第24話 開成山球場
翌週、開成山球場でプロ野球のナイトゲームが行われた。とても盛り上がったそうだ。
わたしは仕事だった。野球は専門外だし別に良かったが、下山さんを初めとする同僚たちは少し残念そうだった。でもわたしたちはイベントに向けた準備のために忙しかった。
わたしたちが開成山球場を訪れるのは明日、試合の翌日だ。そこで父兄有志による草野球が行われる。
今夜の試合に出ているはずの竹本選手が被災地訪問の名目で、それに参加してくれることになっていた。プロデュースド・バイ・下山。驚きの企画である。テレビ局などにも連絡してあるので、いくつかの取材があるだろう。
「あんまり言いふらすのはどうかと考えたんだけどね」
プロモーター下山はポテトチップスコンソメ味を三枚いっぺんにかじりながら、考えを述べた。
「震災直後に、お笑いの江頭さんがいわきに救援物資を積んだトラックを自分で運転して現れたことがあったよね。彼は人知れず行動した。テレビで見る姿とはまるで違う、質素な服装と静かな眼差し。避難所の方がかろうじて気づかなければ、誰にも知られることはなかったろう。お笑い芸人として、善人と思われることはマイナスに働くしね。とくに彼の場合」
でも福島の人はもうみんなが知っている。彼が英雄だということを。
「そういうものだとは思うけど、来てもらうほうの礼儀として、竹本選手に与えられるべき賞賛をこっちでちゃんと準備するべきだよ」
わたしは頷いた。
下山さんの一人息子の太郎くんは、間もなく郡山を去る。おととい園内で簡単なお別れ会が行われて、もう保育園に来ることはない。ほかの園児たちは泣いている子供もいれば、どうしていいか分からない、微妙な表情の子もいた。親から何か言われているのだろう。今はまだ、彼らはそれを真に受けるしかない。
下山さんはいま、きっと胸の中の思いを全て押し殺して最後の打ち合わせに臨んでいた。
わたしの見た目も、たぶん平静だった。綿貫さんにフラれてしまったことについて、納得はできなかったが、そんなものなんだろうなと、冷めている自分がいた。世の中はこうあるべきだとすらどこかで思っていた。
仕事がすべて終わってから、帰り際に下山さんから誘われて、それぞれの車で近所の大きな駐車場がある本屋へ向かった。
オレンジ色の明かりが煌々と駐車場を照らしていた。わたしたちはそこの隅っこでキャッチボールをした。
「朔ちゃんって、運動はなにやらしてもいけるんだね」
「このくらいたいしたことじゃないですよ」
確かに、いわゆる女の子投げではなくちゃんと投げる程度ならば、わたしは苦も無くできる。コントロールはむしろ下山さんより良かったかもしれない。
わたしのグラブさばきを見て大丈夫そうだと思ったのか、下山さんのボールが速さを増してきた。
「下山さん、ここであんまり無理して明日筋肉痛なんてのはやめてよね」
「中年をあなどるな。筋肉痛が出るならば、それはあさってだ」
「いばってるし」
そのうちに二人とも言葉がなくなり、車の少ない広大な駐車場で、ボールをグラブで取るぱしっ、ぱしっというお互いの音だけが響いた。
本屋から出てきた男性が、怪訝な顔をしてわたしたちをながめて、自分の車にさっさと乗りこんだ。
「怪しまれましたね」
「さぞかし世間からはみ出した人間に見えたんだろうね」
「下山さん」
「ん?」
「がんばろう」
「うん」
翌日は晴れた。平日なので参加する父兄には仕事を休んでもらう必要があった。父兄の服装はジャージが大半だが、ユニフォーム姿の方も何人かいる。
保育園児の親だと、まだまだ元気に動ける年齢の人が結構いる。各々がバットを振ったり軽い守備練習をしたりしていたが、見るところ、まともな試合にはなりそうだった。
開成山球場のグランドには初めて足を踏み入れた。
「広いですね。スタンドも大きい」
「プロ野球の本拠地に使われる球場に比べれば客席が少ないけどね。でもこれでも改修されて増えたんだよ。あれなんて昔はなかった」
黄色いジャージ姿の下山さんが指さしたのはバックスタンドの高いところにある席だった。確かにそこだけ三角に出っ張っていて、あとから付け足された感じがする。
看板などはすでに取り外されてしまっていたが、昨晩のプロ野球の熱気はまだどこかで名残惜しげに留まっているようだった。
竹本選手が、約束より少し早く白地にオレンジのラインのユニフォーム姿で現れた。
脇にはテレビカメラが控えて彼の姿を追っている。
「どうも。今日は宜しくお願いします」
