第13話 追い続けた彼女の背中

 その番組の中では『良心』という言葉を、訳知り顔の司会者やコメンテーターが何度も口にした。


「ただわたしがわからないのはね。この『早川朔』という女性は、金銭的にそう困っていたわけでもないのに、どうしてこんなリスキーなことをしたのかということなんですよ」


「たくさんの男性たちからちやほやされたいという、自分がかぐや姫にでもなったかのような錯覚の中に浸りたい、そんな自己承認への願望が根っこにはあったように見えて仕方がない。そこに相手を思いやる気持ちはひとつもなかった」


「こんな綺麗な子がねえ。普通に恋愛して、普通に幸せになれただろうに、どこでまちがえちゃったんでしょうね」


 壊れてしまった彼女の良心。話しはそれから、結婚相談所というシステムの抱える問題点や、東日本大震災後のストレスのことへと移って行った。


 僕はこの日、学校を休んだ。携帯で確認するとネット上では案の定『美人お見合い詐欺師』に対する汚い罵りが並んでいた。


 鈍い足取りで誰もいない食堂に向かい、冷蔵庫の飲み物をコップに注いでテーブルで飲んだ。


「優雅な月曜日を送っているね」

「文太、どうした」


 まだ昼前だというのに、学ラン姿の文太が食堂にはいって来た。


「さぼった。俺も飲む」

 彼は棚からコップを取って僕の向かいに座った。


「テレビでなにか、はじめの知らない情報はあったのか?」

「ないよ。俺でも知ることができるようなことしか取材で得られないなんて、そんな大したもんでもないんだな、あの連中は」


「しかし、視聴者には受けている感じだな。続報を放送するだろ。腹立たしいが」


 僕は空になったコップを指でこつん、こつんと鳴らした。


「親は顔を出されたのか」

「声だけだった。俺も同じく」


「そうか。とはいってもお姉さんの実名が出されちゃったからなあ。こうだけはなってほしくなかったんだが。学校、しばらく休んでもいいんじゃないか?」

「親が心配だから、一度猪苗代に戻るかもしれない」


「残酷なもんだな、世間ってのは」


「けど、どうしてこのタイミングでワイドショーは事件を取り上げたんだろう。朔が亡くなった直後にちょっとやって、あとはそれっきりだったのに。警察はかなり早い時点で朔のお見合いの件は知っていた。それがもれちゃったのか。あるいは」

「漏らした?」


 午後、先日会った刑事さんから電話があった。


「確認中だが綿貫がマスコミに話したんだろう。やはり知っていたんだ」


 姉の恋人の不安定な視線を思い返す。何かがこらえきれる限界に来ていたのは彼の様子からわかってはいた。


「はじめくん、ご両親とどこかに身を隠すのであれば力を貸すよ。幸いというか、現在福島からほかの土地に移っている方は大勢いる。目だたないようにできると思う」


 実家にも電話した。彼らにとってはテレビによって新しく知った話ばかりだった。


「信じたくない」

 母の声は疲れ切っていた。実家には今日の午前中も、今度は別なテレビ局が取材に押しかけたという。


 電話を切った後、僕は部屋にとじこもった。食事の時間にも外に出なかった。文太がコンビニでパンを買ってきてくれた。


「親はすっかりふさぎ込んでしまっている。残酷な嵐がどうにか過ぎてくれるのを穴に潜ってじっと待っている」

「無理もない」


「昔からそういうところはある人たちなんだ。見たくないものから目を逸らす。だから俺が目を逸らせない。俺も隠れていたいよ、そりゃあ。でも避難のための穴の中にはもう両親が先に入ってしまった。俺が入るスペースはない。だから外で、自分はどうするべきか考えなくてはいけない」


「ほんとにそうか?」


文太の僕を見る目に憐れみは感じなかった。自分で買ってきたお菓子をぽりぽりとかじっている。


 お菓子の袋をくしゃっと丸めて、文太はそれを壁に向かって放り投げた。


「聞きたくないことは聞かなくていい。言いたくないことは言わなくていい。お前だって、そんなに余裕があるようには見えないよ。もう逃げろ」


 翌日も学校を休んだ。携帯には何件か着信とメールがあった。とても大事な用件かもしれなかったが、僕は画面を開くことはなく、携帯をベッドから離れたところに置きっぱなしにしていた。


