第18話 嘘のはじまり

 いつまでも冬なのか春なのか分かりづらい天気が続いていた四月のある日に、郡山の市内は急に気温が上がった。


 開成山公園の桜の花はいっぺんに開き始めた。ちょっと目を離すとさっきよりもさらにつぼみが開いているといっても大げさではないほどに。


 家族連れや学生たちがあわててお花見に繰り出していた。


 この公園は郡山市で一番の桜の名所だ。大きな池を囲む桜の木の間をわたしは歩いていた。


 保育園では来週花見を予定していたが、そのころには多分散ってしまう。


 下山さんあたりに緊急収集をかけたいところだったが、残念ながら用事があった。


 わたしはできる限りのおしゃれをしていた。ピンクのセーターとこげ茶色のスカート。白いカーディガンは暑いのでさっき脱いで手に持っている。


 美容院にも、おとといの夜行ってきた。


 約束の一時までまだあったので、開成山公園でゆるゆると歩き時間をつぶしていた。

一斉にほころぶ桜の花を、良きことの起こるしるしではと思うことはできなかった。


 目的の場所はこの近くだ。


 わたしは小さなビルの三階、結婚相談所に向かい、スミレのセッティングしたお見合いに臨んだ。


「だからまあ」

 彼は語った。


「お金はあるんですけどねえ。使う暇がなくって。毎日へとへとになるまでひたすら働いているうちにこんな年になっちゃったわけですけども、その、お金だけはあるんです」


「はあ」

 コーヒーをすすりながらわたしは神妙な面持ちで頷いた。


 お見合い初戦の相手は四十五歳の会社員。がりがりに痩せていて、頭のてっぺん付近の髪の毛がだいぶ薄くなっていた。


 敷居に区切られたお見合い部屋。二人きりだ。ほかにもお見合いが行われているようで、声が向こうからかすかに漏れ聞こえる。


「朔さんは保育士なんですね。いいな、楽しそうだ。僕も子供が好きなんですよ」

「大変ですよ。子供のことが大嫌いになって辞めていく人もたくさんいます。わたしは幸いにも今のところそうじゃないってだけです」

 それから「給料も悲惨ですしね」と付け足した。


「そりゃあストレスはどの仕事でもありますよ。僕なんかも会社じゃ組織の中で上と下との板挟みで大変なんです。この年齢になっちゃいますと責任が大きくなりますし、人を束ねる力が求められます。保育士さんのような仕事がうらやましいという気持ちは正直ありますよ。それではダメだと分かってはいるのですが」