子供たちは半数がきょとんとしていたが、父兄の目は全員が見たことのないほどの輝きを放っていた。日ごろの生活の疲れや悩みが全部吹っ飛んだようだった。これから彼と野球をするのだ。同じボールに触れるのだ。
チーム分けは、竹本選手ぬきで二チーム編成しておいた。わたしは下山さんと同じチーム。
竹本選手と一緒に守りたい人もいれば、対決したい人もいた。この場で竹本選手にくじを引いてもらい、どちらのチームに入るか決めた。
くじの結果、彼はわたしたちとは敵のチームに入った。
「わたしはベンチで黄色い声援を出していればいいんですよね?」
「いや、秘密兵器として大事な場面を任せるからね」
「嘘でしょ」
一応ジャージで来ているので、まあいいけど。
「ボールは軟球で大丈夫なんだ?」
硬球に慣れている人が軟球を投げると、ボールが軽すぎて肩を痛めると聞いたことがある。シーズンまっただ中の竹本選手が怪我でもしたら大変だ。
「竹本選手が了承してくれた。あの人ね。長い野球シーズンが終わってオフになると、毎年楽しみにしていることがあるんだよ」
「ゴルフとかですか?」
「野球やるんだって」
「は? さんざんシーズン中にやった後にですか?」
「そう。高校の同級生とかを集めて草野球。あの人、普段は外野手専門だから、草野球の時には、ここぞとばかりに内野やったりピッチャーやったりしてストレスの解消を図る。だから軟球も金属バットもしょっちゅう触っているんだよね」
向こうのベンチ前でバットを振る竹本選手を眺めた。
寝ても覚めても、年がら年中野球野球。
「真の野球人なんですね」
「対決できて光栄だよ」
ベンチには太郎くんがおばあちゃんと一緒に座っていた。わたしが怪我をさせてしまった肩は幸いにも完治していた。元奥さんにも声をかけたそうだが、いない。下山さんが息子に向かって手を振るも、太郎くんの反応はほんの少し右手を挙げただけだった。無表情。
「最後に全員集合しておきたかったんだけどね」
試合が始まった。竹本選手のチームが先攻。四番に入った彼の第一打席は二死一塁で回ってきた。
キャッチャーの下山さん(ほらやっぱり)がミットをぼすぼすとたたいてピッチャーを鼓舞した。
初球をフルスイング。引っ張って、レフト方向へのファールボール。ただし距離がとんでもない。スタンドの奥のほうへと消えていった。守備陣はぽかーんとして打球を見送った。
飛ばすんだろうなって想像はしていたけれど、グラウンドレベルで目の当たりにすると、ちょっとリアリティがないほどの迫力がある。
「でもボールが遅すぎて打ちづらそう」
経験者を集めたので、ほかにもっと速球が投げられる人がいるはずなのだが。
あれ、というかこの投手さっきまではもっと速かったような。
二球目。もっと遅い球。
待って、待ってひっぱたいた打球は、鈍いサードゴロ。
「あ、打ち取った」
竹本選手は俊足が売りの一つで、迫力のある走塁を見せてくれたが、これはさすがに一塁にボールが送られてアウト。竹本選手は苦笑い。守ったお父さんは笑顔ではしゃぎながら戻ってきた。彼の子供が飛び跳ねて喜んでいる。
下山さんもしてやったりの表情。
「つまりは、接待っぽく竹本選手に打たせて花を持たせるつもりは一切ないんですね」
「しないよそんな失礼なこと。見たろ今の竹本選手、あんな当たりでも全力疾走してくれた。僕らと本気で野球やってくれるんだ。うれしいじゃないか。こっちも本気で行くよ」
徹底的に遅い球、遅い球で嫌がらせをするのだ。
下山さんの悪い笑顔。かっこいいではないか。
試合は進んだ。
右中間に大きなフライが上がる。
右翼手の竹本選手と、中堅手のお父さんが声を掛け合う。
「竹本さん、任せて!」
「頼みます」
中堅手が左手をいっぱいに伸ばしてボールを掴み取る。
「ランナー飛び出してる。セカンドに戻して!」
竹本選手が指を差して指示。中堅手は身をひるがえして素早く返球した。
「ナイスプレー」
二人の外野手は笑顔でハイタッチをかわした。中堅手のお父さんは夢の中を歩いているような面持ちで、守備位置へと戻っていく。
竹本選手はイニングごとにポジションを変えた。遊撃手。一塁手。どこを守っても当然のように華麗にこなす。
わたしは胸が鈍く痛んだ。
竹本選手の輝きは残酷だった。
わたしが失ったものを彼は持っていた。
もう一度あのころのように、熱を帯びた日々を送ってみたいという思いが自分の中に残っていることを、竹本選手は否応なくわたしに気付かせるのだ。
