第26話 幸せな日々が
わたしはスキー場のてっぺんで、綿貫さんの申し出を受けた。
いわゆる『彼氏がいる』といって良い状態となった。
その日の夜は電話で一時間ほど綿貫さんといろんな話をして楽しく過ごした。
次の日にスミレを部屋に呼んだ。
「さてスミレくん、話を聞いてもらおうか」
「お、おう」
彼女に要点と結論だけ告げた。途中の、改めて口に出したら恥ずかしくて表の交通量の多い通りに飛び出してしまいそうになる部分については、バッサリとはしょった。
「今現在アポイント取っている分については責任もって会うから、それで終わりにさせて」
綿貫さんと真剣に交際するのだから、スミレの手伝いは終わらせてもらう。
わたしは何の疑問も持たずにそう思って話を進めたのだが、スミレの反応が予想と違った。
「もうちょっと喜んでくれるものだと思ってたよ」
戸惑いを口にしても、スミレの表情は変わらなかった。重く考え込んでいた。
「ああ、いや、嬉しいよ凄く。ほんとはもっと弾けてあげたいんだ。本当だよ。この場であんたのため込んでいるお酒を全部飲み干してしまいたいくらい」
「それは困るけれども」
「間の悪いというか。今日職場でしぼられちゃってね。どうにも気分が沈んでんだわ」
「大変だったの?」
「過去最大級のかみなり」
スミレは缶ビールの残りをいっきにあおった。
「もうちょこっと、お見合いを追加させてもらえないかなあ」
うつむく彼女の眉間には苦しみが深く刻まれている。
「できるだけの協力はしてあげたいけど、綿貫さんに悪いでしょ」
山の上で彼の温かい腕に包まれたとき、幸せと共に胸の痛みがあった。
わたしには話さなければならないことがもうひとつある。
「うん、正論をいっているのは朔のほうだ。わたしの実力不足が何より悪いんだ。でもほかに頼れる人がいないのよ。綿貫さんに出会えたことについてはわたしもそれなりに貢献できたわけでしょ。だったら恩着せさせてよ」
「スミレ」
彼女は何も答えない。
「スミレこっち向いて」
「何」
「すぐにとは言わない。でもさ、あなた今の仕事をやめたほうがいいと思う。だってね、あなたには向いていない」
「どうして朔にそれが分かる」
スミレの暗い瞳。
「分かるよ。あなたはつらい作業をつらそうにこなしている。それは向いていないということなの」
「わたしは!」
彼女の大声でわたしの言葉はさえぎられた。
「やるべきことをやって、ちゃんと生きてんの! 何もかも足りているなんては思わないけど、これが精いっぱいなの!」
声が響き渡り、それからすべてを阻むような沈黙がやってきた。
スミレの嗚咽があたりに悲しく沁み渡った。
「朔、わたしはこの真っ暗な道を走り続ければいつかは幸せになれるって、それだけを信じて毎日どうにかやっているのに、簡単にやめろなんて言わないでよ。あんたにだけは認めてもらいたいのに」
彼女の震える肩にそっとふれた、
「わたしも認めてあげたいよ。でも難しいんだ。だってわたしたちは正しくないことをしている」
ゆっくりとスミレが落ち着くのを待った。
「ねえスミレ、スキーショップのおじちゃん覚えている? 去年一度、わたし行ってみたよ」
「懐かしい」
はるか昔に何年間も福島でトップの座を守り続けたという伝説のスキーヤー。
今は親子でログハウス風の趣味のいいショップを営んでいる。
わたしもスミレも彼にブーツを作ってもらった。
丁寧に足の型をとる様子をわくわくしながら見つめていた。
「おじちゃん元気だった?」
「うん、とっても。スミレにも会いたがっていたよ」
「好きだったなあ、あのお店。おじちゃんがコーヒー入れてくれて、流れてる海外のレースビデオをいつまでも見ていた」
「あんなお店を自分でも持てたらなあって想像したことない? わたしは何度もある」
「考えたことあるよ、わたしも。でもあきらめてしまった」
「どうして?」
「力がない。知識でも叶わないし、選手としての確かな実績があるからこそ、あの人は信頼がある。わたしは何も及ばない」
「確かにね。でもわたしとスミレで共同経営すればなんとかなるかもなっても考えたことがあるよ」
「あんたと?」
