第25話 世界で一番美しい場所で

 開成山球場での試合があった夜。わたしは綿貫さんに向けて、長いメールを出した。


 もう一度会ってほしいという内容だった。


 ためらいはあったけれども意を決して送信ボタンを押した。でもすぐに、見たことのないエラーメッセージが帰って来た。


 すごく回りくどいことが書いてあるけど、要するに着信拒否だった。


「そんなあ」

 フレンチレストランで食事をしたときの綿貫さんの穏やかな顔と、冷たいメッセージがどうしても結びつかなかった。


 孤独を感じた。悔しかった。


 でも逆の立場として、わたしは何人もの男性にこんな思いをさせてきたわけだ。報いを受けているのだと思った。


 あきらめるべきなのだろうか。


 スミレが言っていた。

「フラれても執拗に食い下がる男ってのはいっぱいいるわけよ。プライドが許さないんだろうね。こっちは『男らしくない』っていう魔法の言葉であきらめさせるだけなんだけど」


 なるほどね。どんな仕事にもプロのノウハウってものがあるんだね。

 でもねスミレ。

 わたしはこれでも女性なので、男らしい必要はない。


 ノートパソコンを開いた。少ない知識を総動員して、キーボードをたたく。

 作業をしながら、下山さんの力走と、太郎くんのまなざしを思い出していた。胸の奥があったかくなった。


 わたしはパソコンで、さっき送り返されたものと同じ文面のメールを作成した。

 電子メールは携帯からしか使ったことがなかったので、パソコンで新たにアドレスを取得するのに手間取ったが、どうにかできた。


 わたしは送信ボタンを再びたたく。


 どんな返事がくるかは分かったものではないが、これで今度こそわたしの意思が綿貫さんのもとへ届く。今頃メールに目を通しているのだろうかと考えると落ち着かなかった。


 わたしの精神は、どうやら何かを思い出そうとしているようだった。兆しは少しずつあったのだが、ここにきて加速度を増したその原因は、たぶん今日の試合での下山さんの姿だ。彼にお礼を言うべきなのか、恨み言をぶつけるべきなのかはまだわからない。


 返事が来るまで三日待たされた。


 あきらめかけていたところに携帯が鳴った。綿貫さんからのメールが来たことを告げる文字を見たとき、どきりとした。


『メールありがとうございます。返事が遅れてすみませんでした。次の日曜に時間を取れると思います。もう一度会って話をしましょう。そうすべきとは思っていました』


 望んだ言葉だったはずなのに、なぜか寂しさを感じた。もっと長い時間、綿貫さんからのメールを待ち続けていたかったような気がした。



 その日は快晴だった。あのあとも数回、互いに感情を感じさせない事務的なメールをやり取りして、ドライブに出かけることで話がまとまった。


 行き先はどこでもよい。とにかく密室で二人、まとまった時間話し込むことができればそれで良いのだ。


 晴れて助かった。どんより小雨交じりの中で話し合うのはさすがに気が滅入る。


「じゃ、乗ってください」

 待ち合わせ場所で、綿貫さんの表情は重かった。互いに鏡を見ているようだった。


「下道でいいですよ」

 赤いRV車の助手席に乗ってどこに向かうか聞かれたので、交通の少ない方向がいいと思い会津方面に行ってもらうことにした。


 綿貫さんが磐越道に乗ろうかといったのでわたしは国道四十九号をたらたらと走るルートをお願いした。


 高速に乗ったらあっというまにドライブが終わってしまう。それに綿貫さんはこの前の食事の際にもお金をすべて払ってくれた。今日も言ったってわたしに払わせてくれないだろう。時間をとらして、そのうえ余分なお金を使わせてしまっては申し訳ない。


 郡山インターを通り過ぎて、山へと向かっていく。


 会話はあったが、本題にはなかなか向かわない。天気の話がしばらく続いて、それから震災の復興の話とか、職場の同僚が太っている話とかで間をつなぎ、凝り固まった空気をほぐそうとした。


