第22話 事故

 下山さんとはあの飲み会の夜以降、仕事上の事務的なやりとりしかなくなっていた。それまでは仕事以外の無駄なやり取りばかりだったというのに。


 保育園の庭で遊んでいるとき、子供たちはいうことを聞いてくれなかった。でもそれはいつものことなのだ。わたしだけがいつものように対応できなかった。


 ブランコ、砂場。彼らは思い思いの場所に散らばってしまった。

 お昼寝の時間をもうかなり過ぎてしまっている。なのになかなか整列してくれない。


 怒鳴り声。誰かと思ったらほかでもないわたし。


 子供たちのわたしを見る目が変わった。信頼してくれているからこそ、安心しているからこそ、自由きままに振る舞っていた彼らの小さな目に不信が宿った。


 なにをやっているのだわたしは。

自分自身に苛立ち、わたしの表情はとても醜かったろう。


 重たい空気に耐えかねて列を飛びだそうとした男の子。


「並んでって言ってるでしょ!」

 わたしはその子の腕を強く引っ張った。嫌な手ごたえがあった。男の子は悲鳴を上げた。


 太郎くんだった。


「太郎、どうした」

 下山さんが駆け寄った。我が子の腕を確かめる。太郎くんは顔を真っ赤にして、足をバタバタさせて火がついたように泣き叫ぶ。


 ただ事ではない泣き声を聞きつけてもう一人保育士の女性がやってきた。下山さんは彼女に小さく「脱臼」とささやいて、太郎くんを両腕で担ぎ上げた。


「お医者さんに行こうな。大丈夫、大丈夫」

 下山さんはのんびりとした、いつもとまるで変わらない笑みを見せた。太郎くんは泣き止まない。わたしは動けずにいた。


「僕の車で病院に連れて行きます」

「わたしも」


「君はダメだよ、朔ちゃん。他の子供たちを落ち着かせて。あとから来てくれればいいから」

 下山さんたちは病院に向かった。わたしはほかの保育士たちと、子供たちを中に誘導した。女の子の何人かが泣いていた。わたしの涙もどうしても止まってくれなかった。


 わたしが近くの整形外科に駆け付けたときは、治療が終わって、待合室の椅子に下山さんと太郎くんは腰かけていた。


 太郎くんは三角巾で左腕を吊っていた。下山さんがわたしに気付いた。


「ひどい顔だね、朔ちゃん」

 太郎くんは泣きはらした目でじっとわたしのことを見ている。わたしの目も同じくらい腫れていただろう。


「下山さんすいませんでした!」

「声でかい。病院だよ」


「あ、ごめんなさい」

「ちゃんと処置していただいたから大丈夫だよ。こうして吊っておけばすぐに良くなる」

「そうですか」


 とりあえずは安心した。そのとき待合室に太郎くんのおばあちゃんがやってきた。見たことのない女性と一緒だった。白いスーツで、仕事をあわてて抜け出してきた感じだった。


「来た来た。朔ちゃん悪い、ちょっと家族会議。いや元家族か」

 ああ、あれが別れた奥さんか。細い。派手な顔立ちではないのだが、不思議な迫力があった。


 下山さんは立ち上がって、太郎くんに大きな手を差し伸べた。でも太郎くんはその手を取らずにおばあちゃんたちのほうに歩いて行ってしまった。下山さんは背中をまるめて、そのあとをついて行った。