「二人合わせても、あの人のようにはいかないけれど、それでもだいぶ近づけると思うのよ。二人ならば。楽しそうでしょ」
「すごい」
スミレの暗かった顔が温かくほころんだ。
「朔、いまとてもくっきりと絵が浮かんだ。あんたがコーヒーを入れて、わたしがブーツを作って。お客さんにスキー板を勧めるのにあんたとわたしじゃ好みが違くて、ああでもないこうでもないともめちゃって」
「冬の終わりには若いお客さんたちが報告に来てくれるの。作ってもらったブーツで、勝ちました、とか、検定で一級取れました、とか。ううん、そんな大層なものでなくとも、楽しく滑ってくれればそれでいい。わたしたちが手掛けた道具で、スキーヤーを守ってあげるんだ」
きらきらした光が二人の心の中をしばらくさまよって、そしてゆっくりと消えて行った。
「でも駄目だ。そんな冒険はできない」
「そう? まるっきり可能性がゼロではないと思う」
「あんただって保育士の仕事を全力でやってんでしょ? 命かけてんでしょ?」
「うん」
「わたしだってそうだ。のめり込んでいる。ほっぽって逃げてしまうには、あまりにも大きなものを費やしてきた。無駄にしてしまうのは悔しい」
「このまま続けて、あなたはいつか楽になれるの?」
「なれるさ。なって見せる。確信があるからやってんだこっちは。いままでの苦労をむだにしてたまるものか」
苦く燃えるスミレの瞳をわたしはじっと見つめた。
「よし分かった。スミレ、必ずやりとげろよ」
わたしは折れた。秋平さんごめんなさい。
土曜日に数件お見合いをこなして、日曜日に綿貫さんと遊びに出かける。そんないびつな日々が始まった。
お見合いの合間に、スミレが男性会員に向けてきりっとした笑顔で応対しているのを見ているとうれしかった。
「朔よ。今日の三件とも、もう一度会いたいと言われてしまったぞ」
「ありゃ絶好調だ。こういうものなんだね」
「だって声が弾んでんだもん朔、傍で聞いてても可愛いよ」
「そんなに露骨?」
「幸せなんでしょ。惚れちゃってるわけだ。綿貫さんに」
「まあね。けど改めて最悪だよねわたし。相手の男性はわたしと一生を共にすることができるかどうか、懸命に見定めようとしてくれているのに、わたしは表っ面だけ笑ってこなしてんだ」
「でもあなたはわたしを助けてくれている」
結婚相談所の入っているマンションの廊下で、スミレは穏やかにタバコの煙をくゆらせた。もちろん三件とも断りを入れた。わたしを好きだと言ってくれたのに。
綿貫さんとは色々なところに行った。あのフレンチレストランにもランチを食べに連れて行ってもらった。
「そっか、お前らくっついたのか。良かったなあ」
シェフさんが心底喜んでくれて、わたしたち二人は照れた。
「なにが決め手だったのさ、綿貫」
「本人の前で言わすなよ」
「いいじゃん教えてくれよ。朔ちゃんはどこが良かった? こんな薄暗い唐変木」
「秋平さんは最高じゃないですか。どこからどう見ても」
「おお」
「いや、やめてくれって朔」
「わたしはしょげていたんです。リフトが止まっちゃったから、もう滑れないなあって。だったら歩いて登っちゃえば良かったんです。ね、秋平さん」
「そういうことなんだろな」
「二人で秘密っぽい会話すんのやめて」
「朔をこの前ゴルフの打ちっぱなしに連れてったんだけどね。すげーの」
「上手いの?」
「上手いし、ほっとくといつまでも打ってる。あの日四〇〇球打ったっけ?」
「そのあとでパットを二〇〇」
「体幹のバランスを気にしてたまに左打ちでも素振りしてんだぜ。見たことないよこんな女の子」
「そうやって人をアホみたいに。わたしスキーやってたから、左右非対称の動きって気になっちゃうんですよ」
シェフさんを交えてゴルフ場デビューする約束をして店を出た。
「そのうちゴルフでもってやつね。新橋のサラリーマンにでもなった気分」
「朔」
車に乗り込んでドアを閉めると秋平さんが何気なく声をかけてきた。
「何?」
「あなたの明るくて、しなやかで、自分のペースで進んでいけるところが気に入ってる」
「へ?」
「それからかわいい」