 部屋の片隅で灯る携帯の青いランプを僕はずっと見ていた。ランプの光は淡く点滅しながら僕を叱責した。それでいいのかと問い詰めた。


 夕方、文太が学校から帰って来た。また僕のために食料を買い込んで来てくれていた。

「すまない」

 彼にお金を渡して、僕はサンドイッチの封を開けた。


「はじめ、今日はテレビ見たのか?」

「見てない。見ないようにしてた」


「そっか。俺は見てたよ。授業中に携帯のテレビで。クラスの連中の何人かは同じように教科書の影で見ているようだった」


「先生も授業しつつ見てたんじゃないのか?」

「はは、そうかもな」


「それで」

 僕はためらいつつ尋ねた。


「なにか新しい話ってあった? 親が無事かどうかも確認していないんだ」

「あったよ」


 文太はそれ以上何も言わない。


 僕は、ぼんやりと、昔ゲレンデで僕らを包んだ七色の光のことを思いだしていた。


 仲間たちは。


 もう遠くに遠くに滑っていってしまった。


 雪面に横たわっている僕を残して。


 置いてかないでほしかった。


 幼いころの記憶だ。よく上級生たちに交じって滑った。朔もそのなかにいた。


 みんなは豪快なパラレルターン。僕だけが板をVの字に広げたボーゲン。無理についていこうとすればもちろん転ぶ。板が両方とも吹っ飛んだ。背中や肩を強く打った。


 滑り転がって、ぼくの体はようやく止まる。みんなの背中が遠ざかっていく。誰もこちらを振り返りもしない。


 僕は辺りを見回す。板は斜面のずいぶん上の方に留まっていた。もうみんなは下までたどり着いただろう。ノンストップでリフト乗り場に進み入り、すぐに登ってくる。


 もたもたしている僕のことを彼らは決して待たない。板を持ってきてくれたりしない。


 スキー靴で雪面を登るのはとても面倒な作業だったが、僕はもがくようにざくざくと雪を削りながら、自分の板に向かって駆けた。


 それが僕という人間だ。もとより、それだけが守り抜くべき僕のとりえだった。


「言ってみてよ、文太」

 僕はうつむきながら頼んだ。


「いいの?」

「構わない。聞かせてくれ」


 文太はじっと僕のことを見つめた。


「お姉さんが利用していた結婚相談所のことだ。たくさんのお見合いのスケジュールを全部切り盛りしていた、彼女の担当がいた。そいつが全部知っている」


「その人が、姉の死にも関わっている?」

「それはまだ分からない。ただその担当者はお姉さんと昔からの知り合いだった。スキーの有力な選手だったらしい。知ってるか? 井上スミレという」


 すぐに思い出した。朔のお墓の前で会った女性。足を引きずっていた。


「あの人か」

「会ったことがあるんだな?」


「一度だけ。それで? 結婚相談所にも警察の捜査が入るってこと?」

「スミレという女性はもう退職している。結婚相談所では、全部井上スミレ個人が勝手にやったことだと言って逃げるつもりのようだ。はじめ、スミレに会うつもりなら、今度こそ俺を連れていけ」


「どうして」


「一人では危険だからだ。はじめ、確認するけど、お姉さんを殺害した犯人はまだ目星がついていないんだな?」


「そう、絞れていない。手詰まりになっている」

「ニュースのせいできっと状況が動く。警察も含めて事件に少しでも関わっていた人間に変化が起きる。危険だ」


「でも今会わなきゃ、永遠にその機会を逃してしまうことになるかもしれない。スミレさんから直接聞きたい。早川朔は卑怯者だったのかどうか。もしそれを確かめることができたなら、受け入れて生きていく。テレビや何やら、周りの大勢がどんな評価を俺たち姉弟にくだそうとも、それだって受け入れて見せる」


