【第一羽】二、邂逅
レオンの駆けていく足音があらぬ方角へと遠ざかっていくのを聞いて、彼女は驚いた。何度も名前を呼ぶが、戻ってくる気配はない。それまで全く気丈な様子を見せていた彼女の表情に、その時初めて焦りと不安の色が浮かんだ。彼の声は、ある一定の方角から聞こえてくる。彼女は、慌ててその声を追った。
両の手を前に伸ばして恐る恐る進む様子は、見るからに危なげだ。砂と岩ばかりに覆われた荒野の中、何度も石に足下をすくわれ躓きながら進んでいく。
レオンの声は遠く、しかしはっきりと彼女の耳に届いた。何かを伝えようとしているのだろうか。どちらにせよ、普段の彼からは考えられないほど珍しい事だ。
(なんだろう……野ウサギでも見付けたのかしら)
荒れ果てた大地にも細々と生きる命があることを彼女は知っていた。実際に目にすることはないが、時折、朝方になってレオンが血の臭いと共に荒野から帰ってくる事がある。それならば、自分はこの場から動かず彼の帰りを待っているべきだろう。しかし、レオンの声は、未だに一定の距離と間隔を保って彼女の耳へと聞こえている。彼女には、彼が付いてこい、と言っているように聞こえていた。
かなりの距離を歩いた。あまり長い距離ではなかったかもしれない。それでも目の見えない彼女にとっては、重労働だ。いつも彼女の傍にぴったりとくっついて離れないレオンの存在がないことに、彼女は新鮮な不安を覚えていた。
ふと彼女の鼻に嗅ぎ慣れない匂いがした。
(塩の匂い……もしかして、これが海なの)
話に聞いたことはあったが、これまで彼女は一度も海というものを目にした事がない。これがそうだと解ったのは、身体の奥底に流れる血の記憶だった。
ざん、と何かが砕け散るような潮騒の音まではっきりと聞こえる。彼女の顔に、未知のものに対する恐怖がありありと浮かんでいた。しかし、レオンの声は、潮騒と共に聞こえてくる。彼女は意を決して、歩を進めた。
海の上に張り出した岸壁の上で、一匹の犬が海に向かって一心に吠えている。いや、海ではない。海に背を向けるようにして立っている人影に向かって吠えているのだ。
背後では、ちょうど太陽がその半身を海の中へと沈めていくところで、犬の視線から見れば、黒いシルエットだけが海に浮かんで見えたことだろう。だが、人影の立っている場所は、まさに崖っぷちだ。
そんな緊張感漂う中、突如、岩場の影から一人の少女が姿を現わした。夕日が彼女の顔を茜色に染める。その瞳は濁った灰色をしており、何も映してはいない。両手を前に突き出し、ふらふらとした足取りで、ゆっくりと犬の傍へと近づいていく。
塩と湿気を含んだ風が少女の頬を、髪を撫ぜてゆき、彼女は全身をこわばらせた。
れおん、とか細い声で犬の名を呼ぶ。
「誰かいるの」
その問いに、彼女は誰かが息を呑むのを感じた。何、ではなく、誰、と問ったのは、獣の気配とは違うと本能で察したからだった。
その一瞬の気の変化を犬は敏感に察知した。一際大きく吠えたかと思うと、人影に向かって大きく跳躍した。咄嗟にそれを避けようとした人影が体勢を崩し、足が宙を踏む。言葉にならない人の呻き声と、何かが海に落ちる波飛沫の音だけが、彼女に状況を説明していた。
さっと顔を青くした彼女は、四つん這いになりながら恐る恐る音のした方へと這っていく。両手で崖縁らしき位置を確かめて、大丈夫ですか、と声をかけようと口を開きかけた時だった。
「よく吠える犬だなぁ。あれ、あんたの犬か」
頭上から聞こえてきた不機嫌そうな声に、少女が顔を上げた。
燃えるような茜色の空を覆う、雪のように白い翼。陽の光を反射して煌めく黄金の髪。透き通るような白い肌の上に金の睫が落とす影、悲しみの色を帯びた青碧の瞳。そこにいたのは、一人の天使だった。
天使は宙に浮かんだまま、少女を見つめていた。硝子細工で出来た彫刻のように美しい顔は、不機嫌そうに口をきっと結んでいてさえ美しく映える。
しかし、その姿を盲目である彼女の目が映す事はない。……筈だった。
顔を上げた少女と天使の視線が宙でぴたりと重なり合う。
光だ。強い光。見える筈のない彼女の瞳に、それだけが確かに写った。綺麗、と彼女は思った。
天使は、自分の声に反応を示した少女に驚いているようだった。まるで時が止まったかのように、二人は見つめ合った。潮騒の音だけが優しく鳴り響き、太陽は確実に海へと沈んでいく。先に口を開いたのは、少女の方だった。
だれ、と彼女の口から無意識にこぼれ落ちた小さな呟きは、波の音に掻き消されながらも、天使の耳には確かに届いた。
「お前、俺の声が聞こえるのか」
少し意外そうな声の調子に、少女が表情を堅くする。
「……目の見えない人が、耳まで聞こえないわけじゃない」
静かだが、確固たる意思の熱を持った返答に、天使が不本意そうに眉根を寄せた。その言葉の真意を探るように、じっと少女の瞳を覗き込む。やがて納得したように呟いた。
「目、見えないのか」
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