「そういうものかもしれませんね」

 わたしは笑顔を見せようとしたが、きっと蝉の抜け殻をくしゃっとつぶしたような微笑みだった。


「あの、朔さんはおタバコは? 保育士の女性って、喫煙率も高いっていいますね」

「二か月にひと箱吸います」


「は?」

「二か月にひと箱です。単純計算で三日に一本です」


「ほう。なんというかその、ずいぶんと不思議な数ですね」

「依存症とかではないんですよね。吸わなきゃ吸わないで平気なんですけど。たまに吸うと落ち着くんで」


「我慢強いんですね。今ってやっぱりタバコがすごく高くなっているから、吸いたいだけ吸うというわけにはいかないんですね」

「いえ、わたしとしては足りているんですけどね。あなたはお吸いになられるんですか?」


「酒は付き合い程度に嗜みますけど、タバコはやりませんよ。あれは百害あって一利なしです」


 一時間話したところで黒いスーツ姿のスミレがしずしずと現れた。


「ではそろそろ時間ですので」

 彼女はさわやかに微笑み、男性を連れて出て行った。これで終了らしい。


 二分ほど待っているとスミレが戻ってきた。


「はい、お疲れさん」

「スミレの仕事用の顔を初めて見たわ。ちゃんと大人をやっているみたいで安心した」


「朔もいいお嫁さんになれそうだったよ」

「うるさいな。タバコ吸っていい?」


「ダメ」

「ちっ」


 仕方なく窓の外を眺めた。変わらずいい天気だ。それからスミレに尋ねた。


「今の人、写真と違くない?」

「ああ、違うね。わたしが違くした」


 最初たまげた。しきいから部屋に入って行ったとき、待っていた彼はプロフィール写真とは色々と違っていた。


「髪の毛が明らかに足されてたし、目も写真のほうはなんだかくりんとしてたよ」

「いまどきのプリクラみたいでしょ。そういうものなのよ。加工なしで相手に見せたりすると、上に怒られちゃう。そしてそれはつまり」


 スミレの含み笑いで、わたしはハッと気づいた。


「あ! わたしの写真もいじったな」

「久しくない楽しい作業であった」


「見せろ」

「やだ」


「この」

 わたしはスミレの首を締めにかかった。


「うわ、やめろー」

 二人して取っ組み合いのまねごとをして、もとの位置に帰る。


「ふう」

「いや、見せなさいよ」


「しょうがないなあ。ほんとはダメなんだよ」

「いたって当然の権利だと思うけど?」


 タブレットで見せてもらった。


「誰ですかこれは?」

 目元が当然のようにぱっちりしていて、本来丸顔である頬がなんだかしゅっとしていた。元の写真と並べて表示されて、わたしは大笑いしてしまった。


「すごいね。長澤まさみみたいじゃん。そっか、わたしって加工すると長澤まさみに似ているんだ」


「男性会員に好評っちゃ好評だよ。うちの女性会員の中では朔は若いしね。そんで参考までにだけどさ、さっきの人は会ってみてどうよ。見た目以外で」


「どうっていわれてもなあ」


「あの人必死だったよ。彼なりに」


「うん、それはわかってる」


 わたしは考えてみた。


「まず向こうがいい印象もってくれなかったでしょ」

「どうしてそう思う?」


「タバコを少し吸うって話をしちゃったときに、彼の中でぐんぐん減点されていくのを感じた。やっぱり駄目なんだね、そういうこと正直に話しちゃ」


「ああ、それは確かに言ってたな。でもね。時間をかけて話し合って、変えてほしいところは変えていければって言ってたよ、向こうは、また会いたいって」


「うそ」

「ほんと。朔、一勝」


 一回目の接見で互いに好印象を持った場合は、結婚相談所経由で連絡先を交換して、次は外で二人だけで会う、というのがまっとうなルール。


「二回戦は男性からの手数料が発生するわけじゃないんだけれど。 ねえ、どうする? これは朔に任せるけど、会ってみてもいいと思うよ」


「うーん。やめとく」

「そう?」


「考え方がいろいろ違ってた。言葉の端々でそういうの分かる」

「じゃあ、しょうがないね。でもそうなんだよね。初めて会った時なんてよっぽどじゃなきゃ大筋の話は相手に合わせるもんだからさ。逆に言えば端々からでしか本音が分からない」


