【第一羽】邂逅 ―荒野の海―
【第一羽】一、荒野の海
辺り一面、何もない荒野が広がっている。どこまでも続く砂や岩地に覆われた大地の上を、大きな鳥のような影がすっと横切った。
空は高く、雲一つない青空が広がっている。
時折吹く乾いた風が砂礫を巻き上げ、宙を踊らせる以外、辺りは静寂に支配されていた。枯れた大地の所々に根を生やした貧弱な草木が、その寒々しさを殊更に助長している。
小高い岩山の上まで登ってきた風が、そこに立つ青年の髪を梳き、日の光を反射して白金色に煌めいた。
辺りには民家の一軒も見あたらず、人の住んでいる気配は全くない。それはまるで、何もない空間に忽然と姿を現したかのような異質な空気を身に纏っていた。
(ここもか……)
青年が眼下に広がる荒野を見渡す。そこには、数年前まで緑豊かな森が広がっていた。太陽と雨の恵みを受けて、青々と茂る木々の群れ。穏やかな気候により年中たわわに実る果実は宝石のように輝き、鳥たちが啄み、愛の歌をさえずる。地を歩く獣たちの咆哮に、声さえ立てぬ小さな生き物たちの確かな生の息づき。時に争い、血を流す事もあるが、それさえ自然へと回帰していく。自然の輪廻。それこそが生の証。しかし、それが今では見る影もない。
自分は何故、ここに居るのだろう。
そもそも己の始まりこそが曖昧で、何の為に自分がこの世に生まれたのかすらも解らないのだ。ただ、気付いたらここへ来ていた。
世界は、疲弊している。それは、この光景を見る事からも明かで、神々が力を失っている事の証明でもあった。
世界を照らす太陽さえも今は力を失い、小さく見える。暑くも寒くもない、閑散とした世界。それでも、このまま歪な世界は続いていくのだろう。
この脆弱な世界の均衡を保つ為に、日夜必死に動き回っている同朋達を想い、青年は、自嘲的な笑みを浮かべた。
その時、静寂を打ち破る、獣の吠える声が聞こえた。青年が反射的に声のした方向を目で探し、見付けた。青年の足下にある崖下二十メートル程先で焦げ茶色の物体が動いている。犬だ。それは、静止した世界で唯一つだけ生を感じさせるものだった。
いや、一つではない。犬のすぐ傍の岩陰から、ひょろりと伸びる白い腕。そして、次に頭。その顔は遠くてよく見えないが、手探りで何かを探している様子だけは解った。
(こんな所に人がいたのか……)
そんなごく自然な驚きも、この場に居る青年が感じるには、ひどく不自然なものだ。まるでこの青年が〝人〟ではない、とでも言うようである。
しばらく見ていると、岩の上を這っていた白い腕が突然その動きを止めた。どうやら何かを見付けたらしい。その手に握られた枯れ草のようなものの存在を認め、青年は眉をひそめた。一体何を……と思う間もなく、おもむろにそれをむしり取り、口元へ近づける。
青年は思わず視線を外した。それきり興味を失ったかのように視線を空へと向ける。
(海が見たい……)
唐突に沸き上がった想いは、まるで津波のように青年の心に迫り、海へと駆り立てた。それは、雨が地に落ち、川を流れて海へと向かうように、青年にとってはごく自然に沸き上がる感情だった。
近くに海があったことを思い出し、青年は、荒野に背を向けた。
†††
犬の吠える声が聞こえる。その方向を耳で捕らえ、両腕を伸ばす。掌にあたる、ごつごつとした堅い感触から、瞼の裏に岩壁の姿が現れる。色は判らない。何故なら、彼女は目が見えないからだ。
右足で足掛けの位置を確認すると、ためらう事なく、えいやと身体を持ち上げた。その華奢な体つきからは想像出来ない突飛さと、不似合いなほど大胆な行動だった。細い腕に力を入れ、これまた細い身体を支えながら岩壁をよじ登っていく。
怖くはない。何故なら、幼い頃から彼女を支えてくれた愛犬がその道を指し示してくれているから。
くん、と鼻を動かすと、乾燥した砂の匂いに混じり、微かだが草の匂いがした。両腕を地に這わせて様子を探ると、すぐにかさりと頼りなげな草の感触が手に触れた。反射的にそれをむしり、口元へと近づける。匂いを嗅ぎ、そっと舌で舐めてから眉をひそめた。
「だめ、これも違う」
力なく開かれた掌から、枯れ草が宙に舞う。その指には、小さな切り傷が幾つもついていた。
「レオン、他に薬草の生えていそうな場所はないかしら」
傍にいる誰かに向けて放たれたその問に、答える声はない。代わりに、ひやりと濡れた感触を手の甲に感じた。レオンはよく、こうして鼻先で彼女を目的のものへと導いてくれる。その仕草に気付いた彼女は、レオンに促されるまま無造作に手を伸ばした。
「……っつ」
ちくり、と指を刺す鋭い痛みに思わず手を引く。棘だ。この荒れ地で棘を持つ植物は珍しくはないが、その数はやはり少ない。
今度は慎重に手を伸ばす。そっと触れて大きさと棘のある箇所を確かめると、顔を近づけて匂いを嗅ぐ。
「
しかし、今はまだ蕾さえない。花が咲かなければ摘んでも意味がない。
彼女の顔に微笑が浮かぶ。探していたものとは違うが、これも大変珍しく貴重な植物である。そこで、根を傷つけないように周囲の土を掘り、根付きのまま持ち帰ることにした。
乾燥した硬い土は、彼女の白い手を容赦なく傷つけ汚していくが、彼女は全く構う事なく作業を進めた。
風が吹き、レオンが一声吠えた。反射的に顔を上げて身構えるが、それ以上吠える様子がないので、再び作業に戻った。
「レオン、もういいわ。ありがとう。さ、下へ降りましょう。そろそろ帰らないと、父さんが心配するわ」
手にした
彼女が無事に岩壁を降りきったのを確認すると、続いてレオンも段差から飛び降りる。そしてそのまま、家とは逆の方角へと走り出した。
「レオン、どうしたの」
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