【第一羽】三、旅人
少女の顔色が僅かに変わる。これから起こるであろう未来を予測し、明らかに警戒している様子だ。そこへ、一匹の犬が少女のすぐ傍へと駆け寄ってきた。黒と茶金色の斑模様をした長毛が水に濡れて、身体の線を露わにしている。どうやら先程海に落ちたのは、翼を持たない彼だけだったらしい。緊張した少女の頬に濡れた黒い鼻先を当てると、驚いた少女がびくりと震えた。
しかし、続いて聞こえた、甘えるような鳴き声が、少女の表情を一瞬で氷解させた。ほっと息を吐きながら無意識に呟いた言葉は、彼女の愛犬の名だ。手で額に触れ、じっとりと濡れている毛に気付く。仕様がない子、と苦笑しながら少女がその濡れた頭を撫でてやると、犬は嬉しそうに目を細め、少女の手を舐めた。
その光景を空に浮かぶ天使は、不思議そうな表情で見つめていた。このままそっと気付かれないよう飛び去る事は簡単だ。だが、それよりも強い好奇心が彼からその自由を奪っていた。
「そいつ、レオンって言うのか」
背後から聞こえた声に、少女が驚いて振り向く。そこには、先程まで正面にいた筈の天使が地に足を付けて立っていた。背中に生えていた白い翼は、音もなく姿を消している。
天使の問いに、少女は戸惑いながらも無言で頷く。
「お前、名前は」
「……リヴ」
「さっき荒野にいたのは、お前か」
「え」
天使の脳裏に、枯れ草を手にした少女の姿が浮かぶ。
「いや……この辺に住んでいるのか」
こくんと頷いたリヴの瞳が僅かに揺らぐ。今出逢ったばかりの、それも得体の知れない人物の質問に自分が素直に答えている事に驚いていた。改めて目の前に立つ人物の姿を観察しようと、灰色の瞳を細めてみるが、先程のような光がリヴの瞳に見える事はなかった。
「あなたは一体、何者なの」
「俺か、俺は……」
すぐに出ると思った答えは見付からず、開いた口が言葉を探す。言い淀み、考える。俺は一体、何者なのだろう、と。
目の前にいる少女を見る。焦点の合っていない灰色の瞳とぶつかった。彼女は自分の正体に気付いていない。これは、偶然の出逢いなのだ。
一瞬の逡巡の後、天使は答えた。
「俺の名前は、レイン。ただの旅人だ」
似ている、とリヴは思った。レオンとレイン。特に潮騒がうるさいくらいのこの場所では、聞き間違えてもおかしくない。だから先程、自分がレオンの名前を読んだ時に反応してしまったのだろう。
リヴの隣でレオンが再び、レインに向かって低く唸り始める。それをリヴが黙らせると、レインは、犬に向かって顎を突き出してみせた。
「ごめんなさい。滅多に人に向かって吠えるような子じゃないんだけど……」
名前を聞いた事で親近感を覚えたのだろう。リヴの口調からは、警戒の色が消えていた。
「そうだわ。さっき、海へ落ちませんでしたか。怪我をしたのでは……」
「怪我……ああ。大丈夫だ、怪我はない」
「そうですか……よかった。
……あぁでも、服が濡れてしまいましたよね。ごめんなさい。
どうしよう、本当にごめんなさい」
一転してうろたえる彼女の様子に、レインが戸惑う。仕事柄、これまで数多くの人間と関わってきたが、このような反応を示された記憶はない。どう答えて良いのか本気で悩んでいると、その間をレインが怒っていると受け取ったリヴは焦って言った。
「あのっ、うちへ寄って行ってください。
……少し、歩きますが。この辺りには、他に人が住んでいる場所はありませんし……」
必至になって話しながらも、リヴの声は、だんだんとか細くなっていく。それに、と続く言葉は更に小さかった。
「そのままだと風邪をひいてしまいます」
それきり俯いて黙ってしまう。言葉の最後の方は小さくかすれてしまい、ほとんど潮騒の音にかき消されてしまったが、僅かに〝風邪をひく〟という言葉だけは聞き取ったレインが、その意味について考える。それが人間界で言う病の一種である事に思い当たると、更に妙な顔つきになった。
天使は、風邪などひかない。
レインは、目の前の少女をじっと見つめた。頬を赤く、瞳には涙さえ浮かべて俯く彼女は、何をそんなに怯えているのかと、レインが心配になるほどに、強く両の手を身体の前で握り締めている。
その時レインは、今自分が天使ではなく、一人の人間として彼女の前に立っているのだということを強く認識した。この少女は、本気で、自分が風邪をひくのではないかと心配しているのだ。そのことがレインにはとても新鮮で、何だかよくわからないが、心を鳥の羽でくすぐられたような感覚がした。
「行っても、いいのか」
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