 『元』一家は広い待合室のはじっこでぼそぼそと話していた。わたしは離れたところで椅子に座り、彼らに背中を向けていたが、話はところどころ聞こえてきた。


 下山さんは元奥さんに、あなたがついていながら何をやっていたのかと叱責されていた。


 下山さんは何も悪くない。

 わたしみたいな未熟な保育士が自分を抑えきれなかったのがすべて悪いんだ。


 ちらりと見ると、下山さんの大きな背中が覆っていてほかの三人が見えない。彼が一人で立たされているみたいだった。


 話は終わって、母親とおばあちゃんが太郎くんを連れて帰ることになった。わたしは彼女らにも頭を下げて謝った。


「いいたいことはありますけど、あなたにはいいませんから」

 母親が冷たく言い捨てた。

 園長なり、然るべき立場の人に文句を言いに行くということだ。当然である。


 母親が背を向けて歩き出した。おばあちゃんが太郎くんの手を引いたとき、わたしの横で下山さんが口を開いた。

「太郎」


 静かだけれど重みを感じる口調だった。太郎くんは立ち止まり、振り返った。


「朔先生に謝りなさい」


「どうしてよ」

 母親が下山さんのことを睨んだ。


「こっちは大けがさせられたのよ」


「太郎、朔先生は謝ってくれたろう。お前はひとつも悪くないのか?」

 太郎くんがわたしを見た。ぱっちりとした瞳が戸惑っていた。


「偉そうに。いくわよ太郎」

 母親が強く促すと、太郎くんは弱々しい足取りでついて行った。おばあちゃんがわたしに向かってゆっくり頭を下げてから、二人を追った。


 三人が姿を消すと、下山さんは長椅子にどすんと腰を下ろした。わたしも彼の隣に座った。

「いやあ、威厳ないなあ、僕」


 わたしは何も答えずに、目の前にあった味もそっけもないゴミ箱をただ凝視していた。

診察時間はまだ残っていたが待合室に患者はあまりいない。事務の女性のキーボードをたたく音がかちゃかちゃとかすかに響いた。テレビでドラマの再放送が流れていた。


「わたしいままで色んな失敗をしてきましたけど、これはちょっとだめです。最低です。わたしはもう保育士を続けるべきではありません」

「僕だって子供に怪我をさせちゃったことはあるよ。今までで一番の失敗だというのならば、今までで一番反省すればいい。でも辞めることはない」


「やさしいんですね、下山さん。でもわたしはそんな言葉をかけてもらえる資格なんてないんです。わたしプライベートで上手くいかないことがあって、それで苛立ってました。太郎くんに八つ当たりをしたんです。それからあなたにも」

「ああ、うん。だとは思ったよ。もちろん良くないことだけど、気持ちは分かるから強く諌めることができなかった。プライベートのひどさだったら、僕もなかなかだからさ。だから言うべきことを言わなかった僕も悪い」


「うまくいかないもんですねえ」

 わたしは力なく笑った。


「叩いて悪かったよ」

 下山さんのふくよかな手が伸びて、うつむくわたしの髪の毛に触れそうになったが、彼は思いとどまった。かわりに自分の頭をぽりぽりと掻いた。


「ごめん。今のは僕の失態。僕じゃこういうの似合わないし、気持ち悪いよね」

「そんなことはないですよ。普通の女性だったら、あなたに抱きしめてほしいときっと思います。でもわたしにはその資格がありません。だからそんなにやさしくしないでください」


 自己嫌悪。つりあいを取ってくれるべきものがなく、片方の天秤にだけおもりがどんどんと乗せられていくようだった。


「お見合いしているんですよ、わたし」

「へえ」

 ドアが開き、新しい患者さんが一人入ってきた。松葉づえのおじいさんと付添いの娘らしき人だった。


「なんだ、彼氏いなかったんだ、朔ちゃん」

「ええまあ。結婚相談所ってあるのわかりますよね」


「ああ知ってる。というか利用したことがある」

「えっそうなんですか」


「バツイチでメタボではどうにもならなかった」

「あらら。そこをなんとかするのが向こうの仕事なのでは」


「でも面と向かって、バツイチでメタボではどうにもならないと言われたよ」

「はは、ひどい。わたしね、すごい件数のお見合いをこなしているんですよ。もう四十件を超えました」


「ふむ。君がそんなにもてないとは思えないけどね」

「ありがとうございます。でもそういう問題ではないんです」


 話しているうちにわたしはまた、感情が走り始めていた。それだけは言ってはダメだと押し留めようとする気持ちと、彼に秘密を話すことだけがわたしにできる小さな贖罪なのだという思いがせめぎあった。