昔のわたしだったら、どうだろう。綿貫さんに理由の分からない別れを告げられて、そのまま物わかりのいいふりをして引き下がったりはしないのではないだろうか。
食い下がる勇気がどうしても湧いてこない。でもこのまま終わりたくはない。わたしの心は板挟みになっていた。なおかつ二つに引き裂かれそうになっていた。出口を探して暗闇をさまよっていた。針の先ほどの僅かな光が道を示してくれることを求めていた。
隣には、太郎くんがわたしに負けず劣らずの複雑な面持ちでベンチに座っていた。
太郎くんはグラウンドの父親を見つめていた。
キャッチャーの下山さんは太い指であーだこーだとサインを出して奮闘している。
「お父さん、勝つといいね」
彼は怪訝な顔でわたしを見た。
「下山先生だよ」
親子の間のささやかな約束だった。保育園にいるときは父を先生と呼ぶこと。周囲もそれにあわせた。太郎くんはこの約束を頑なに守っていた。
「でも君はもう保育園をやめた。だからいいの。お父さんは君に見て欲しくて、この試合を開いたのよ」
「勝てないよ」
「今のところいい勝負よ」
「いっつも負けるんだ」
最終回。七回の表。それまでノーヒットだった竹本選手のバットが、ついに遅いボールを捕えた。
澄みきった打球音を残して、ボールはライトスタンドに跳ねた。スリーランホームラン。逆転された。
ヒーローの一撃に敵味方問わず父兄から大きな拍手が起こった。
チェンジになって下山さんたち守備陣が戻ってきた。一点差を追って七回裏最後の攻撃へと移る。汗だくの下山さんがキャッチャーマスクをベンチにぽいっと投げた。
「やられた。すごい」
彼は悔しそうだ。
「あの遅い球を流し打ちでスタンドに持って行くなんて。まるで落合博満だ」
最高の技術。どんな綺麗な言葉にも勝る竹本選手のメッセージ。
下山さんチームは最後の攻撃に向けて円陣を組んだ。わたしも加わる。
「こっちも応えてやろうぜ!」
竹本選手は右翼手の守備位置についた。彼の正ポジション。
下山さんの打席はワンアウトランナーなしでまわってきた。
わたしは大声で応援した。太郎くんはただ見ていた。わたしの声がうるさそうだった。
三球目。力いっぱいのフルスイングでたたきつける。そして高いバウンドのサードゴロ。
三塁手は守備位置から一歩下がり、打球を待って取った。普通ならば余裕の内野安打。しかし走っているのは下山さん。ドスドスと餅でもついているのかと思うほどの音を立てて彼は走った。一塁を駆け抜けて、転んだ。
セーフ。
こちらのベンチから歓声が上がる。下山さんは手を挙げてそれに応えるが、苦しそうだ。
日ごろの運動不足が祟り、彼は疲労困憊だ。いまの走塁だってまったく足が回っていなかった。
「下山さん!」
わたしは塁上の彼に向けて叫んだ。
「わたしが走ろっか?」
並み以上に走れる自信はあった。
しかし下山さんはぜいぜいと喘ぎながらも、手を大きく振って、わたしの申し出を拒否した。意地っ張りめ。でもそういうところ嫌いじゃない。
ワンアウト一塁。次の打者。二球目をひっかけた。
ぼてぼてとボールが転がる。そして下山さんも転がるように走る。
ボールを取ったサードが二塁を確認して、間に合わないのを見て取ってから一塁へ送球した。そちらはアウト。
ツーアウト二塁。
二塁で下山さんは起き上がるのに時間がかかった。
「下山さん」
わたしはもう一度声をかける。下山さんは両手を膝についたままわたしを見つめそれからバッターボックスを指差した。
「打ってくれ、朔ちゃん」
えっ。ここで代打? わたしが戸惑っていると、下山さんが大声で「代打早川!」と審判に告げてしまった。
こうなったら度胸を決める。
ヘルメットをかぶって、打席に向かう。大きく一回素振りしてみた。体育のソフトボールとかでバッティングを少しはやったことがある。野球の理屈は何も分からないけれど、要するに体重移動をうまいこと使って強いスイングをすればいいのだろう。繊細な体重移動ならば、スキーで散々やってきたわたしである。
二塁でほとんどリードを取らない疲れ果てた下山さんを一瞥して、それからピッチャーを見据えた。
初球。高い球だったけれども、わたしは思いっきりバットを振り回した。空振り。
ヘルメットが転がった。ベンチから父兄と子供たちの声援が聞こえる。
これでいい。うん、ちゃんと体は動いている。
太郎くん。いつも負けると君は言った。