 切り出したのは綿貫さんだった。


「この前、レストランでは失礼しました。ほかに言い方はなかったのかと反省してます」


「ええ、驚きましたよ」


 息を整えて尋ねた。

「わたしの何が悪かったのですか?」


 車は猪苗代湖の手前まで来ていた。


「朔さんは何もしていません。あなたは気取りのない、一緒にいて疲れない、とってもいい人です。僕にあなたを受け入れる準備がまるで整っていないというだけなんです」


「準備ですか。それ、実はわたしもできてません。あなたのことをどう思っているのか。自分で自分の気持ちがちゃんとは分かっていません。でも時間をかければあなたと今までと違う場所に進むことができるんじゃないかと思っていました。今は良くお互いのことが分からなくても信じてみる。そういうものではないんですか? わたしたちのやっていることって」


「あのレストラン、前の彼女と行ったんです」

「へえ?」


 湖が見えてきた。清らかな水面が光っている。反対側の遠い山々までくっきりと見えた。


「綿貫さんは新しい彼女さんができるたびにあのお店を使っているんですね。やるじゃないですか」


「連れて行ったのは朔さんが二人目です。前の彼女とは何度か行きました。あそこでプロポーズしてOKをもらいました」


 わたしは綿貫さんの横顔を見た。彼は時の向こう側を切なくみつめていた。


「その子は会社の同僚で結構長く付き合っていたんですけど、結婚って感じじゃなかった。不満に思っていることもあったし、長い一生をずっと一緒に歩き続けるイメージがどうも湧かなかった。ちょっとずつ年取ってきちゃってたんで、どうしたもんかなってたぶんお互いに思っていたんですけど、そこにあの震災が起きました。僕と彼女は仕事で南相馬に行ってたんです。津波に遭いました。二人で車に乗って逃げたけど波に追いつかれて流されました。最終的にはがれきに引っかかって車が少しの間留まってくれたので窓から逃げだすことができたんですけど、水でタイヤがふわっと浮かんじゃったときは、ああもうダメなんだなって思いました。観念して、それから助手席の彼女のことを見ました」


 車が信号で止まり、綿貫さんはゆっくりとこちらを向いた。


「死ぬ時ってやっぱり取り乱しちゃうんだろうなって想像していました。でもそのとき二人とも自然に笑っていました。彼女の笑顔はすべての感情が溶け込んで一つになったようなとても澄んだものでした。何も言葉を交わさなくても彼女の心の声が聞こえました。『最後はこんな終わり方になっちゃったけれど、今まで楽しかったよね。良かったね』と」


 信号が青に変わって綿貫さんは前に向き直った。赤い車は重いエンジン音を鳴らして走り始めた。


「命の危険を乗り越えて、なんだか盛り上がっちゃったってだけのことなのかもしれないですけど、津波から助かって郡山に戻ってきてから、彼女のことを本当の意味で真剣に考え続けました。あのレストランは震災で建物が少し壊れちゃって、食材も揃わなかったので三か月休業しました。再オープンの初日に僕は彼女を連れて行き、この間のあの席に座ったんです。そして結婚してほしいと申し出た。彼女はちょっと泣きべそかきながら、いいよ、って言ってくれました」


 わたしは窓の外の猪苗代湖を見つめながら話を聞いていた。救いを求めるように見つめ続けていた。


「帰りに彼女を送って、買い物があるというので途中で降ろしました。自分のマンションに戻り、結婚が決まったことを最初に誰に知らせようか考えていると、携帯電話が鳴りました。病院からでした。彼女が交通事故で亡くなったとの知らせでした」


 ああ。

 わたしは馬鹿で、それから傲慢だなあ。


 どうして色々と抱えているのが自分だけだなんて思い込むことができたんだろう。


「こんなところで、あなたへの説明としては足りていますかね。僕には二時間だけですけど婚約者がいました。戸籍上はどうであろうとも、一度結婚したと思っています。それからずっと苦しんでます。俺たちせっかく助かったのに、あんなとんでもない地震を乗り越えたのに、なんで彼女は車なんかにひかれなくちゃいけなかったんだろうとか、どうにもならないことを考え続けています。このままじゃいけないと思ってお見合いをしてみましたけど、まだダメでした。あなたがいい人だったので、もしかしたら何とかなるかもと思いましたが」


