第15話 カプルンでの告白
高校二年の全国大会のあと、出場した選手たちによる強化合宿が行われた。わたしとスミレと、それから北野くんもその合宿に参加した。
「たしかさ」
十日に及ぶ長野での長い合宿のあいだに、わたしと北野くんは仲良くなった。いや、仲良くなったというよりも。
「帰りの電車の中で北野くんが朔に告白して付き合い始めたんだよね」
そんな感じになった。
スミレとたくさん話したのも実はその合宿が最初だったが、当時の彼女はわたしへのライバル意識を清々しいほどにむき出しにしていたので、睨み顔以外の表情をわたしが拝むことは叶わなかった。
わたしとスミレはスキー技術についての持論があちこち食い違っていて、合宿中たびたび言い争いになった。あとから考えればどちらも正解だったのだが、わたしもむきになって彼女の意見に食い下がった。
わたしとて彼女のことを絶対に負けたくない宿敵だと思っていた。数年後にはこんなふうにげらげらと笑いながら酒を酌み交わす仲になろうとは思ってもみなかった。
合宿の時、ホテルでわたしたちの話の内容がハイレベルなスキーの話から「陰険キツネ」とか「腹黒たぬき」とか、とても低い罵り合いに移り変わったところに北野くんが割って入った。彼はわたしに話しかけた。
「ケーキバイキングあるんだって。みんなで行かない?」
「……行く」
「わたしも、行こうかな」
「二人とも、そんな怖い顔で滑ったってうまくなんかならないよ、笑っとけ」
軽い足取りで先に行く北野くんを見るわたしは、とてもふぬけた顔をしていたと思う。
わたしの様子をみてスミレはいらっとして舌打ちしたそうなのだが、耳には届かなかった。
そのくらい彼の立ち振る舞いは格好良かった。背が高くて、清潔感があって。初めて出会った都会の男の子だった。
北野くんとの交際は始まりからして遠距離だったが、会う機会はたくさんあった。
スキー競技をやっていると他県選手との交流がいくらでもある。特に北野くんの住む神奈川はいわゆる『雪なし県』だ。遠征しなければ滑れない。
高校最後の冬に向けて、北野くんともう一度いっしょに全国大会へ出ることが目的の一つとなった。そして夢は終わり、十八歳の冬に彼と別れた。
以来、八年もわたしは誰ともつきあっていない。
スミレは、北野くんとの別れをわたしが引きずっているのだと思っている。
それで彼女の友達の友達にあたる男性をわたしに紹介してくれようとしていた。
すでに一度スミレ主催の飲み会に参加して、そこでその男性とは会って話している。悪い人ではなかった。
「連絡先は交換したんでしょ? そろそろお誘いがあるかもね」
「ああ、そうね」
「乗り気じゃない? いやならわたしが断ってもいいんだからね。さしたるしがらみがあるわけでなし、わたしなら平気だよ」
「そこまでじゃないんだけど、もう少し話してみないと分かんないかなあって感じ」
「うむ。あんたの良さも一度きりじゃたぶん伝わんないだろうしね」
「面倒かけんね、スミレ」
「いいってことよ」
スミレは二年前に結婚していた。旦那さんは出張が多い。今日もそうだ。家事を普段はちゃんとしているようなので、多少の夜遊びは許してもらえる。上手くいっているらしい。
日付が変わる少し前に、スミレはタクシーで帰った。
夜の住宅地に極限まで酔っぱらったスミレの「ヘイタクシー!」という叫びが響き渡った。どこかで犬が吠えていた。向こうの家で明かりがついた。
わたしもずいぶんと酔っていたが、ふらふらと部屋のあちこちに体をぶつけながら、着替えを準備して、シャワーを浴びた。
パジャマを着てベッドにどすんと座り込む。そのまま倒れこみそうになるのを何とか踏みとどまって、わたしは立ち上がった。
実は。スミレには言わなかったが、紹介してもらった男性から食事の誘いのメールが来ていた。
そして次の週末に会うことになっていた。
わたしはクローゼットを開けてそこに並ぶ洋服を端から端までながめた。
世間一般の感覚でいうところの女の子らしい服というものがひとっつもない。頑なにスポーティ。なんと偏った買い揃え方をしてしまっているのだろう、わたしというやつは。
久しぶりのおデートに何を着ていったものか、いくら考えても手持ちの駒からは妙案が浮かばない。仕方ない。お金に余裕はないけれども新しく買い揃えるしかない。