わたしはシートベルトを持つ手がぴたっと止まって、それから大いに照れた。顔はまっかっかだったろう。
「秋平さん。気取らなくて、心が広々として、わたしのわがままに付き合ってくれるところが、大好きです」
結婚相談所のきまりで、交際を始めてある程度の期間が過ぎると結論を出して、報告するという規約になっていた。別れるか、もしくは結婚するか。だらだら付き合い続けるというのはダメと決まっていた。
結婚ですか。
ついこの前まで、世捨て人のようだったわたしにとってその単語は唐突に過ぎるものだった。でも本当に綿貫さんのお嫁さんになれるのだとしたら、何の異存もなかった。
さいころ保育園で、子供たちの使った食器を下山さんと二人で並んで洗っていた時のこと。彼が声をかけた。
「最近明るいね」
「え、そうですか?」
考え事をしていたわたしからの答えが鈍いものであっても、ひとつも気にするふうでもなく彼は黙々とコップを洗い続けた。子供たちはみんな家から持ってきた自分のコップを使っている。たくさん並んだコップの中に、太郎くんのものはもうない。下山さんは一人ぼっちになってしまった。
でも下山さんの横顔は穏やかだった。家に帰ればいつも彼は一人。暗い部屋の電気を自分でつける日常。でも彼はきっと孤独ではない。誰に問われようとも胸と大きなおなかを張って彼は答えるだろう。
「僕には家族がいる」と。
とてもうらやましい。
「下山さん、わたしね」
「うん?」
「彼氏ができた」
改めて口に出すとなんとも照れ臭い。
「そっか」
下山さんは温かく微笑んでくれた。秋平さんがどこで何をしている人なのか、色々と教えた。
「おめでとう」
「ありがとうございます。もしかしたら結婚するかもしれません」
「幸せいっぱいだ」
「なんだか慣れないです、幸せというものに。浮かれたかと思うと、突然何もかもが不安になって。わたしはこんなに情緒不安定な人間だったのかと戸惑っています」
「蝶々のことを平安時代のころは『てふてふ』って読んだんだってね。学校で習ったでしょ」
「急になんです?」
「読み方だけでなく、意味も今とは違う単語がよくあった。いくつかの意味が混ざっていて、後に枝分かれしていった」
「へえ」
「『愛』に『しい』と送り仮名をつけて、『いとしい』。昔はこれを『かなしい』とも読んだ。二つの言葉が在るのだから、二つの違う意味なのだと僕たちは思い込んでしまっているけれど、ほんとは同じものなのかもしれないよ。平安の時代からずっとね」
秋平さん。
「言葉ってすごいですね」
「すごいよねえ」
秋平さん。愛しいです。
「下山さん。あのね」
「何?」
「いつかあなたのような親になりたい」
「僕なんて最低の部類だよ」
彼は照れ臭そうに眼を細めた。
「朔ちゃんの結婚式か。面白そうだ。楽しみだよ」
「面白いという形容はどうでしょう」
「余興は任せて。腕が鳴る」
何をする気なのだ。
雨の夜にスミレと会った。
わたしが店に着くと、彼女はカウンター席で先にカクテルグラスを傾けていた。シックな黒いスーツが今日もカッコいい。
「スミレ、あなたはいい女ね。わたしが男だったら、間違いなく声をかけてるよ」
「いまどきこういうの流行んないから」
赤いカクテルが揺れた。わたしが隣に座ると、スミレは格好つけてバーテンさんに「同じものを」と告げた。飲み物を待つ間、スミレが何も話さないので店の中を見回していた。
少ない客たちがそれぞれの時を過ごしていた。
夜の底でじっと佇む影のように見えた。陽が昇れば彼らは消えてしまう。もしくはあまりにもはっきりとその姿を晒されてしまうだろう。でも彼らはそれをただ待っているのだ。
赤い飲み物が届いて、わたしはそっと口をつけた。
スミレは目を閉じてうつむいていた。
「朔、話があるんだね。たぶん何が言いたいのかわかるよ。わたしだってバカじゃない」
「待っててくれたんでしょ。わたしが話す覚悟を決めるまで」
耳を澄ますと雨の音が僅かに届いていた。流れるレコードのピアノと、綺麗に交じり合う。
「秋平さんに話す。わたしとあなたが今までやってきたことを。そしてもし彼が許してくれたなら、受け入れてくれたなら、わたしと秋平さんは夫婦になると思う」
