いを覆い隠す。


 レインとリヴの出逢い。そう、全ては、ここから始まったのだ。



 †††



 海岸から荒野へしばらく歩くと、岩山が隆起している荒々しい地域が広がっている。その中にリヴの住む村はあった。とても人の住める筈のない景色の中、レインの肌が僅かな水の気配を感じた。地下水脈だ。天使のレインには、自然の力の流れというものが目で見るように解る。そして現れたのは、周りを岩山にぐるりと囲まれた、要塞のような集落だった。


 陽は既に沈み、夜の女神ニクティスだけが世界を支配する新月の夜。全ての神々は眠りにつき、口の利けない女神ニクティスによって全ての事象が秘匿される。村の全貌や規模は解らなかったが、家々の窓と思われる黄色い明かりだけが、そこに人間が生活していることを教えてくれていた。


「こっちです」


 リヴに誘導されながらレインは、自分より少し先を行く白い背中を追った。女神ニクティスの恩恵に感謝しながら。


 暗がりの中、リヴは、建ち並ぶ家と家の間にある舗装もされていない道を迷う事なく、しっかりとした足取りで進んでいく。その足下には、ぴたりと寄り添い歩くレオンの姿があった。


 しばらく集落の奥へと進んでいき、やがて東北へと向かう緩やかな坂を登っていく。集落を抜けて、坂を登り切った村の果てに、ぽつんと一軒、木造の家が建っていた。


 鍵のついていない扉を開けて、真っ暗な部屋の中へリヴとレオンが入っていく。外からの僅かな明かりでうっすらと浮かび上がる輪郭にレインが目をこらしている間、リヴは部屋の奥から乾いた浴布と替えの服を持ってきてレインに差し出した。レインは、それを見つめながら、どうしようかと悩んでいたが、結局、黙って服を脱ぎ始めた。渡された服は、ごわごわとして着心地が悪かったが、乾いた日向の匂いがした。


 その間、リヴは暖炉に火を付けると、レインに傍にきて身体を暖めるよう促した。


「濡れた服は洗いますので、お預かりして良いですか」


 そう言って両手を差し出すリヴに、レインが慌てた。


「あーいや、これはいい。大丈夫だ」

「え、でも……」


 服を手渡してしまったら、濡れていない事がばれてしまう。


「そんなに汚れていないし、もうだいぶ乾いてきたんだ。本当に大丈夫だから」


 レインが頑なに断ると、それではせめて服を暖炉の火で乾かすようにと促され、レインは、しぶしぶリヴの隣に座った。妙な気恥ずかしさと、濡れてもいない服を暖炉の前にかざす馬鹿らしさがレインの表情に現れていたが、リヴは、それに気付く事なく、レオンに水をやっていた。


「一人で住んでいるのか」


 他に話す事もなく、そう聞いた。与えられた服はレインの身に少し余る程の大きさで、明らかに男物である。しかし、暖炉に燃える火が照らす部屋の中には、食卓らしきテーブルが一つと、椅子が一つしかない。


 父が、と小さく答える声に耳を澄ませる。


「父親か」


 と聞き返すと、リヴが小さく頷いた。


 レインは、反射的に部屋の奥へと目を走らせたが、人がいるような気配はない。暖炉の火が届かない部屋の奥には、不気味な黒い影が鎮座しているようだった。


「もう長い間、病気で起き上がる事も出来ないのですが」


 しんと静まった部屋に、暖炉の薪がぱちぱちと燃える音だけがやけに大きく聞こえる。レインは、何か言わなければと口を開いたが、口の中が乾燥していくだけだった。


「でも、きっとよくなるって、信じています」


 そう言って、リヴは微笑んだ。暖炉の火がリヴの横顔を赤く照らし、彼女が撫でるレオンの毛皮は金色に光って見えた。目が見えないと言っていたが、光を見ることは出来るのだろうかと、ふと疑問に思った。


 少し父親の様子を見てくると言って立ち上がったリヴに、レインも従った。病人に対面するのは気が引けたが、世話になる身で挨拶をしないわけにはいかないだろう。


 寝室の中は暗く、病人が持つ独特の臭いに満ちていた。レインが思わず顔を歪めて足踏みをする。天使は、人間よりも死の気配に敏感なのだ。


 リヴが先に中へと入って行き、持ってきた燭台から部屋の中にある燭台に火を移す。僅かだが優しい光に満たされた部屋は、中央に寝台が置いてあり、その右脇に先程居間で見掛けた椅子と同じものが置いてある。リヴは、寝台で眠る父親の耳元で何かを囁いた。すると、眠っていると思われた瞼がゆっくりと開き、レインを見つめた。


「お迎えが来たのか……」


 その声はくぐもっていたが、レインの耳には嫌にはっきりと聞こえた。


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