全身ひととおり買うのはどうにも苦しい。これはインナーとしてまあ、使えそうだ。そこにこんなのとこんなのを買い足せばどうにか。わたしはあれやこれやと服を手に検討を続けた。
しばらくしてわたしは服を全て戻して、クローゼットを閉じた。それからもう一度ベッドに座った。
スミレは思い違いをしていた。わたしと北野くんが別れたことについて非は彼にあると彼女は思っていた。しかし悪いのはわたしである。わたしだけに責任がある。
そしてわたしはスミレに事実の訂正をしようとしない卑怯者である。北野くんとのことは、彼女のみならず誰にも話していない。愛用しているオレンジ色の日記のなかで吐き出すくらいのものだった。
高校三年のインターハイが終わった後のこと。再びわたしと北野くんは強化合宿へと旅立った。
北野くんはグランドスラロームで準優勝だった。スミレは参加メンバーの中にいなかった。
その年の合宿地は海外、オーストリアだった。
練習の合間に一日休養日があり、わたしと北野くんは二人で出かけた。誘ったのはわたしだった。
電車とバスで、合宿地から一山超えて、別のスキー場に着いた。カプルンという場所だ。
二人とも外国語なんてできなかったが、イエスとノーとサンキューの三語と、それから笑顔があれば、世界中どこにでも行けるのだとわたしたちは証明してみせた。
目的は滑ることではなかった。
故郷の会津とはまるで違う形の山。どうしても見たかった景色。
わたしたちは、ゲレンデの隅に建てられた四角いコンクリートの建物へと入った。
側壁には様々な色の長細いグラスパネルがはめ込まれていて一つ一つに人の名前が刻まれていた。
その中には日本人の名前もある。わたしはそのうちの何人かを知っている。
グラスパネルから差し込む光と光のあいだを二人で歩いた。
「あった。これがわたしの同級生たち。あ、この人はね。この子のお父さん」
「基礎スキーで有名だった人だね」
「みんなすごく上手だったのよ。わたしなんか相手にならなかった」
「事故があったのは四年前か。でもいまじゃ、朔は日本のチャンピオンだ」
「いまでも勝てる気がしない」
彼らはわたしと同じ猪苗代中学のスキー部員だった。
猪苗代中学は福島県スキー界の名門だった。わたしが中学二年生の時点で、福島県でスキー大会が行われるようになって四十二年がたっていたが、猪苗代中学は四十二連覇していた。
つまりは無敵だった。
強さの理由として一番に挙げられるのは、もちろんスキー場のすぐ隣に学校があるという最高の立地だったが、それだけではなかった。町全体のスキーにかける熱量がとにかくどこよりも勝っていた。
あの冬、ただの公立中学であるにもかかわらず、猪苗代中学のスキー部はシーズン初めに海外合宿を行うことになった。
十一月上旬には滑走可能になるヨーロッパまでこの人たちは雪を求めて旅立った。
そしてスキー場で、ケーブルカーの火災事故に巻き込まれて亡くなった。死者百五十五人の大惨事だった。
わたしはしゃがんで手を合わせた。目を閉じてとても長い時間祈った。横で北野くんが同じように祈ってくれているようだった。
「誰にも話したことがないことを教えてあげる。心して聞いてね」
わたしは彼に向き直った。祈りを解いた北野くんの目に戸惑いが浮かんだ。でもすぐに微笑んでくれた。
「うん、聞くよ」
わたしも微笑みを返す。嬉しかった。たとえこれから嫌われることが分かっていても。
「四年前に猪苗代中学でね、ヨーロッパ遠征に参加するメンバーを選ぶために部内でのレースがあったの」
わたしが中学一年生のときの三月。スキーシーズンの最後に、来シーズンの合宿に向けて選考が行われた。
猪苗代の雪はその時期になると、気温の上昇のためにだいぶゆるんでくる。シャーベット状、地元の言葉でいうところの「ざけた」状態となる。条件は良くないがそれ故に技量の差が良くわかる。
「レースに向けてわたしは徹底的に滑り込んだ。どうしてもヨーロッパに行きたかったから。だってヨーロッパよヨーロッパ。田舎に生まれたわたしにとってそれは月に連れて行ってもらえるのと変わらない、想像を超えた栄誉だった。昼も夜も猛練習。ほんとにバカみたいに練習するのよ。猪苗代の子たちって」
