第16話 背負い続ける十字架

 選考レースの朝が来た。


 欠席することも考えた。でも彼女が実際のところわたしの不正に気づいたかどうかは分からない。欠席することによって彼女が逆にそこへ思い至ってしまう可能性が恐ろしくて、わたしはスキーウェアを着てスキー場へと向かった。


「みんなはいつもどおりだった。がんばろうねって言ってくれた。わたしは少しほっとした。自分の考えすぎだったのかもしれない。あの一瞬のことでは、あの子はそこまで状況を見渡してはいなかったのだと。そしてブーツを履いて、乾燥室に向かった。わたしに次のどきどきが押し寄せてきた。ワックスの塗り跡がばれるのではないか。でもそれも杞憂だった。みんなは自分の板を手にしても何も不審に思ってはいない様子だった。ウォーミングアップから簡単なインスぺ(コースの下見)をする間も、ちらちらと周りの人間を伺っていた。正直に認めるけど、自分のやったことがちゃんと効果をあげているのか、できれば効いていてほしいという気持ちがわたしにはあった。ワックスをアイロンでちゃんと溶かして沁み通らせた訳じゃないからね。あまり大問題にならない程度のささやかな効果を期待した。わずかにでも首をひねる様子を盗み見て密かにほくそえんでいた。違和感があるようだった。わたしは自分が恐ろしい人間だと思った」


 今ここで、みんなにすべてを白状してしまうのが正しいのではないか。そんな気持ちもあった。


 ただそれは、罪悪感もわたしにはちゃんと備わっているんだという、自分を正当化するためのつじつま合わせに過ぎなかった。本当にそうするつもりなど、ひとかけらもなかったのだ。


 そしてわたしはスタートラインに立った。スタートの合図をあんなにも楽しくない気持ちで聞いてしまったことで、自分がスキーを汚しているのだということを思い知らされた。


 目の前に広がる、大好きな猪苗代湖の水面を見つめることができなかった。日差しを浴びてきっと美しく輝いていたのに。


「始まっちゃえば、ずうずうしくも無我夢中で滑った。割といい滑りができた気がしたの。ちょっとほっとした。あとは、最後のほうに滑るエース級の人たちの結果を待つだけ。効き目を待つだけ。やっちゃったものはしょうがない。ばれないようならば、そういう運命なのだと認めてしまえばいいのではないかと、わたしはそんな厚顔な気持ちでいた」


 そして世界の正しい姿を見たのだ。


 部員たちがうなりをあげて飛んでくる、しなやかな弾丸のようだった。力強くなめらかなターン。


 タイムなど見るまでもなかった。わたしとは滑りの質の桁が違って見えた。


「どうして?」


 呆然としてつぶやいた。こんなはずではなかった。少なくとも元々わたしと彼らとは、それなりにいい勝負にはなるはずの力関係だった。そこにワックスのハンデが加われば、こっちが有利。


 なのに結果はあまりに一方的だった。


 理屈では分からなくとも、それはわたしがやってしまった愚かな行いに対する正しい結果であることを悟らされた。彼らが上がったのではなく、わたしが下がったのだ。


「完敗。ぐうの音もでないとはあのこと。散々な気持ちでシーズンは終了した。雪が溶けて桜が咲いて、練習内容は自転車とか体力を強化するものになった。平穏な日々が流れた。そして綺麗な若葉の下を二人だけで歩いているときに、あの子がぽつりと言った。『大丈夫。何も見なかったことにする。気持ちは分かるから』ってね」


 その瞬間のすべての感情が、たったいま負ったばかりの傷口から血が吹き出すかのようにこみあげてきて、わたしは立ち上がり、視線があちこちをさまよった。


「今にして思えば、みんなにばれていたような気がするなあ。あの子は言わないでいてくれたけど、レースの時みんなきっと思ったのよ。ああ、誰かが卑怯な真似をしたんだなって。分かったうえで真っ正直に滑って、わたしは蹴散らされたんだ。わたしはオフシーズンの練習を休みがちになった。自分が部を辞めちゃうんだろうなって思った。高校受験に本腰入れたいとか適当な理由をつけてさ。よく指導してくれていたスクールのコーチの方は様子がおかしいわたしを気にかけてくれたけど、誠意のない言葉を並べてやり過ごしていた。そして秋が来て、あの子たちはオーストリアに旅立って、事故に遭った」


