第17話 黒いドアの向こう
それからスミレからの連絡はしばらくなかった。藤田さんからのメールもいつのまにかこなくなった。忙しさを言い訳にして、わたしはあれもこれもほったらかしにしていた。
しかし保育園での仕事が忙しいことも別に嘘ではなかった。
有名な野球選手が来月郡山を訪問することになったそうで、その際に園児を連れて行くための打ち合わせがあった。
震災の後、いろんな人が来てくれるようになった。
来るようになってしまった、などとすねた言い方はしたくない。
「野球教室かあ」
下山さんがボールペンをぷらぷらさせている。午後一の打ち合わせで彼は眠そうだった。
昼ご飯で胃袋をきつきつの満タンにするからそうなる。同情の余地なし。
「と言っても、うちの子らではまだちっちゃくてキャッチボールすらできないものね。握手してもらって、写真撮って、わたしたちはそんなものでしょ」
「むー」
わたしの並べた言葉が、あまり乗り気でないような響きを含んでいたためか、彼のため息は少し不満げだった。
さいころ保育園に就職した当初、先輩保育士たちはわたしのことを相当な体育会系だと思い込んでいた。応募した時の履歴書にスキーの優勝歴を書いたせいだ。
本当はそんなこと書きたくもなかったが、そういった勲章は就職に有利ではあった。
経歴とわたしの実情のギャップに、まわりは戸惑ったと思う。
スポーツの話題にも乗ってこないし、テニスやゴルフを始めてみないかとのお誘いにも一切興味を示さなかった。
「あのさ、前の日が郡山で試合なんだっけ」
「そうね。この日一日が休みで、翌日は東京で試合だから、すぐに新幹線で帰らなくちゃならない。大変ね、プロ野球選手って仕事も」
「園長先生、ちょっと僕がしゃしゃり出てみてもいいですかね?」
下山さんが尋ねた。おや珍しい。なにか考えがあるようだ。
彼は勤務態度はまじめだけれども、先頭に立って仕事を作るようなタイプではない。
「どうするつもりだい?」
白髪頭で温和な園長先生は答えた。彼も下山さんのらしからぬ様子に興味をもったようだ。
「試合やりませんか、子供たちの父兄で。そこに竹本選手にも混ざってもらう」
「ああ」
園長先生は椅子にもたれて考えこんだ。
下山さんは話を続けた。ただの球遊びで終わるよりもどうせならば試合をして、プロのプレーを直接体感できたほうがみんなも楽しいだろうということなのだ。
「球団へのお願いとか、僕やりますから」
「けど難しいと思うわよ。素人と試合なんかして怪我でもしたら大変だもの。プロの選手というのは商品だから、壊したら弁償しなきゃならない。竹本選手って、年俸二億円でしょ」
わたしの否定的な言葉に、彼は「ダメもとで頼んでみるよ」と笑った。いつもはホームページの更新すら自分からはやらない人とは思えない。
「下山さんって、野球やってたんでしたっけ?」
「中学まではね。高校でもやろうとしたけど、三日で逃げ出した」
「キャッチャーって大変ですもんね」
「あのさ朔ちゃん、今なんでキャッチャーって決めつけたのかな?」
わたしは彼のチャーミングなお腹を見つめて、意味ありげに笑った。
「去年、開成山に試合を見に行ったんだよ。太郎と二人で。まだかろうじて家族してたころ」
「ああ、地震直後のあの真っ暗な時期に試合をやってくれたんですよね」
「それで、太郎が感動しちゃってさ。すげーはしゃいでんの。次の日にはグローブを買わされたよ」
「そうですか」
「最近あいつの笑った顔、見てなくてさ」
わたしはもうしばらく彼のお腹を眺めていた。
その日の夜。久々に来たメールで、わたしはスミレに呼び出された。
彼女の職場へと、呼び出された。
夜の九時過ぎに来るようにメールで言われた。
こちらの仕事は八時半で何とか終わって、お腹はすいていたけども、先日の件でスミレに悪いことをしてしまったという気持ちはあったので、しょうがないかとメールに従った。
彼女の会社の入っている小さなビルにはちゃんと駐車場があったが、なぜか隣の大きなカラオケ屋のほうに停めるよう指示された。
ビルの二つある入口のうち、人目につかないほうから入れと命令された。
ビルの駐車場には空きがいっぱいあった。
一体なんだというのか。
会社といっても入口はマンションのそれと変わりがなかった。
営業時間はとうに終わっていて、黒いドアは鍵がかかっていたので、わたしは呼び鈴を押した。
すぐにスミレの、片方を引きずりながらの非対称な足音がドアの向こうで聞こえた。
そして扉は開かれた。
「よっ」
部屋の明かりで逆光になったスミレの顔は穏やかに微笑んでいた。ダメな子ほどかわいいとでも言いたげな笑みだった。
スミレは片手でドアを抑えたままで少しだけ顔を出して、わたしの後ろや、周囲をうかがった。
「入って。悪いね、疲れているところ」
彼女のささやきに促されて中に入る。黒いドアがなにやら重い響きを伴って閉まった。もう逃げられないよと言われた気がした。
入ってすぐの目立つ場所に大きな額縁が掛かっていた。それにはこう書かれていた。
『幸福とは道に横たわる獅子のようなもの。多くの人間はそこから引き返してしまう』
オフィスにはスミレしかいなかった。
手前にパソコンが数台並ぶ事務所的なエリアがあって、奥には仕切りで区切られた部屋がいくつかあった。