「よく話してくれたよね。ナイターで急斜面を全速力で滑り降りる猪苗代の子供たち」
「小さな子供から中学生、高校生までが絶え間なく滑り続けるの。けっこうな暴走行為だから、まったり滑りたいほかのお客さんからすると怖いんだけどね。自分よりうまい人を追いかけて、追いかけて、ちょっとずつ強くなっていくの。北野くんに弟の話ってしたっけ?」
「九才下の?」
「そう。上手くなるわよあの子は絶対に。わたしたちをものすごくむきになって追いかけてくるのよ。転んでも転んでもひたむきに。わたしの尊敬するすごいスキーヤーの一人。わたしも彼のように滑るべきだったのに」
「朔だってがんばったんでしょ?」
「うん、がんばった。でも周りもおんなじだけがんばっていて、差はなかなか縮まってくれなかった。レース本番を目前に、わたしは自分が勝てないことを悟った。少なくともわたしがベストの滑りをして、ほかのみんなもベストの滑りをした場合、はっきりと差が現れる」
「でもレースは上手い奴が必ず勝つとは限らない」
「あのころのわたしはそんなふうに開き直ることができなかった。恐怖で押しつぶされそうだった。自分を信用できなくなる恐怖。これ以上何もできることはないと断言できるほどの練習をしても届かない、そんな人間が何人もいるという事実を受け入れなければならないこと。それがレースでどんな結果が出ることよりも恐ろしかった。世間知らずよね」
「それを笑える人間なんて、この世にいるものなのかな」
「みんなそうなんだと思う。けどわたしはそれが許せなかった。そして、勝つために正しくないことをしてしまった」
レース前日の夜。スキー場内の乾燥室に立てかけられた部員たちのスキー板。
「板は一晩スキー場に置きっぱなしにしておいて、翌日は朝早く集合ってことになったのね。夕食の後、わたしは家を抜け出した。寒かったけど、三月になるともうそれほどでもない。あ、地元の子にとってはということだけどね。手には固形ワックスをもっていた。スキー場を目指して真っ暗な道を歩きつづけた。親切なわたしは、仲間の大事なスキー板にワックスを塗ってあげようと思ったの」
北野くんの顔が曇った。もう二度と晴れることはない。わたしが彼の青空みたいな笑顔を見ることは、もうない。
「低温用のワックス?」
「そう。気温がマイナス一〇度を下回るような一月とか二月のトップシーズンに使う、撥水性が少ないタイプ。湿った雪質とは相性がとても悪い。そんなものを塗って暖かい三月のレースに臨むバカなどいない。誰もいない夜の乾燥室で黙々と作業をするわたしは、いったいどんな表情をしていたのだろう。固形ワックスをただ塗っただけの状態だと滑走面が白んで見た目で気づかれちゃうから、コルクでこすって極力分からないようにした。調子に乗って何本もの板にワックスを塗った。だってしょうがないのよ。板を見るでしょ。すると持ち主の顔が浮かぶの。で、ああ自分はこの人に勝てない、と思うと塗らずにはいられなかったのよ。そうするべきなんだとすらあの時のわたしは思っていた。作業がようやく全部終わって、満足したわたしがさあ帰ろうかと思ったとき、乾燥室の入口のドアが開いた」
あの子がいた。スキー部員の女の子。竜巻のような悪寒がわたしを襲った。
「彼女もスキーの手入れに来たの。もちろんわたしとは正反対の意味合いで。『信頼する自分の道具に触れていれば、レースの不安など消えてくれる』あの子のそんな清廉な言葉がわたしの胸を裂いた。にもかかわらず、わたしはぬけぬけと言葉を返した。自分も、自分の板に最後の調整をしに来たのだと。あの子は親の車で送ってもらって来たので、帰りは一緒に乗せてもらった。わたしの家に着いて、笑顔で別れた。彼女はまるでなんの疑いも持っていないようだった。でもわたしの心臓はいまにもつぶれそうだった。だってね、北野くん。あの子が乾燥室に入ってきたとき、わたしは彼女の板の前にいた。自分の板なんて部屋の反対側の壁にかかっていた。わたしが手にしていた低温用のワックスもきっと見られた」
そしてわたしは一睡もできずにレースの朝を迎えた。
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