 全校生徒を前にした校長先生の言葉を覚えている。

 

 現地の人々が夜を徹して捜索してくれています。信じましょう。


「この場所でみんな死んじゃった。コーチも死んじゃった。わたしまだ謝ってなかったのに、ずるい人間だと思われたままで終わってしまった」


 この先どうやって生きていけばいいのか分からなくなった。わたしにとってこの世界は、笑うことも、ふとした幸せを感じることも許されない場所になってしまった。


 ただ、それだけではなく、わたしたちにはやるべきことができた。


 わたしたちというのは、遺された者たちのことだ。猪苗代中学スキー部。オーストリアに行けなかった者たち。


 主力を失った状態で、次のシーズンの大会に臨むことになった。猪苗代中学は県大会連覇の途方もない記録を継続中。


 勝たなければならない。


 記録なんていつかは途絶えるものだけれど、彼らが亡くなったせいで負けたなどと、つまらない責任を負わせることがあってはならない。


 また一方で、チーム力が大きく大きく落ちたのは事実だ。


 彼らはほんとにすばらしいスキーヤーたちだった。何もなければ日本を代表するような選手にまでなれたかもしれない。


 でもそんな光に満ちた未来への道はもう閉ざされてしまった。起こらなかった事柄はいつか忘れ去られていく。なかったことになる。


 世間は思うかもしれない。死んでしまった彼らに対して憐れみを込めて、いい選手だったのだと下駄を履かせた評価を与えているのだろうと。


 冗談じゃない。


 彼らはほんとにすごかったんだ。わたしがどんなに頑張っても、どんな卑怯な手段を使ってすらも叶わなかったんだ。


 勝たなければならない。彼らに負けたわたしが一番になって、彼らの偉大さを証明するのだ。


 猪苗代中学は県大会を制した。チームの誰かが天に向けて言葉を投げかけた。「これはわたしたちの勝利」と。


 そしてわたしは自ら望んでその十字架を背負い続けた。わたしはまだ許してもらっていないと思った。


 高校に進んでも、わたしは滑って滑って滑りまくった。ヘルメットにはあの子たちの名前が刻まれていた。弱い心が自分のなかに湧き上がりそうになると、あの子たちにじっと見られているような気持になった。その視線から逃げるように滑り続けた。


「あの猪苗代中学のメンバーだということで、煩わしい思いをすることもあった。でもそれもわたしが背負うべきものの一つだと考えて今日までやってきた」


 メダルをかかげると、それは光を浴びてきらめいた。


「わたしやっとヨーロッパに来られた。嬉しい」


 あの子の名前のあるスタンドグラスの元にそっとメダルを置いて、語りかけた。


「ね、これであなたたちとわたしのお話はおしまいってことでいいよね? わたしはもう疲れてしまった。本当は四年前にスキーを辞めるつもりだった。先送りにしていたけれど、けじめをつけなきゃ。スキーを汚してしまったわたしにできることはここまで」


