4.7㎞は少し遠い

パンざわ

4.7㎞は少し遠い

 世の会社員が明日の仕事のことを考えて憂鬱になり始める日曜日の19時。どこにも外出せず全く生産的でなかった無意味な週末を「日々の疲れをとる」という有意義な週末にするために日帰りの温泉施設に向かうことにした。

 地図アプリで見つけた温泉施設は自宅からおよそ4.7㎞、アプリの計算によれば自転車で18分かかるらしい。一瞬、18分自転車を漕ぐ労力から中止がよぎったが、この思考が週末を無駄にさせていると反省し、自転車に乗った。


 アプリの計算は間違っていたようで正確に24分かかった。温泉施設は500mほどの坂を登ったところにあり、上り坂で自転車のスピードが遅くなることをアプリは考慮できていない。

 首筋に流れる汗を感じながら駐輪場に自転車を停め、温泉施設に入ると、館内はたくさんの客で溢れており、受付カウンターには行列ができていた。そんなに人気の温泉施設だったのか。思わぬ盛況ぶりに驚きつつ、大人しく受付の行列に加わる。ほどなくして自分の番になり、下駄箱の鍵と引き換えにバーコードが印字されたリストバンドとタオルセットをもらい受付完了。時刻は19時半を過ぎていた。


 当然、更衣室も人で溢れていた。中にはすでに入浴を終えて着替えを済ませた学生が、ベンチに腰かけてフルーツ牛乳片手に悠々とスマホをいじっている。彼の背後の壁には更衣室でのスマホ利用禁止を訴えるポスターが貼られており、ポスターの効果のなさを実感する。もちろん注意できるような正義感もないので見て見ぬふりをして空いているロッカーを探す。

 壁際には上下二段の縦長の大型コインロッカーがずらりと並び、フロア中央には上下四段の正方形の中型コインロッカーが背中合わせで20列ほど並んでいた。大型コインロッカーは全て埋まっており、中型コインロッカーも膝を折らなければならない一番下か、奥が見えにくい一番上がいくつか空いているだけだった。仕方なく、真ん中の方の空いている一番上の段に脱いだ服と荷物を入れて浴場に向かう。


 手短に体を洗い、さっそく一番大きな風呂に入る。7〜8人がそれぞれ適当な間隔をあけながら浸かっている湯船の空いている隙間に入れさせてもう。ああ、気持ちいい。冷えた体を心地よい湯が温める。疲れと一緒に溜まっていたストレスが湯に溶けていく。長い坂道、受付の行列、入れにくいロッカー、全て許そう。そんな菩薩のような気分させてくれる効能が温泉にはあるような気がする。

 ひとしきり大風呂で体を温めたあとはサウナや炭酸風呂、電気風呂などの内湯を堪能し、露天風呂へ出る。肌寒い二月の外で夜空を見ながら湯に浸かるのはなんと贅沢なことか。もう少し人がいなければもっと快適なのだが、今は菩薩モード。そこは目を瞑る。そんな風にのんびりと湯に浸かっていると館内アナウンスが流れた。


『お客様の中に85番のロッカーをご利用中のお客様はいらっしゃいませんでしょうか?お伝えしたことがございますので更衣室までお戻りください』


 右手首に巻かれた自分のロッカーキーの番号を確認すると77番と書かれてあった。自分が呼ばれている訳ではないことを確認し、引き続き湯に浸かる。しばらくして、ふと考える。何があったのだろう。

 ロッカーのトラブルといえばロッカー利用者が鍵を紛失してしまい開けられなくなった状況だろう。しかし、紛失した鍵を探しているのであればあんな言い方ではなく「85番のロッカーキーを見かけられたお客様」とか「85番のロッカーキーをお持ちのお客様」のような言い方になるのではないか。