「お金目当てですから」

「お金?」


 下山さんはわたしの言葉の意味が飲み込めない。


「金持ちと結婚したいということ?」

「そうではありません。そもそもわたしは結婚するつもりがないんです」


「お見合いしてるんでしょ? 自分の意思で」

「件数を稼いで、相談所の売り上げに貢献しているだけです。その分の手数料はちゃんともらっています。思いのほか快調でして、わたしお金持ちになれちゃいそうですよ」


 言ってしまった。


 そのあと、わたしたちはそれぞれ自分の車でさいころ保育園に戻った。


 わたしが駐車場に着いた時には、下山さんはだいぶ前についていたようで姿は見えなかった。


 日は沈みかけていて、淡い夕焼けがあたりを包んでいた。

 わたしが秘密を打ち明けた時の下山さんの顔が頭を離れない。

「少なくともその状況を長く続けちゃだめだ。身が持たないよ」

 彼はそれでも優しかった。


 さて、まだ帰れない。これから片づけなければならない仕事がたくさんある。それに園長先生にちゃんと太郎くんのことをわたしから報告しなければならない。


 視界の端に人影が見えた気がしてわたしは振り返った。しかし道路を行きかう車はあったが、そこには誰もいなかった。わたしはしばらくあたりを見回して、それからあきらめて保育園の中へと入っていた。きっとわたしの勘違いだ。


 北野くんがこんな所にいるはずがない。




 週に一、二度、夜に結婚相談所のオフィスでスミレと二人きり、ミーティングをすることがすっかり習慣となっていた。


 こめかみを指で押さえながら男性のプロフィールを眺め、わたしはスミレの説明をぼんやりと聞いていた。話しの最後にスミレが思い出したように聞いてきた。


「綿貫さんっていたじゃん。もう一度会ってみない?」

「え?」


 予想外の言葉に、わたしは眠気が覚めたようにぱっと彼女を見た。


「何でよ」

「向こうがね、もう一度会いたいんだって」


「そんなのありなの?」

「双方の合意が得られれば問題ない。男女の仲というのは厳粛にして繊細なものなれば、あのときは断ったけど、よくよく考えてみればあの人良かったなあ、なんてことはざらにある。男性にはもう一度手数料を払ってもらうことになっちゃうんだけど、綿貫さんはそれでもいいって」


 スミレとしては、効率よくポイントを稼げるのでむしろ好都合なのかもしれないが。


「でもおかしいよ。綿貫さんがもう一度会いたいなんて言うとは、ちょっと思えない」

「ああ、ずいぶんと変わったお見合いをなされてましたねえ」


「スミレ、前から気になっていたけど、もしかしてお見合い中のわたしたちの話って、盗聴器的なもので聴かれてる?」

「まさか。漏れ聞こえる声の調子で大体わかるのよ」


 怪しいな。


 わたしはスミレの提言について考えてみた。

 自分の脳みそが一〇〇人くらいの議員団だとする。

 その大半が、「綿貫なんかに二回も会ってられるかー!」「ふざけるなあ!」と怒号を浴びせていたが、その片隅でほんの数名の少数勢力が何かぼそぼそと言っているようだ。彼らの小さな声にわたしは耳を傾けてみた。