 文太は腕を組んで、じっと僕の言葉に聞き入った。

「おだやかでないことになりそうだ、時子にはメールで一応話しておくか」

「話すのか」

 あれから彼女に僕からはなんの連絡も取っていない。


「そりゃまあ、彼女だし? 今日は会おうって言われてたんだけどな。残念ながらキャンセルだ」

「いいよ、会ってきなよ。俺は一人で行く。今から」


「そんなに俺って頼りない?」

「頼る資格がないんだ。だって」


「はじめ」


 文太は僕の声を遮った。はっきりとした口調だったが、彼の顔には笑みが浮かんでいた。


「いいたいことがあるみたいだけど聞かないよ。お前からは聞かない。分かった。行って来い」


 彼の拳が僕の胸をぽんとあったかく叩いた。文太は僕の友達だった。


「気を付けて」


 駅で電車に乗り込むとき、ふと空を見上げた。夕暮れの街を重い雲が覆っていた。寒さの質が違ってきた。


 今にもシーズン最初の雪が降り出しそうだった。僕らにとって雪は始まりの合図だ。


 子供のころ、「雪だ」と誰かが言うその喜びに満ちた声は、胸を躍らせるファンファーレのようだった。

 

 今年は僕がその役目を担おうと思う。朔、僕が君に伝えるからね。「雪が降って来たよ」と。


 前に実家の姉の部屋で、手がかりを探そうとしたときに見つけた何枚かの年賀状の中に、スミレからのものがあった。住所は分かる。


 郡山の駅に着き、タクシーを使って彼女の住むマンションに向かった。たくさんの車とすれ違いながら、夜の街を走る。


 ヘッドランプの光が僕を一瞬だけ照らして通り過ぎていく。


 向こうに乗っているのは僕の知らない人たちだ。もしかしたら偶然知っている人もいるかもしれない。それから、僕がいつかどこかで巡り合う人とも、今この瞬間に一度すれ違ったりもしているのかもしれない。


 朔は人生の最後の期間に、とてもたくさんの人々と出会う日々を選んだ。


 出会って、捨てた。ひどい人間だ。


 理由なら誰にでもある。僕が時子を抱きしめたことにも、長々と言葉を並べて語れるだけの理由がある。そんなことは問題ではない。


 自分に投げかけたシンプルな質問。


 早川朔が犯罪者だったとしたら、早川はじめは彼女のことを嫌いになるのか。彼女との思い出がすべて暗く濁ったものに塗り替えられてしまうのか。


 おかしなことに、そうではなかった。


 僕の中にあるちっとも変わらない思いを、僕は認めて、受け入れた。


 マンションが立ち並ぶ住宅街にタクシーは到着した。


 十一階建の八階が井上スミレの部屋。インターロックではなかったので、容易に入り込めた。


 濃い緑色のドアの前に立ち、呼び鈴を押す。待つ間、僕は辺りを見回した。誰もいない。

 夜の街の光がきれいだった。


 大通りから距離のある住宅街は静かだった。


 人がたくさん住んでいるのに、このときだけがぽっかり抜け落ちているような、不思議な感覚があった。


 ここにもテレビや何やらが昼間は押しかけたのだろうか。僕が感じたのは騒々しい者たちが去って行ったその残り香のようなものかもしれなかった。


 返事はなかった。外見からも大きな間取りに見えたそのマンションにはおそらく家族と住んでいるのだと思う。


 もう逃げてしまった後なのだろうか。冷静になってみればその可能性は高かった。


 もう一度、呼び鈴を押して、やっぱり返事はなかったので、僕はあきらめてドアの前を離れた。長い廊下の向こうにあるエレベーターに戻ろうとした。


 向こうから歩いてくる男がいた。青いニット帽を深くかぶったその男はうつむきながらこちらに近づいてくる。


 すれ違う時にちらりと伺った。知らない顔だ。二十代だとおもうが、なんだか具合が悪そうな濁った顔色だった。


 後姿を眺めながら僕は、男が降りたばかりのエレベーターに乗り込もうとした。男はスミレの部屋の前で立ち止まった。家族だろうか。エレベーターを留めたまま横目で見ていると、男は僕が先ほどしたのと同じように部屋の呼び鈴を押した。やはり返事はなく、男がこちらを見たので僕は顔を背けてエレベーターに乗り込んだ。


 一度マンションを出たが、ここからどうしたものか途方にくれた。やはりほかの場所に避難していると考えるのが自然なように思われた。時間は遅かった。待てるだけ待っても良いが、望みは薄い。