 鍵の紛失でないとすれば、85番のロッカー利用者へ急ぎ伝えなければならない個人的な用事、例えば「ご家族が事故にあったので今すぐ病院へ」とか「他の車が出れないので駐車場の車を動かして欲しい」などだろうか。いや、それも無い。この施設では更衣室のロッカー番号の指定はないので、誰がどこのロッカーを利用しているかは利用者本人しか分からないはずだ。仮に家族に事故があった人がいたとしても、その人が利用しているロッカー番号はその人しか知らないはず。それに個人的な用件なら「〇〇市からお越しのXXさん」など名前で呼んだ方が確実だ。車を動かして欲しい場合なら車のナンバーで呼ぶだろう。

 鍵の紛失でも個人的な用件でもないならどういう状況か。85番のロッカーが閉まっていない状況はどうか。荷物が入っているのに鍵を閉め忘れており、それを見たスタッフが盗難を危惧して親切心から呼び出している状況。確かにこの状況ならあのアナウンスで出てくるだろう。しかし、荷物を入れたままで鍵を閉めていない状況は更衣室ではよく見る光景とも言える。お風呂上がりにロッカーを開けてタオルを取り出してそのまま鏡の前に行きドライヤーで髪を乾かす。短い間だし鍵は閉めなくてもいいだろうと楽観的に考える人はいるはず。というか自分がそうだ。その都度アナウンスしていたらキリがないように思う。

 閉め忘れでもなく「ご利用中のお客様」と言っているからにはロッカーは閉じている状況と考えられる。閉じたロッカーに利用者の個人的な用件以外で伝えたいこととなればロッカーを開けて欲しい以外にないだろう。誰がなぜ開けて欲しいのか。むむ、分からなくなって来た。少しのぼせて来たので露天風呂から出る。

 ベンチに腰かけて別の角度から考えてみる。85番のロッカーとはどこのことだろう。自分が77番なので割と近いロッカーだ。上下四段の中型ロッカーだったはずなので右か左の2列隣で、自分と同じ一番上のロッカー。この人も自分と同じように一番上か一番下しか空いていなかったのだろうか。自分と同じように渋々一番上のロッカーを使うその人を想像する。

 ・・・そうか、忘れ物か。現在の85番のロッカー利用者の前に85番のロッカーを利用していた客が忘れ物をしたのだろう。

 忘れ物に気付いた前利用者は更衣室に戻るがすでに85番のロッカーは新しい利用者によって閉ざされていた。困った前利用者がスタッフに事情を話し館内アナウンスで現在の利用者を探してもらう。一番上のロッカーは奥が見えにくいことを考えれば、前利用者が忘れ物をしたのも、新しい利用者が忘れ物に気付かず自分の荷物を入れるのも理解できる。

 一度思いつけばそれ以外ないように思えた。なんだ、思ったより平凡な結末だ。推論していくうちに殺人事件や偽札事件が判明するような衝撃的な結末を少し期待していたがそんなものは小説の中だけ。事実は小説より平凡なり、である。

 しかし、いい暇つぶしになった。生産的でなかった週末も日々の疲れをとった上に謎解きまで満喫できたのだから有意義な週末と言えるだろう。それにしても、忘れ物ならそうアナウンスすればいいのに。まさかアナウンスできないような事件性を孕んだ理由が・・・。いや、考えすぎか。探偵ごっこはやめて、そろそろ帰るとしよう。


 温泉施設を出ると時刻は21時10分になっていた。また24分かけて4.7㎞を自転車で漕ぐことを考えて少し億劫になる。いや、下り坂だから今度こそ18分か。いずれにせよ家に着く頃には21時半頃だろうか。4.7㎞は少し遠い。




「あの、さっきアナウンスで言ってた85番のロッカーを使ってる者なんですが・・・」

「あ、お客様でしたか!大きな声で言えないのですが・・・実は85番のロッカーに盗撮カメラが仕込まれている可能性があり、今すぐ調べさせていただいてもよろしいでしょうか?」

 推論はたいていの場合、誤りであることが多いのである。

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