「あの憎まれ口を、もうちょっと聞いてみたいわ」


 スミレから彼の名が出たときに、変な闘志が湧いた。ひさしぶりに胸が弾んだきがした。


「よし、わたし決めたよ、スミレ。もう一度会ってみっかな」

「わかった。次の日曜にもう一件追加ね。お楽しみに」


「楽しみではないかなあ。仕事が一個増えてしまったというだけで」

「なんなら三回目があってもいいからね」

 わたしは「バカな」とつぶやいた。


「服はこの前会ったときは水色だったから、どうしようかな。ピンク着ようかな?」

「あれ、誰にどの服で会ったか覚えているんだ。たいしたもんだね」


「いや全部じゃないけど、あのときのは何となくね」

「ふうん」


 もう一度受け取った綿貫さんのプロフィールを横目にコーヒーをすすった。


 次の土曜日の三件目が、綿貫さんとの再お見合いとなった。

 席に座って笑顔を作り、あの暗い顔が敷居の影から現れるのを待ち構えた。


 日差しが強く気温はかなり上がっていた。わたしはピンクの上着の下は白い七分袖のブラウスという服装を選択した。


 彼はやってきた。わたしの顔を見た第一声は「この前より化粧が濃くないですか?」だった。


 取り繕うとしていたわたしの作り笑いは消え去った。

 というか。

 声をあげて大笑いしてしまった。


「綿貫さん。あいかわらず、あんた駄目だ」

 かしこまって座っているのもばからしくなって、少し姿勢を崩した。

「そうですか?」

 綿貫さんも笑っていた。スミレが事務的にたしなめた。


「早川さん。お見合いの席なんですから」

「あ、はいはい。ちゃんとやりますから」


 綿貫さんが座って、スミレが去り、一応は互いに会釈してあいさつした。


 今日の彼は灰色のシャツを着ていた。この前も気づいたが、着ているものは結構良さそうだ。


「わたしなどに二度も会っていただけるということで、ありがとうございます」

「うざいと思いませんでした?」

「ちょっと思いました」

 そこでまた二人ともぷっと吹き出した。


「でもさ綿貫さん。本当のところなんで? わたしこの前、結構失礼なことを言っちゃいましたよ。案外好印象だったのですか?」


「底意地の悪い女性だなあと思いました」

「否定はしません」


「でも僕の質問もやはり失礼でした」

「ああ、命を捧げてくれるんでしたね」


「誰かからしっくりくる答えを本当に聞きたくてした問いではあったんですが、会っていきなりする話じゃなかった。でもあなたはちゃんと答えてくれた。多少イライラはしていたようですが。帰って時間が経つにつれて、あなたのくれた言葉がとても大事なものであるように思えてきて、あれ、自分は特別な人に出会ってたんじゃないだろうかって気持ちになった」


 今日の彼は胸の内をあけっぴろげに語った。時間をかけてわたしのことを考えてくれたようだった。

 わたしもつられて素直な言葉が口をついて出た。

「わたしもね。なんだかんだ言ってあなたとのお見合いが一番おもしろかった」


 彼は窓の外に目をやって小さく笑った。わたしも外を見た。雲が風に巻かれた形をしていた。遠くで誰かのはしゃぐ声がした。昔のことを少し思い出して、それから紅茶を一口飲んだ。


「朔さん、腕が白いですね」

「お、見惚れていますね。触ってみる?」


 その後も話は弾んだ。いつものお見合いだと仕事のこととか、趣味のこととか、段取りのような会話に少なくない時間を割かれるが、綿貫さんとは二回目なので制限時間いっぱいに雑談することができた。ほんとに雑談ばかりだった。結婚したらどんな人生計画を描いているのかなど、本来重要であるはずの話も一切しなかった。


 お見合いが終わってその日の夜は綺麗な半月が出ていたので、近所のコンビニまで散歩がてら買い物に行った。缶ビールを二本買った帰り道、ぷしゅっと缶を開けて月を眺めながら飲んだ。


 遠回り、また遠回りを繰り返して、なかなかアパートに着かなかった。歩き続けていればそのうち月にまでたどりつけそうな気がした。


 ふと携帯が鳴った。画面を確認してわたしはくすっと笑い、ビールをもう一口飲んだ。空からの光がやさしくわたしを照らした。


 道端のガードレールにもたれて、こんなメールを打った。

『わたしも食事を楽しみにしています。これからよろしくお願いしますね、綿貫さん』

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