「ごめんなさい」

 わたしは綿貫さんの話をさえぎった。


「謝ることじゃないですよ、朔さん。どっちかが悪いなんて単純な話にできたらどんなにいいかと思いますけどね」


「でもわたしは、こんなふうに無理をいってもう一度会ったりすべきではなかった。フラれた。ただそれだけで終わらせればよかったんです」


「だって納得いかなかったんでしょ? 僕だって立場が逆ならば同じようなことをすると思いますよ」


「胸の奥で考えていることを聴くことができれば、お互いに楽になれるものだと思っていた。でもあなたはそんなにもつらそう!」


 綿貫さんの目は涙でいっぱいになっていた。

 人って、どうしてこんなにもうまくいかない。


「綿貫さん、ここを曲がってもらえますか?」

「あ、うん。分かった」

 目の前には大きな山がそびえていた。母なる磐梯山。何も変わることなくそこに在った。


 わたしは「ひさしぶり」とささやいた。


 初夏の猪苗代スキー場にはもちろん誰もいなかった。空っぽの駐車場に車を停めてもらって、わたしたちは外に出た。


「綿貫さんは初めてですか、この場所?」

「ええ、冬はこたつで丸くなってるほうなんで。湖がきれいですね」


 猪苗代湖。自分が褒められたかのように嬉しい。


「昔はずっとここで過ごしていました。わたしがスキーをやっていて、いい成績を取ったことはお話しましたよね。そのへんのことで実はまだ話していないことがいくつかあります。つまらないかもしれませんけど、聞いてもらえますか? それがつらい話をさせてしまったわたしができるささやかな償いです」


「はい。聞かせてください」


 わたしは頷き、語りだした。あの事故のこと。一心に滑り続けた日々のこと。わたしがレースの前の日にやってしまった許されない行為のこと。


 鏡のような猪苗代湖の姿を見るのは本当に久しぶりだった。


 その水面の光は、すべての迷いを吸い込んでくれる真実のようなものだった。


 わたしにとっての世界で一番美しい場所。最初で最後かもしれなくとも、綿貫さんに見せることができて良かった。


 話しながら北野くんのことを思い出していた。わたしはいつもこうだ。北野くんも、綿貫さんも、黙ってわたしの汚らしい告白を聞いてくれた。わたしがそうするしかない状況へ彼らを追い込んだ。


 話が終わり、二人とも黙った。


 わたしは答えが欲しかったわけではない。なのでこのまま何も話さず、これきり永久に会うことがないとしても悔いはなかった。


「我ながらちょっとうっとうしかったですね。気にしないでください。わたしはハッピーエンドなんですよ。分かりますか? もう幕は下りました。残りの人生はおまけのエピソード。最後にひょいっと付け足された一行。悔いはありません」


「朔さん」

「分かってます。生き残ったものには残っている時間を正しく生きる責任があることくらい。でもこれはわたしが自分なりに精一杯やった結果なんです。受け入れる権利がわたしにはあって、誰にも文句を言われたくない」


 綿貫さんは何も言わない。じっとわたしを見つめる。彼にどう評されても構わない。仕方がないことだ。


 振り返って、そびえる磐梯山を見上げた。かつてわたしたちに大きな力を与えてくれた山。

 わたしはあの子たちのことを思った。


 そしてわたしは歩き出した。苛立ちに任せて、雪のないゲレンデを登りはじめた。


「朔さん、待って」


「帰ってください綿貫さん。わたしは実家が近いのでどうにでもなります。さよなら。わたしのことなんか忘れてください。そしてあなたは、いつか良い人と幸せになることをどうかあきらめないでください」


