【序幕】終焉 ―老婆と旅人―

【序幕】一、黒の樹海

 雨が世界を濡らしていた。全てのものが輪郭をなくし、色彩を失った世界で、唯一ただひとつだけ、黒々と重厚で不気味な存在感を放つものがある。


 【黒の樹海】


 雨は、その下界に鬱蒼と広がる【黒の樹海】へと静かに、優しく降り注ぐ。真昼でも薄暗い【黒の樹海】に足を踏み入れる者は、めったにいない。ごく稀に、己の道を見失った者や、浅はかな好奇心と愚かな自尊心の為に訪れる者たちがあっても、彼らの内誰一人として無事に帰ってきた者はいない。樹海は、無慈悲に全てを呑み込んでしまう。生を持つ人々にとってそれは、恐怖の対象でしかなかった。


 ──樹海は、その奥深くに秘密を隠している。


 いつからか、そのような噂が流れ、樹海を訪れる者の数が次第に増えていった。ある者は、純粋な好奇心から。またある者は、己の心に抱えた闇を払う為に。

 彼らが共通してそこに探し求めたものは、純粋な〈救い〉だった。


  天使の棲む村。


 それが樹海の隠している秘密。噂の元となったのは、ある商人の話だった。彼は言った。私は、その村の天使に救われたのだ、と。


 真偽の程は定かではない。証拠も根拠もない。噂は、あくまで噂でしかない。


 だが、人々の心がそれを求めた。誰もが心に闇を持ち、また誰もが同じように救いを求めていた。


 しかし、やはり噂は噂。誰一人として、その秘密に辿り着けた者はいなかった。樹海は、まるで人々の存在など目に見えていないかのように沈黙を続けた。無慈悲に全てを呑み込みながら、樹海は今も秘密を守っている。



 †††



 〈黒の樹海〉の深い深い最深部。ここには、僅かな光しか差し込まない為、辺りは常に濃い闇に閉ざされている。樹海に棲む生物たちでさえ、ここには近寄ろうとしない。侵入を許された僅かな雨粒が、乾燥した地に一瞬黒い染みを作っては消えていく。そんな音さえ聞こえてきそうな静寂の中、生い茂る草木を掻き分けながら進む人の姿があった。全身を黒っぽい雨衣で包んでいる為、ほぼ辺りの闇と同化している。道なき道を足下の木の根に躓きながらも進んで行くその様からは、疲労の色が伺える。


 彼は、樹海の秘密を知っていた。


 しばらく行くと、前方を塞ぐ枝葉の隙間から、ちらちらと透けて見える光が現れた。やがて其の歩みが止まる。男が枝葉を優しく払い除けると、白い光を放つアーチ上の出口が見えた。



 †††



 ぱちぱちと炎の爆ぜる音がする。茜色に燃える暖炉の火が、その部屋を優しい色に染めている。暖炉の前には、揺り椅子に腰掛ける老婆を中心に囲うよう、十数人の子供達が床敷の上に座り込んでいた。


「ねぇ、大お婆ちゃんグランマ。今日は、どんなお話をしてくれるの」


 老婆の膝掛けを軽く引き、可愛く首を傾げたのは、今年で六歳になる少女セナだ。


 今日は、村を挙げて月に一度行われる狩りの日で、村の大人達は皆樹海へと出掛けてしまっている。狩りは基本的に一晩かけて行われるが、成果の善し悪しによっては、長くて三日三晩続く事もある。それだけ樹海が深いのだ。土地勘のある村の者でも迷う事さえある。その為、狩りは村人総出で行う。それ以外で樹海に入る事は村の掟で禁止されている。


「ぼく、今日は泊まっても良いって、父さんが」


 そう言って目を輝かせたのは、村で一番裕福な家の子マールだ。彼は今年で八つになる。どうやら、老婆の家に泊まるのは今日が初めてのようだ。


 大人達が樹海へ狩りに出掛けている間、子供達は、この村で最も老齢である老婆の家に預けられる。初めは、母親のいない子供達だけが教会に預けられていたのだが、退屈した子供達の悪戯に手を焼いたアンジェリカが老婆に助けを求めた。何故か村の子供達は皆、どんな悪戯っ子でさえ、この老婆の言う事だけはよく聞くのだ。


 子供達一人一人の顔を嬉しそうに眺めていた老婆が首を傾げた。


「そうねぇ……今日は、何の話をしようかしら」

「ぼく、あの話がいい。山が大きな火を噴いた話」

「えーそれは前に聞いたよ。今度は、革命家の話だ」

「私は、恋の話が聞きたいわ」


 子供達が口々に騒いでいる姿を老婆は目を細めて見つめていた。


 老婆は、自分でも歳が解らなくなる程の老齢ではあったが、まだ記憶や口調もしっかりしており、日常生活も全て一人でこなしている。最近は、少し足腰が悪くなってしまい、揺り椅子に座る時間が長くなってはいるものの、子供達の母親が日替わりで彼らの食事や掃除などの手伝いにやって来てくれる為、老婆の仕事は、子供達と一緒に笑い、遊び、共に語り合うことだけで良かった。


 他の大人達と違って叱ったり説教をするわけでもなく、自分達と同じ目線で話をしてくれる老婆の事を村の子供達は「大お婆ちゃんグランマ」と呼んで慕っている。


 そして何より、話上手な老婆の語る素敵な〝おはなし〟を聞きたいと、いつの間にか村中の子供達が集まるようになっていた。夕飯を食べてお腹いっぱいになった子供たちは、あとは老婆の話を聞くだけと目を輝かせている。


 老婆の視線は、しばらく何かを探すように部屋の中を泳ぎ、やがてその部屋に一つしかない窓に止まった。村で一番小高い丘の上に建つこの家は、天気が良ければ村を一望する事が出来るが、雨に濡れた窓の外は、灰色一色で何も見えない。


 しかし、老婆は、大切な宝物を見付けたかのように表情を綻ばせた。


「お前たち、〈天使の羽根〉の伝説を知っているかい」

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