【序幕】二、天使の羽根

 唐突に始まった老婆の問いかけに、それまで好き勝手に喋っていた子供達の注意が一斉に老婆へと向く。


「〈天使の羽根〉って……村の北側にある、あの岩山のこと」

「知ってるさ。だって、村の守り神だもの。この村でそれを知らないやつなんていないよ」


 しかし、老婆はそれを聞いて大きく首を横に振った。


「違うわ。その話じゃない。……無理もないね。今では、古き伝承とされるもの。

寂れてしまったのは少し悲しいけどね」


 そう言って、ふと寂しい表情をしたのは一瞬で、老婆は語り始めた。


「昔々に語られていた話だよ。まだ私が生まれる前から伝わる話さ……」



 †††



 それは、まるで自然に出来た緑の門のようだった。生い茂る木々や蔦によって出来た、扉のない門。だがよく見ると、木製の支柱によって形作られているのが解る。弓なりになった上部は、男の背丈より少し高く、幅は二人分にも満たない。


 男が何かに気づき、雨衣の袖から手を伸ばした。自然の装飾が施された門柱の上部に、何かが彫られた痕をそっと指でなぞる。擦れていて読みにくいが、僅かに〝天使〟という文字だけは読みとる事が出来た。


 傍には特に見張り番が居るわけでもなく、門は、ただ静かに口を開けている。男は何の障害もなく門の内側へと足を踏み入れた。


 そこには、樹海の中心を丸く切り取ったかのように小さな村が存在していた。村の反対側には、樹海から顔を出した岩山が村のほぼ半周を囲うように広がっている。


 それは、ちょうど天使が羽根を広げて村を守っているように見えた。


 ぽっかりと開いた空は、鈍い灰色の光を放ち、村を淡く照らしている。遮る木々がない事で、雨が男の深緑色の雨衣を濡らしていき、男はフードを深く被り直した。


 村の正面には、井戸を中心に円形状の広場が広がっており、足下に敷かれた石畳が道を造っている。広場から四方に伸びる道の先には、石造りの建物が所狭しと立ち並んでいた。


 何の変哲もない、どこにでもあるような村だ。ただ、雨が降っている所為か、まだ日も暮れていないのに人の姿が全く見えない。優しい雨が降り注ぐ中、村は静寂に包まれていた。まるで雨がこの村の時を止めているかのようだ。


 広場を見渡していた男の視線がある一箇所で止まった。それは、井戸を挟んだ向かい側で一段高い場所から広場を見下ろすように建つ小さな教会だった。その背後には、大樹がそびえ立ち、彼を見下ろしている。



 †††



 ――天使の羽根を手に入れた者は、幸せになれる――


 それは、古くから伝わる伝承。

 天から雪のように降るそれを、人々は『天からの贈り物』と呼んだ。


「天使なんて、いるもんか」


 そう言って老婆の語りを破ったのは、村一番の問題児ケインだ。彼は、数年前に母親を亡くして以来、何かにつけては問題を起こすようになり、周囲の者を困らせてばかりいる。


 老婆は、悪戯を隠した子供のように、にっと笑った。


「いるわ。天使は、目には見えないけど、ちゃんと存在するのよ」


 うそだ、と言わんばかりにケインが老婆を睨み付けた。


「……じゃあ、じゃあ、どうして天使は母さんを助けてくれなかったんだ。

 俺、毎日教会へ行って祈ったのに」


 ケインの目に涙が浮かぶ。周囲の子供達は、彼に同情の視線を送るものの、掛ける言葉が見付からない。ただ老婆だけが優しく微笑んでいた。


「ケイン、勘違いしてはダメ。天使は、私達に何かを与えてくれる存在ではないの。ただ私達の傍に居て、一人じゃないよ、と勇気づけてくれる大切な存在なのよ」


 ケインが顔を上げる。他の子供達も皆、老婆の話にじっと耳を傾けていた。


「天使はね、本当に心から誰かを必要としている人の前にだけ姿を現すの」


 老婆の表情に嘘をついているような影は見えない。


 ケインの目は、まだ赤かったが、もう泣いてはいなかった。今はただ、老婆の語る穏やかで優しい声だけが部屋を満たしている。


「天使は、お前たちのすぐ傍にいるよ」


 そして何より、老婆が今まで一度たりとも子供達に嘘をついた事がないことを、子供達自身が一番よく知っていた。



 †††



 いつものように祭壇の掃除をしていたアンジェリカは、背後の扉が軋んだ音を立てたのを耳にして振り返った。そこには、深緑色の雨衣に身を包み、全身ずぶ濡れの姿で立つ男の姿があった。その顔は、頭巾に隠れていてよく見えない。


「どなた」


 アンジェリカが少し訝しむように尋ねると、男が何か二言三言を口にした。その聞き覚えのない声音と話の内容から、その男が樹海の外からやってきた〈漂流人〉だと解る。


 周りを樹海に囲まれているこの村は、外の世界とは完全に遮断されている為、その間に人の行き来が全くない。ただ極々稀に、樹海へ入って道に迷った者が偶然この村に辿り着く事がある。それも何十年に一度あるかないか、といった程度の為、この村では、そういった人達の事を〈漂流人〉と呼んで珍しがる。中には見た事のない外の人間に恐れを抱く者もいるが、アンジェリカは他より歳を多く取っている分、過去に何度か漂着人と会った事がある。その際、怪我を負った漂着人を世話していた事もあった為、その珍しい客人に驚きはしたが恐ろしくは思わなかった。


 どうやら男は、誰かを探しているようだ。


 アンジェリカがそれに答えて道を教えると、男は礼を言って教会を後にした。


(この村に、漂流人の知り合いがいるなんて……)


 そう不思議に思い、アンジェリカは、はっと何かに思い当たった。慌てて教会を飛び出す。先程アンジェリカが教えた、村の北東へと続く道のずっと先に、男の後ろ姿があった。


(まさか…………)


 雨衣も何も持たずに外へ出たアンジェリカの頬を、法衣を、雨は容赦なく濡らしていく。それを気にも留めず、アンジェリカは遠ざかっていく男の背中を見送った。


 雨は止むどころか、徐々に勢いを増してゆく。雨のよく降る村ではあったが、今日の雨はいつもと何かが違う。それは、ここ何十年も訪れる事のなかった漂流人が突然現れた事と無関係ではないだろう。


 男の雨衣は雨に濡れて黒っぽく映り、それがアンジェリカには、まるで死に神のように見えた。そんな彼女の不安を肯定するかのように、遠くの空が低く唸った。



 †††



 窓の外は、相変わらずの雨だったが、日暮れと共に灰色から黒へと移り変わっていた。時折、空が明るく光り、遠くで雷鳴が聞こえる。子供達の中で一番恐がりなヘブルが小さく叫んだ。


「天使に会った時は、必ず気をつけなきゃいけないことが三つあるの」


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