スミレは左足を引きずりながらそのうちの一つへと向かった。わたしも後に続くと中には小さな白いテーブルと、椅子が二つ向かい合わせで置いてあった。
テーブルには小さな造花の鉢が置かれていた。椅子は中世ヨーロッパ風の、けれどもとても安そうな一品だった。
『少しでも豪華な雰囲気を醸し出せるように工夫をしろ、しかし金はない!』との命を受けて、困った挙句にこうなったという感じが、悲しくにじみ出ていた。
わたしたちは向かい合って座った。
「朔、ご飯食べたの?」
「まだ。せんべいは一枚かじったかな」
「そこの飴なめていいよ」
テーブルの隅に折り紙で作った箱があった。わたしはそこからミルクキャンディーを一個つまんで口に含んだ。
「さっき入口のところで、スミレはなんだか盗賊のアジトで門番をやっている人みたいだったね」
「的を得た表現だ」
スミレは笑ってくれなかった。
「ああ、朔、コーヒー飲む?」
「ううん、いらない」
「わたしはどうしよっかな。やめとこうかな。今日はもうコーヒー七杯は飲んでるから、胃の状態がちょっとよろしくない」
「そろそろ多少は健康の心配もしたほうがいいかもよ。わたしらはもうそんなに若くない」
「だよね」
彼女は疲れているようだった。ピンクの造花を弱い眼差しでぼうっと眺めて、それから意を決したようにこちらを向いて、スミレは語りだした。
「若くないわたしたちは、いろんなことを真剣に考えるべきだと思う。朔、こんな時間にこんなところへ来てもらったのは、手伝ってほしいことがあるからよ。朔にはわたしの仕事を簡単には説明したことがあったと思うけど、実際のところどんなものだと捉えている? 結婚相談所っていうわたしの仕事を」
彼女の目は真剣だった。真剣にわたしの答えを求めていた。それが神様の啓示でもあるかのように。
「スミレは給料が少ないっていつも文句言っているけど、世の中に必要な仕事だと思うよ」
「本当にそう思っている?」
「スミレは違うの?」
「誰かの助けにはなっていると思う。でもそれ以上にたくさんの人間の気持ちをもてあそんでいると感じることがある。あんたの仕事とは違う」
「どんな仕事でも変わんないよ。元も子もない言い方すれば、仕事はなんだってお金を巻き上げる手段なんだから」
「お金ならまだいい。でもわたしは、人が人を好きになった嫌いになったっていう、心の根っこにあるものを、それくらいしか世の中の救いなんてないじゃないかってものを、数値化して、集めるのにやっきになっている」
「スミレ」
「あんたには偉そうに男紹介してたきつけていたけど、人の気持ちを見失っているのは、本当はわたしのほうなんだ。毎日本心とまるで違うことをにこにこしながら話して、そして追い詰められている。今月まずいのよ。ノルマに全然届いていない」
スミレは目を逸らして、深く息をついた。彼女は涙ぐんでいた。
「ごめん、朔」
「いいよ。スミレも大変ね。でも、あのさ。いい加減なこと言えないけれど、転職も考えたほうがいいんじゃない」
「うん、いっつも考えている。でも現実問題難しい。今の仕事給料は少ないけれど、ここをやめて、同じくらいもらえる職場を見つけられるかっていうと、まず無理だと思う。それにさ、旦那の勤めている会社がちょっとピンチなのね。だから、リスクのある行動はとれない。今の場所にしがみつくしかない」
仕方がないことだ。ピンチじゃない会社のほうがいまどき珍しい。
「それでね、朔。頼みがあるの。助けてほしい。あんたにへんな言葉のごまかしは使いたくないから、はっきり言っちゃう。あんたを利用させてほしい」
「相談所の会員としてお見合いしろってこと?」
「そう。会うだけあって。バイト代のようなものは払わせてもらう。できれば三件お願いしたい」
「うーん」
わたしは椅子に深くもたれて、腕を組み考え込んだ。
いつかはスミレがお見合いを勧めてくるような気がしていたのだが、こういう形でとは思っていなかった。
「断っちゃっていいのね?」
「抱えているノルマというのがね、結婚まで至った件数じゃなくって、あくまでもお見合いの実施数なの。結婚の成約料が一番大きいのは確かで、そっちのノルマもあるといえばあるんだけど、そう上手くいくもんじゃない。一回会うごとに、男のほうで手数料を払うシステムだから、売上的にはそっちを積み重ねることを考えるほうが現実的だ」
「男性のOKをもらえなきゃお見合いには至らないんでしょ? わたしって、そんなにもてそう?」
わたしはおどけた口調で聞いた。この空気が苦痛だったので。
「朔はきっともてるよ」
言ってからスミレはくすっと笑った。わたしもつられて笑った。
「分かった。いいよ、会ってみる。まあ断らせてもらうけどね」
「いいの?」
「ひとつの経験として、お見合がいったいどういうものなのか興味ないわけではなかったし?」
スミレはわたしのことを見つめた。何かを注意深くさがすように。
「もし、会ってみて良いと思う人がいたら言ってよ」
「それはないよ」
「決めつけない。ものすごく合う人に出会う可能性だってあるんだから」
「ない」
「ないか」
彼女は残念そうだった。乗り遅れたバスが去って行くのを見送るようだった。
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