そうかもしれない。下山さんもわたしも、それから君も、負けて負けて、妥協して周りに流されて、その結果が今の状況なのだろう。
ヘルメットをかぶり直した。誰に向けてか、わたしは呟いた。
「でも今日はまだ負けてない」
二球目は外の球。これは見送った。三球目は高い球。これも見送る。カウントツーボールワンストライク。
四球目はど真ん中に来た。ああ、ど真ん中だなあとは思いつつ、ボールをじっと見つめて、そして見送った。味方からため息。
わたしだって打ちたいのはやまやまだったけれど、まだ早い。
もう一度、二塁走者の下山さんを見た。彼はゆっくりリードを取りはじめた。一歩、二歩、三歩。
そろそろ走れる。彼の細い目がそう言っていた。
そう? ならば打とう。
五球目。外の球。ストライクだかボールだかわたしには分からない。構わずわたしは引っぱたいた。
当たった。ぽこんと変な音がした。とにかく当たって前に飛んだ。
ふらっと上がったボール。みんなが大騒ぎする中わたしは駆ける。二塁手の向こうにボールが落ちるのが見えた。ポテンヒット。やった。
ただしライトの竹本選手の前。下山さんが二塁から帰ることは無理。わたしは走りながら三塁を見た。下山さんは三塁ベースを大きく回った。そして。
止まらなかった。
「下山さん!」
わたしの声は周囲の叫びにかき消されてしまう。
下山さんの激走。歯を食いしばって、地響きを立てて、彼はホームに突撃した。
泣き言を言う代わりに、彼は走った。
竹本選手に挑んだ。
竹本選手の肩から大砲のようなバックホームが放たれた。わたしの目の前をボールが甲高い風切音を放って飛んでいく。
キャッチャーがしっかりと送球を受け止めた。下山さんが頭から飛び込む。キャッチャーがタッチに行く。
よく見てよ太郎くん。
それだけが下山さんの望みなのだから。
審判の両手が大きく左右に開かれた。
「セーフ!」
同点。わたしは一塁でほうっと息をついた。
倒れたままで両手を突き上げて下山さんは何かを叫んだ。起き上がろうとして、それからゴロンと転がって空を見た。そしてまた何かをつぶやいた。
竹本選手は立ち尽くしてしばらく自分の手をじっと見つめていた。悔しそうだった。
確かに彼は悔しさを感じている。凄い人だとわたしは思った。
試合はそのまま引き分けで終わった。
父兄と子供たちが竹本選手を真ん中にして記念写真を撮らせてもらった。みんなが彼にサインをせがんでいた。持参したボールや色紙、スポーツバッグやらにサインを書き込んでもらって喜んでいた。
下山さんはベンチに腰かけてぐったりとうなだれていた。肘とかあちこちすりむいてしまっていた。わたしは何も言わず、消毒薬を彼のハムのような腕に塗りこんでいた。
みんな竹本選手に夢中で、こちらには寄ってこない。
テレビ局が父兄らにインタビューをしていた。
今回のイベントを主催して、試合でも活躍をした下山さんではなく、見栄えのいい若いお父さんがインタビューを受けて、さわやかなコメントを発していた。
太郎くんは下山さんとわたしから少し離れたところに座って、竹本選手と人だかりを眺めていた。
やがて竹本選手が帰る時間となった。去り際、彼は下山さんに近づいてきて声を掛けた。竹本選手のユニフォームは泥にまみれていてまっ黒だった。
「下山さん、今日はありがとうございました。あなたにお願いがあるんですけど」
「こちらこそありがとうございました。一生忘れません。お願いとはなんでしょうか」
「僕も今日の記念って持っておきたいんで」
竹本選手は少し汚れた軟式のボールを差し出した。
「下山さん、あなたの名前を書いていただいていいですか。サインください」
下山さんの頭上に特大のはてなマークが浮かんだ。しかし、竹本選手の表情が冗談ではなく、至極当然のお願いをしているようであったので、サインペンを借りて『下山強』とボールに大きく書き込んだ。
太郎くんは父親の背中をじっと見つめていた。
下山さんと竹本選手はボールを交換する形になった。
下山さんの名が書かれたボールは竹本選手の元へ。竹本選手の名が書かれたボールは下山さんの元へ。
「ほら」
下山さんはボールを太郎くんの前に差し出した。太郎くんがためらいながらも受け取ると、「元気でな」と息子のほっぺをやさしくつまんだ。
そして傍らのおばあちゃんに「こいつのこと、お願いします」と頭を下げて、グラウンドを後にした。
彼は人の親だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます