【第一羽】五、幻視

「やだ、父さんったら。こちら、レインさんっていうの。旅の途中なんですって。

 うちに泊めてさしあげてもいいかしら」


 床の中から注がれる鈍い視線にレインが固まる。


「そうか……。何のお持て成しも出来ませんが、ゆるりとしなされ」


 それだけ言うと、彼は目を閉じた。


 寝室を出ると、リヴが明るい口調で言った。


「お腹、減りましたよね。今、食事の支度をするので、少しだけ待っていてください」


 そう言って居間へと向かうリヴの後ろ姿が揺れている。いや、レインの身体が揺れているのだ。自分が生まれて初めて目眩というものを経験しているのだと気付いたのは、廊下の壁に音を立ててぶつかった時だった。


 物音に異変を感じたリヴが振り向き、声を掛けるが、レインは答えることができなかった。やけに息苦しい。そのまま床に座り込み、気持ちを落ち着かせる為、目に入った床の木目をじっと見つめた。


 しかし、焦点は合うどころか、次第にレインの脳裏で別の像を結んでいく。目だ。黒々と見開かれた瞳が、瞬きもせずレインを見つめている。レインには、それが先程見たリヴの父親の瞳だと判った。


(ただの幻だ……)


 そう思って必死に目をこらせばこらす程、瞳は確かな実像へと姿を変えていく。そして形を変え、歪み、気付けばレインは、たくさんの人間の瞳に見つめられていた。そのどれもが全てを諦めたように虚ろであるのに、皆一様に何かを求めている。無音の世界にレインはいた。彼らの意図を読もうとするが、求めるばかりで何も解らない。恐怖を感じた。無数の視線に圧迫される。その重圧に耐え切れず、レインが叫びかけた時。突然、獣の一声によって、靄がかった夢のような情景が立ち消えた。残ったのは、ただの木目と、不安げに立ちすくむ盲目の少女、そして犬の姿だった。


 ほっと息を吐いて、自分が数秒息を止めていたらしい事に気付く。


「大丈夫ですか。気分でも悪いんですか」


 今度は、はっきりとリヴの声が聞こえた。自分の動悸が僅かに早く聞こえる以外、身体に異変はないようだった。


「いや……なんでもない」


 レインは、軽く頭を振ると、ゆっくり立ち上がった。心配そうな表情をするリヴを見て微笑んでみせる。


「少し疲れただけだ。休めば回復する」


 リヴに案内された部屋へ入り一人になると、レインは深く息を吐いた。


 部屋の中には、木製の寝台が一つと空の棚が一つあるだけだ。


 寝台に腰を降ろすと、自然と目が足元へ落ちた。そこには、先程の廊下で見た床板と同じ種類の木が使われている。この地方では一般的によく用いられているトラ杉だ。決して珍しいものではない。トラのような模様をした木肌が特徴で、荒野と成り果てた今では見掛けなくなったが、数年前までは、この近辺でも無尽蔵に群生していた。この家は、その頃から建っている家なのだろう。


 トラ杉は、加工し易い材質の為、建築材料や家財道具など幅広い用途を持つ。暗くてはっきりとは判らないが、この部屋にある家具も全てトラ杉を使っているようだ。しばらく床板を見つめていたが、ただの木目にしか見えない。やはり疲れが出たのだと思う。


 ふと、先程見た、リヴの父親の様子が頭に浮かんだ。彼の身体からは、生命が放つエネルギーというものがほぼ感じられなかった。あるのは、病という負のエネルギーだ。もう長くはないだろう。天使は、自然界のエネルギーの流動を感じる事が出来る。それとは逆に、リヴの身体からは、これまでレインが見たことのないエネルギーを感じていた。


 先程見たリヴの心配そうな顔が脳裏に浮かぶ。


(なぜ、あんな表情ができるんだ)


 不毛の荒野に囲まれた小さな村。家の中にある家具らしき物も質素で、貧しい生活である事が一目で分かる。その上、盲目の少女が頼りにするべき父親は、病気で寝たきり状態。そんな不幸の元に生まれたようなリヴ。それなのに、何故あのような他人を哀れむ表情が出来るのか。


 そもそも自分たち天使が呼ばれないのは何故なのだろう。


 最初は、彼女のために召喚よびだされたのかと思った。しかし、それならばすぐにそうだとわかる。突然の召喚は、よくあることだが、今回のこれは、それとは違う。レインは、自分の意志で、あの海岸に行ったのだから。


 不幸な人間は、すぐに誰かを頼ろうとする。何か悪い事があると、すぐに悪魔の所為にする。そんな弱くも浅ましいのが人間だと、レインは人間界で学んできた。


 焦点の定まらないリヴの瞳は、レインの中にある何かを揺さぶる。小さな不安を感じながら、いつしかレインは深い眠りへと落ちていった。

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