第二部 早川朔の日記より

第14話 2012年4月

 世の親たちに問いたいことがある。きらきらネームの件についてである。子供たちが数十年後、爺さん、婆さんになったときにどうするつもりでいるのかと。


 戦の装束たるピンクのエプロンを身に着けて、わたしは愛しいものたちの名を叫ぶ。


「路未央(a)! それは積み木だ、食べ物じゃなーい! 大熊猫(b)、姫舞(c)の髪の毛引っ張ってんじゃないよ! 燃志(d)どうしたの? どうして窓から飛び出して走り出すの? 戻ってこーい!」


(a)~(d)の読み方の解答は後ほど。


 ロッキーが昔こんなトレーニングをしていた。フットワークを鍛えるために、ニワトリを追いかけまわすやつ。でもあっちはこんなに数が多くはなかった。


 これ以上足腰を鍛えてどうするのだ。


 しかもこれは特訓ですらない。奇声をあげながら思い思いに暴れまわる園児たちは、わたしの職場、さいころ保育園の日常だった。


「いやー、朔ちゃん今日も雄々しかったね。大変だった」


 どうにか子供たちを寝かしつけて、保育士たちはお茶の時間。先輩の下山さんが、わたしのマグカップに紅茶を入れてくれた。


「下山さん、ほとんど見てただけじゃん」


 恵比寿様のようなめでたい風貌の彼は、怒鳴り声をあげたのを聞いたことがない。


 だいたい怒鳴ったところで全然迫力がない。機動力もないので子供たちを捕まえることもできない。


 でも飛び回って疲れた子供たちが最後に羽を休めるのは、彼の腕の中だったりするのだ。


「わたし納得がいきません」

「そういわれても僕って昔からこうだから。プレースタイルの相違ってやつ?」


「なによその上から目線」


 彼の風船のようなお腹をげんこつでつつく。それから子供たちの姿を眺めた。暖房の効いた部屋で毛布にくるまって眠る怪獣たち。かわいいなあ、くそう。

(ちなみに解答。a ろみお b ぱんだ c めまい d もやし。いいのか日本)


 子供の数に対して教室は大きめで、ある程度近づけて眠らせていることもあるが、部屋の三分の一は空いた状態だ。


 子供は減っている。少子化が急に進んだのではない。東日本大震災のあと、去年の夏休み明け、がくんと数が減った子供たちを前にして、わたしの笑顔は固かった。なんと説明してあげれば正しいのかが分からず、それはいまも答えが見つからない。


 2011年の震災から一年が経った。福島からの県民流出は進んでいる。


 一人の母親がこんな言葉を残して去って行った。


「みなさんも早くここから出ていけるといいですね」


 お先に。


 悲しんでいる場合ではない。出ていくことが悪いことなのではないのだ。そう思いたくなる自分のなかの弱い心に負けてはいけない。


 わたしはこの子たちに、これからあなたたちが長いときを過ごすこの世界は美しい場所なのだと、身をもって教えなければならないのだ。


 子供がひとり、毛布をはねのけてもそりと起き上がった。下山さんが腰を上げて、その子のもとへと歩み寄った。


「太郎、暑いかい」


 太郎くんは何も答えずに、下山さんが伸ばした暖かそうで柔らかそうな手から逃れて行ってしまった。そして結露のたっぷりついた大きな窓に手で『足跡』をつまらなそうに作りだした。


 まつ毛の長い、太郎くんの綺麗な横顔。きっとかっこいい男の子になる。いい名前だね、太郎。


 下山さんの大きな背中が、触れないとしぼんでしまいそうだった。


「ね、みんなが起きないうちに絵を貼りつけるの手伝って」

「ああうん、そうだね」


 雲は今日も厚い。


 下山さんと太郎くんは実の親子だ。


 保育園で自分の子供をあずかるなどということは、誰もかれもがやりづらいので普通はやらない。でも仕方がないのだ。


 奥さんと別れてしまって、太郎くんはむこうが引き取った。生活環境が変わってしばらくすると、太郎くんはふさぎ込むことが多くなった。かと思うと、だれかれ構わずものを投げつけて大声をあげた。


「僕のせいだよ」

 いつだったか下山さんがつぶやいた。


 最初入った保育園で上手くいかなかった。追い出された。それから流れ流れて、太郎くんは父のもとへとたどり着いた。いつもおばあさんが迎えにくる。彼のいまの名前は長沼太郎くん。


 太郎くんにはこの場所しかないのだ。郡山を去って行ったあの母親は、きっと彼のことを、涙を流して憐れんでくれるだろう。


 保育士というものは、子供たちが帰れば業務終了というわけではない。運動会など行事の準備や事務仕事がやまほどある。


 わたしがその日の仕事をどうにか終えることができたのは九時近くのことだった。


 元々人員不足なのに、近ごろ一人来なくなってしまった保育士の女の子がいて、さいころ保育園の業務はパンク寸前だった。


 車に乗り込んでエンジンをかける前に携帯を覗くと、スミレからメールが来ていた。彼女は古くからの友人だ。


『酒はまかせろ。つまみを準備せよ。脂っこいなにかが食べたい』


 顔文字も絵文字もない、作戦指示のような簡潔なメール。つまりはこれからわたしの家にスミレは襲撃をかけるつもりなのだ。持ちきれないほどの酒ビンを抱えて。


 受けて立とうではないか。明日も仕事ではある。スミレだって仕事のはずだ。でもひとたびわたしらがお酒を飲み始めたら、とことんまでやることになるだろう。


 スミレを迎撃すべくわたしはスーパーで食材を買ってからアパートに戻った。彼女が呼び鈴をならしたころには、厚切りにしたハムを焼くいい匂いが部屋に充満していた。


 彼女はドアが開くなり叫んだ。


「うわーしまった! 罠だ! 待ち伏せされた、肉に待ち伏せされた!」

「スミレ、もうすでに飲んでんの?」


 スミレはわたしの声など聞こえていないかのように、つまようじを一本手にして、それでジュージューいってるハムを一切れ刺して口に運んだ。


「うん、ジューシーだ、そしてセクシーだ!」

 高らかに肉のうまさを歌い上げたスミレ。


 黒いスーツに身を包み、胸元にはセンスのいい銀のネックレス。髪がことさら短くて前髪を横に流している。その下には挑戦心を隠すつもりのさらさらない、きらきらした釣り目を持つ女の子。