「朔?」


「北野くん。わたしはスキーを辞めます。もう滑りません。あなたとの日々は得難い宝物のようだった。でもそれももう終わり」


「待ってよ朔。君の話は分かった。けど一人で結論を出されてしまったら、俺の気持ちはどうなるの?」


「あなたを傷つけてしまうことはとても悲しい。でもお願い、分かって」


「わからないよ。君はよくやった。もう許されてもいいじゃないか!」


 わたしは大きく首を左右に振った。涙がにじんだ。


「わたしは苦しみ続けなければいけないのに、どうしてもスキーは楽しかった。あなたやスミレとの時間はとても楽しかった。それじゃあ、だめなのよ」


 わたしは北野くんに一方的に別れを告げて、合宿のあと二度と会うことはなかった。


 これがスミレに語ったことのない、昔の話。


 当時彼女には引退の理由を、気持ちが燃え尽きてしまったとだけ伝えた。


 スミレは激怒して一時期わたしたちは絶縁状態になった。数年が経ちスミレの結婚がきっかけとなってまた連絡を取り合うようになり、今に至る。


 弟のはじめにも同じだった。ちゃんと話したことはない。


 自分の大事な人たちには説明するべきなのではという思いと、北野くんにも本当は話すべきではなかったという思いが胸の中で二つ重なって、ときどきわたしを悩ませる。


 わたしは携帯でメールを打ってから、今度こそ寝ることにした。送ったメールの内容は、こんな感じだった。


『ごめんなさい。その日は用事が出来てしまいました。食事はまた次の機会があればということにさせてください。ごめんなさい』


 スミレにはその後なにも言わなかった。やり過ごそうと思っていた。


 しかし、その約束があった週末の夜に、なんとも間の悪いことにわたしは食事に誘ってくれた男性と出くわしてしまった。


 場所はわたしのアパートから車でちょろっと走ったところにある大きな本屋。


 わたしはレンタルDVDを小脇に抱えて立ち読みをしていた。雑誌に書いてあった小顔になるマッサージを片手で試しながら、ふと振り返ったらその男性がいた。


「やあ」

「あ、どうもです」


 わたしはあせって、それからすぐに観念した。この取り繕いようのない暇人っぷり。

 用事があるようには見えない。


「家、このへんなんですか?」


 とってつけたようにわたしが尋ねても、状況はひとつも変わらない。


「いや、結構離れているけど、ここ大きいから」

「ですよね。あ、わたしは近いんですよ」


「へえ、どのへん?」


 ぺらぺらと中身のない話をしながら、わたしはここでもう一度地震が起きてくれないだろうかなどとひどいことを考えていた。


 あらためて見た彼はまじめそうな人だった。わたしに誠意がないから余計に、相対的に、そう見えたのかもしれない。


 数日後に、スミレから『反省会のお誘い』が来た。


「そりゃまあね。断る理由に多少の嘘をつくなんてことは誰でもすることよ。バレ方が間抜けなのもあんたらしいっちゃあんたらしい。ただね、そのあとも藤田さんからメールあったでしょ。そんで返事してないでしょ。それはどうかと思うぞわたしは」


「スミレには悪いけどさ。いまはいいよ、やっぱり」

「わたしのことはどうでもいい。何度もいわせるな。でも藤田さんへの態度はちょっとひどい」


 わたしは何も答えない。少しだけおしゃれなバーのカウンターでわたしはグラスに口をつけた。おかしいな。お酒ってこんなにまずいものだっけ。


「あんたがこれほどわきまえてない人間だとは思わなかったな」


「理屈では分かってるよ。でも誰かのためにちゃんと向き合おう、自分のためにも真剣に考えようって気持ちがどうしても湧いてこないの」


「あんたはそれでいいの?」


「いい悪いの話じゃないでしょ? しょうがないって言ってるのよ、わたしは。だいたいね、好きな人を見つけたいって考えがまず初めにあって、それで誰かを心から好きになれる人なんて、世の中にほんとにいるの? わたしは無理。他人と違う自分がいやで、みんなと横並びになりたくて、それで自分に嘘をついて人を利用するなんて、それこそ許せない。吐き気がする」


 言葉はわたしの本音だった。


 北野くんと別れてから、わたしは誰も好きになることができないのだ。


「見捨てていいよ、わたしなんて」


 スミレはロックグラスのお酒をぐいっと忌々しげに飲み干した。


「指図すんな」


 二人とも黙った。


 長生きしすぎているのかな、わたしは。

 

 やりたいことがまだあるのに死んでいくもののことを人は不幸と呼ぶ。

 でも、やりたいことがもうないのに生きているものには誰も慰めの言葉をくれない。

 がんばれとしかいってくれない。


 店の中の青い光も、落ち着いた音楽の人々のざわめきも、質のよさそうなカーテンですらが、わたしのことを軽蔑していた。


「朔、わたしのいま考えていること、分かる?」

「ううん、ちっとも分からない」


「ふん」


 この日は最後まで酔えなかった。二人とも。

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