 青い草木や小さな花たちが、なんだなんだと、怪訝にわたしのしかめっ面を覗き込む。

 磐梯山のてっぺんを睨みつけて、しゃにむに歩きつづけた。意味などなにもない。疲れるだけの行動。


 やめよう、もう。


 スミレには迷惑をかけてしまうけど、残りのお見合いは全部キャンセルだ。


 郡山に固執して住み続けることにだってどれほどの価値があるというのか。


 あんな給料の低い疲れるばかりの仕事など、もっとましなのがほかにいくらでも見つかる。


 わたしは身軽にどこにだって行けるのだ。それだけが取り柄だ。逃げよう。


 どんどん坂は急になる。振り子坂と呼ばれる一枚バーン。猪苗代の子供たちはこのバーンに育てられて大きくなっていく。


 ナイターに使われるゲレンデがここなので、一番回数を滑った場所だ。吹雪に晒される夜も、雲一つない夜も、かたくなに滑り続けた。


 息が苦しくなってきた。足もだるい。背中がじめじめしてきた。暑いのは大嫌いだ。もう高校生だった頃の体力などすっかりなくなってしまった。


 それでもわたしは冬の月に照らされた真っ白い清廉な世界を思い出しながら、ただ上り続けた。


 わたしの町よ。闇などすべて振り払え。


 何も見えなくなるまで、何も聞こえなくなるまで、歩みを止めるつもりはなかった。


「登るとさらにきれいですね、湖」

 声をかけられて、夢から揺り起こされたかのように驚いた。


「綿貫さん」

 振り返ると、綿貫さんが額に汗を浮かべてそこにいた。息が苦しそうだった。


 言われて湖に目をやった。


 視界いっぱいに広がる天の鏡。気づけば長い振り子坂をぜんぶ登り切ってしまっていた。


「夜もきれいなんですよ。湖の輪郭が何となくわかって、ささやかな町の光がとっても愛おしいんです」


「見てみたいですね、いつかそれも。さてどうします。一番てっぺんまでこのまま上りますか? 付き合いますよ」


 二人とも息が荒く、声を出すのが苦しい。

 わたしは坂の続きを見上げた。


「てっぺんには国体に使われたコースがあります。遠いしすごく急ですよ。無理しないほうがいいです。お互いに」


「いいじゃないですか。登りたいなら登りましょう」

 綿貫さんがいたずらっぽく笑うのでわたしもつられてしまった。


「バカですね。わたしたち」

「ええ、大バカです」


 二人でスキー場の一番上まで登った。心臓がつぶれるかと思った。でもやめるつもりはなかった。歩を進めるたびに、磐梯山に何かを問われているような気がした。わたしは答えるかわりに次の一歩をまた踏み出した。


 嘘だよ。全部嘘。

 スミレとの約束を破るなんて死んでも嫌だ。

 郡山が大好き。子供たちと触れ合える仕事が大好き。一生続けたい。


 わたしと綿貫さんはいつしか手をしっかりとつないで坂を登っていた。

 いや、『いつしか』という言葉はどこかずるい気がするので訂正する。わたしは彼に触れてほしかった。


 最後の一歩を登り終えて、だいぶ近くなった磐梯山の山頂を息も絶え絶えにひとにらみした。それから猪苗代湖をかえりみた。


 世界が変わっていた。


 それまで静かに見守ってくれていた大きなものたちが、鮮やかな彩にその身を染めて、弾けるように舞っていた。


 目の前に人の顔が浮かんだような気がした。何年か前に亡くなった祖母の顔。とてもわたしを甘やかしてくれた、世界一やさしい人。


 その向こうに何人もの笑顔が次々と現れて見えた。


 見たことがある人もあれば、知らない顔もある。でもわかる。わたしのご先祖様だ。列は遠い時を超えてずっと続いていた。彼らは坂の下からわたしたち二人を見上げている。


 みんながわたしを応援していた。わたしが気づかなかっただけで今までずっと応援してくれていたのだ。命が繋がっていくことを精いっぱい祈ってくれていた。

 お前は登りきった。さあ、あとは滑るだけでしょう。速く。強く。


 そしてわたしは夢を思い出した


 昔の夢。捨ててしまった想い。北野くんのお嫁さんになりたくて仕方がなかったころの自分を思い出した。


「朔さん、俺と付き合ってください」

 綿貫さんがまっすぐわたしを見つめてくれていた。こんなところまで一緒に登ってきちゃって。この人は降りることを考えていたのだろうか。歩いて下るのって想像以上に疲れるというのに。


 お互いに汗だくだったけど、構わなかった。

 わたしは彼の胸に顔をうずめた。愛おしかったので。


 山の頂上から一陣の風が吹き、わたしと綿貫さんをやさしく包み込んだ。


 こうしてわたしの胸の奥で、命の鐘はもう一度高らかに鳴り響きはじめたのです。恥ずかしながら。

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