「駄目だよ。それだけは」
スミレは首を振った。
「正直がいつも最善の策とは限んない。朔は秋平さんが許してくれると思っているの?」
「わからない。拒絶されて当たり前だと思う。わたしがそうするべきと思っているだけ。でも秋平さんは受け入れてくれるような気もしている」
「信頼しているんだね、彼を。朔がそういう人に出会うことができて良かった。ほんとにそう思うよ。でもね、わたしは秋平さんをあなたのように信じるわけにはいかない」
雨は歌い続ける。遠いところから。スミレは一度も目を合わせてくれない。
「秋平さんが訴えることによって、これは立派な犯罪となる。ただの規約違反じゃない。会社ぐるみのお見合い詐欺だ」
「わたしが自分の判断のみでやったことだと言う」
「あなたはうちの相談所を通してしかお見合いをしていない。担当もわたしだけだ。知らなかっただなんて誰も納得してくれない」
「見逃して、スミレ」
「駄目よ。会社が破滅して、わたしも破滅する。どうしても駄目。ねえ朔。あなたの今の状況が何か特別なものだなんて考えないで。ひとつやふたつの秘密はどの夫婦にもある。男と女なんてそんなもの。わたしだって旦那のプロポーズを受けたとき、ほんとはもう一人好きな人がいた」
「でもわたしは」
わたしを見守ってくれていた者たちのために、自分にでき得る限りの誠実なふるまいで応えなければならないのだ。そうでなければ。
「スミレ。あなたにも嘘をついていたことがある。北野くんはわたしが一方的に振ったの。彼は何も悪くない。ここでわたしが、自分の心に背くことをしてしまったら、それは北野くんに失礼だ。そしてあのころ、生真面目に、バカみたいにまっすぐに北野くんのことを好きだった、子供のころのわたしに対しても失礼だ」
「あなただけの問題ならばそれでいい。でもわたしを巻き込むな」
「巻き込んだのはあなたでしょう? わたしは初めから人を騙すようなことなんてしたくはなかった」
「いまさらそんなことは通らない。秋平さんにだって通用しない。それにね、ここでやっと正直になったって、北野くんだって許してくれないよ。あいつ、一度わたしに会いに来た」
「え、どうして」
「北野くん、上手くいってないよ。あんたと別れてから何もかもうまくいってない。スキーは続けていたけれど、今は見切りをつけて会社勤めをしている。でも上手くいってない。会社がつぶれたり、リストラされたり。どうしてこんな目にあうんだろうと嘆いてた。彼に会ったのはつい最近だ。あんたのほうから振ったことは、実は北野くんから聞いていた。わたしは朔を責めているんじゃない。誰だって似たようなもんだ。いろんな綺麗じゃないものを抱えて、それでも人は幸せになっていいんだ」
わたしは北野くんのことを思った。どうしたら彼は上手くいったのだろう。あのとき喧嘩していたわたしとスミレにやさしく声をかけてくれたのが、そもそも間違いだったとでもいうのだろうか。
「じゃあもう知ってたんだスミレは。ほかにも北野くんは何か言っていたでしょう」
中学のときにわたしがしてしまったこと。北野くんと別れた理由。スキー競技もやめてしまった理由。
スミレの言うとおりだ。自分だけならともかく、そんなことに北野くんを巻き込んで不幸にしていいわけなどない。
「え」
スミレは何のことを言われているのか分からないようだった。二人ともしばらく黙った。
行きかう影の流れから離れた場所で、いっとき置き去りにされたようだった。
言わないでいてくれたんだ。北野くん。
恨む気持ちがあるだろうに、それでもわたしを庇ってくれた。
頬を、暖かい涙が流れた。わたしにこんな涙を流すことができるとは。
「ホントだ。ねえスミレ、誰もかれも嘘つきばっかりだ。でも誰のことも嫌いになれない。わたしはどうしたらいい」
わたしはスミレにもう一度、すべてを話すと告げた。
「分かった。もういい」
スミレは店を出て行った。まだ雨は降り続いていた。
わたしは嘘をついた報いとして友を一人失うのだろう。
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