「変えてほしいところは変えていければってのも聞こえはいいけどさ。突き詰めちゃうとそれって誰でもいいってことにならない? 妥協だよね」


「朔はまじめだね。でもそういえばそうだ。分かったよ、お断りしておく」

「これで今日は終わり?」


「うん、気疲れしたでしょ。ありがと。来週は二件いれさせてもらったから、頼むわ」

「了解」


 わたしが立ち上がって、椅子に掛けておいたカーディガンを手にすると、スミレが茶封筒をそっと差し出した。


「じゃ、これ。その都度渡すから」


 『プロの人』に対する謝礼である。


 わたしが事務所の横を通り出口のドアに向かうときほかの職員女性とすれちがった。完全なる笑顔で向こうは「ありがとうございました」と見送ってくれた。


 何も知らないかのような態度。でも彼女はおそらくすべてを知っているのだろう。


 その日の夜、久しぶりに弟に電話をかけてみた。


 スミレに言われた通り、確かに精神的に疲れた。だから誰かと話をしたかった。


 昼間のことはいっとき忘れたい。いくら逃避したところで棚の上に置かれた茶封筒は姿を消したりはしないのだけれど。


 弟のだるげな会話のペースは、こういう日にはちょうど良かった。


 もちろんお見合いの話などしなかったが、ただ桜の話をした。


 結婚相談所のビルを出てから開成山公園に戻ってみて、そこでもう一度見た桜は、なぜがその前に見たときよりも美しく感じた。とても綺麗に、綺麗に見えた。


 きっと色あせて見えるのだろうと思っていたのに。


 弟が暮らしている会津若松は桜がまだ咲いていないそうだ。実家の猪苗代に春が訪れるのはさらに遅い。


 彼はスキーの話はしてこない。


 本来わたしと弟の間に共通の話題はスキー以外にはたいしてないのだが、それでもしてこない。


 母から、弟が高校に入ってからスキーから身を引いているらしいことは聞いていた。壁にぶつかっているのだ。


 ただひたむきに滑り続ければいいではないかとは思う。だがそれはわたしの立場だから言えることだ。


 自分の為だけに滑ることが出来る喜び。わたしが自ら放棄してしまったもの。


 はじめにはどうかそれを手放さないでいて欲しい。


 誰かのために滑る必要なんかないんだ。


 別の言い方をすれば、他人に責任を押し付けるなということ。


 わたしを目指す必要もない。そんなことをされても嬉しくない。


 だってそのときあなたの目に見えているものは、わたしのようでいてわたしではないのだから。


 わたしはもう立ち止まっている。だから追い抜いていくなんてたやすいことなんだよ。


「わたしね、ちょっと新しく始めて見たことがあるの。ナイショだけどね」

 話が見えずにいる可愛い弟を放置してわたしは電話を終えた。


 冷蔵庫から缶ビールを持ってきて、缶のまま飲んだ。


 美味しい。これも弟のおかげだ。


 ベランダに出てみるとレモンの形をした月が浮かんでいた。その光のもとで、スミレから預かって来た二枚の履歴書に目を通した。


 わたしがこれから出会う男の人たち。この人たちをわたしは振るのだ。


 写真と文面を目でたどりながら、どんな人なのだろうかと想像した。


 履歴書ではきれいごとしかわからない。どんな声で、どんなものの捉え方をして、それから本物はどういう顔なのだろうかと、自分の長澤まさみにちょっと似てしまっているプロフィール写真を顧みながら、缶を飲み干した。


 翌週、二人目のお見合い相手には向こうから振られてしまった。わたしとしては無難にお見合いを務めきることができればそれでいいのだが、それでも男性のほうから二度は会わなくていいと言われてしまうと、落胆まではいかなくともなんというかこう、ぼよよーんという感じになる。


 スミレとは互いにおどけて笑ったけれど、内心はしっかり傷ついた。傷ついたぞこんちくしょうめ。


 同じ日に三人目のお見合い。


 ここで思っても見なかったことが起きた。わたしだけが嘘つきで相手の男性はみんながみんな正直者かというと、そうでもなかったのだ。


 会話のちょっとしたところに矛盾を感じて、よせばいいのに突っついてみたら、相手は急にしどろもどろになってしまった。


 困らせたいわけではなかったのでわたしは慌てて話題を変えたのだが、しばらくすると男性が「すいません」といって、自分がバツイチであることを白状した。


 プロフィール詐称の発覚。アウト。


 男性が帰った後でスミレが「やってくれんじゃねーか、やってくれんじゃねーか」と彼への恨み言を吐きながら、愛用の黒い手帳になにやらぐりぐりと書き込んでいた。


 わたしはもう二度と会うことのないだろう彼の身を案じた。ともあれ、これでわたしの役目は終わりだ。


「こういう世界だ」


 彼のせいで、あてにしていたお見合いのセッティングがたぶん数件ダメになってしまうのだと思う。そしてそれを抜きにしても、スミレはとても傷ついたようだった。


「自分のすべてを相手にまっすぐ晒して、いいところも悪いところも受け入れてほしいなんて理想を人はいう。でも見ての通り、ここに正直な人間は一人もいない」


 帰り際に見た彼女の暗い表情は、いつまでもわたしの胸の中に残った。


 週明けに、保育園で下山さんに聞いてみた。


「もしお見合いすることになったとしてね。その、バツイチだってことを隠す?」

「どうしたの朔ちゃん?」


「失礼なこと聞いてんねわたし。ごめん、忘れてください」

「別にいい。結婚が前提なんだから、最終的には隠し通せるわけないんだけれど、隠したい気持ちは理解できるよ。僕だって日ごろ会う人全部にいちいち自分がバツイチだってことを宣伝して回っているわけじゃない。初めは黙っておいて、心が通じあってきたなと感じたところで明かすという考えもあるとは思う。でも相手にしたら、隠し事をされていたってことのほうが後々に響くものなんじゃないかなあ」


 隠し事という言葉が重く響く。あの男性は結婚相談所の退会を余儀なくされるだろう。でも、もう嘘をつかなくても済むのだ。

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