 細身の姿は、隙の一つもないキャリアウーマン様のようだ。しかしてその実態は酒好きで肉好きの一匹の動物。


「こっちは仕事で怪獣たちを相手にしているんだから、プライベートは人間と過ごしたいんだけどな」


「誰だって似たようなもんよ。つーか人と獣とに順番があると思っているところが、君のそもそもの勘違いなのだ」


 うん、彼女は酔っている。スミレは二つ目のハムを頬張る。


 そしてスミレは居間へと向かう。左足を重そうに引きずっている。誰かに引っ張られているみたいに、引きずっている。


 テーブルの横に彼女は紫色のエコバックを下ろす。中には赤ワインが二本、白ワインが一本。赤の高そうなほうのボトルはすでに三分の一は空いているようだった。


「あんたバスの中で飲んでたの? ラッパ飲み?」

「まーさか、そんな品のないことしないよ。水筒にコーヒー入れて職場に持って行ってたからさ、それのカップ使って手酌で」


「あらお上品」


 わたしは焼きあがったハムとチーズを皿にそれらしく並べて、スミレの前に置いた。


「ひゃっほう、コレステロール万歳!」

「スミレの血管と肝臓に同情する。ビール、あんたも飲む?」

 冷蔵庫から缶ビールを取り出しながら尋ねた。


「お、ビールか? ビールいっちゃうか? ワインからビールに逆走か? そうだよね、安いハムと安いチーズとそしてビールだよね。B級のBはビールのビだもの」

「そうB級は褒め言葉、って安くて悪かったわね」


 二人で着席。彼女にグラスを渡してビールを注いだ。泡立ちすぎないようにスミレはグラスを傾ける。にも関わらず結構な量の泡。


「あいかわらず下手だな、朔の注ぎ方は」

「うるさい。くらえ」

 注ぐビールはさらに勢いをまし、スミレは「ふざけんな、ふざけんな」とわたしの持つ缶を押し留めた。少しあふれた泡をすすってからスミレはグラスを掲げた。わたしもそれに倣う。


「朔、我らはこうして今宵も正しい酒にたどり着くことができたのだ。祝おうぞ、乾杯!」

「乾杯!」


 わたしはグラスのビールをひと息で半分飲んだ。スミレは全部飲み干した。


「んまーい!」

 二人して歓喜の声をあげ、なぜか立ち上がって、もう一度「いえーい」とグラスをかちんと合わせた。


 すると、どんと壁が鳴った。お隣の住人さんにうるさいと怒られたのだ。


 わたしとスミレはぴたっと動きを止めた。スミレがひゅーと口笛を吹いた。それからともにおとなしく座った。


 チーズをつまみながら、楽しく酒を飲み続ける友の顔を眺めた。


 こうして彼女はいつも来てくれる。仕事の疲れやらなにやらで心が重くなりかけたころに、見計らったかのように来てくれる。


 わたしとのおバカな時間が、彼女にとっても少しは救いになっているというのならばうれしい。


 わたしたち二人は、かつて天下分け目の戦いを繰り広げたことがある。


 高校三年冬のインターハイ。スラローム競技でわたしは日本一になった。


 スミレは郡山の高校に通っていた。


 猪苗代高校のわたしと、県大会では勝ったり負けたりして互角だった。いつもわたしたちが一位と二位。三位以下には圧倒的な大差をつけていた。


 わたしたちは一年のときから福島の代表として全国大会に出場、優勝候補に名を連ねていた。


 でも二人とも、腕は確かだけどいささか荒削りだった。不安定で攻めることしか知らず、確実性というものに価値を見出すことのできない性格だった。


 一年と二年の全国大会では鮮やかな滑りを途中までは見せたものの、最後には転んで敗退した。二人とも。


 わたしたちは、雪国福島の長いスキーの歴史が生み出したぴかぴかの最高傑作。


 二人の無冠の女王は最後の全国大会で決着をつけたのだ。


 そしてあの冬のことを顧みるとき、わたしたちはどうしてもある一人の男の子のことを思い出さなくてはならなくなる。


 彼と初めて会ったのは高校二年のインターハイの時で、彼は神奈川の代表だった。


「そういえば、北野くんからこないだ、すんごい短いメールが来たよ。生きてはいるみたい」


 スミレの言葉に自分の笑みが固まったのが分かった。


「また、わかりやすく動揺したな」

「いまちょうどわたしも北野くんのことちょっとだけ思い出していたから、びっくりした」


「朔には連絡ないの?」

「ないよ」


 あるわけがない。


「ふうん、わたしもさ、ちょろっとだけ返事のメールを出して、それだけ」


 わたしが黙ってしまったので、ようじでハムを取ろうとしたスミレは、ふと手を引っ込めて、少しこちらに顔を近づけて、じっとわたしのことを見た。


 彼女はわたしと北野くんの間に起こったことを半分だけ知っている。


「あいつめ。いつまで朔のことを縛り付けるつもりだ」

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