とりあえずタクシーの中から近くにラーメン屋があったのを確認していたので、そこで食事をすることにした。


 僕はマンションの敷地を出た。歩きながら後ろを何度か振り返る。さっきの男は姿を現さない。もしかすると、一般人を装って粘り強く取材をしている、どこかのマスコミ関係の人間なのかもと思い至った。


 ゆっくりと歩きつづけ、ふと立ちどまった。自分がこんな時間にこんな場所にいることを急に不思議に感じた。前に時子が夜中のファミレスの雰囲気が異質なことに興味深げだったことを思いだした。


 時子が今どこで何をしているかは気にならなかった。というより、この時の僕は何も気にしていなかった。だから歩みを止めたのだ。夜の誰もいない歩道で、ただ立っていた。


 空にたくさんある遠い星のどれかから、誰かが僕のことをじっと観察しているような気がした。月のない夜だった。


 僕はマンションの方向に引き返した。


 もう少しでマンションの敷地に着くという時に、一台の車が僕を追い越して行った。


 黒い車。その車はマンションの駐車場で止まった。運転席側のドアが開く。


 車から降りたその細いシルエットに見覚えがあった。


 姉の古い友人、井上スミレ。


 ドアを閉めて左足を引きずりながら歩きだす。


 僕は彼女に駆け寄ろうとした。声をかけようとした。でも声を発したのは僕ではなかった。


「スミレさぁん。逃げちゃったのかと思ったよう」


 スミレは声の方を向いた。さっき僕がすれ違った男がいた。彼は微笑んでいた。


「やあ、久しぶり。どうしたの、わたしに何か用事?」


 スミレの声は落ち着いていた。僕は塀の影に隠れて様子を見守った。


「ごめんね急に来て。テレビ見たよ。面倒なことになっちゃったねえ」

「うん、実に面倒だ。でも心配しないでいいよ」


「そうもいかないでしょ。俺そんなに冷たい男じゃないよ。だって俺たちは運命共同体だ」

「何を言っているの?」


「大丈夫だよ、俺は分かっているから。ずっと罪悪感を俺に対して感じていてくれたんだね。だからあの手紙をくれたんだ」

「ねえ、本当になんのこと? 手紙って?」


「ある意味でずるいなとは思ったよ。一人で楽になって、審判を下す役目を俺に押し付けたわけだからねえ。でも俺はちゃんとその役目を果たした。あの汚い女を罰した」


 スミレは後ずさりして男から離れようとした。彼女の銀のイヤリングが、街灯の光を僅かに反射したのが見えた。男が彼女に対してすっと距離を詰めた。


 僕は塀の影から飛び出した。


 男がコートのポケットを探るのが見えた。僕は必死に駆けて、その右腕に向かって体ごとぶつかっていった。


 僕は男に馬乗りになった。


「お前だな」

男の右腕を抑え込む。男はもがき、犬のように何かをわめいた。


 ポケットから刃物のようなものがこぼれた。

 男の手にはたくさんの黒い指輪がはめられていた。


「お前が朔を殺した。全部終わらせてしまった!」

 声は辺りに響き渡った。


「スミレさん!」

 僕は呼びかけたが、彼女はただ立ち尽くし、僕と男のことを見つめていた。逃げるでもなく、助けを呼ぶでもなかった。スミレは何もせずにただそこに立っていた。


 男が体全体を大きくねじり、上体を起こそうとした。男は紅潮した顔を僕の胸や肩にぶつけてくる。


 腕が振りほどかれた。男はまた何かを叫んだ。僕は拳を思い切り振りおろした。


 鈍い音が辺りに響いた。

 男の顔は苦痛にゆがみ、空気が漏れたようなか細い悲鳴をあげた。


 僕は二度三度と男の顔を殴り続ける。


「はじめくんもうやめて、はじめくん」

 スミレが何度か呼びかけて、僕の拳は止まった。


「あなたは何をしたんだ、スミレさん。こうなることを望んでいたんですか。あなたは姉を憎んでいたんですか?」


 僕は倒れたままの男の胸ぐらを、体重を乗せて強く抑え続けた。


 スミレは何も答えを発しない。うつむき、白い息が漏れて、それから天を仰いだ。


 やがて住民の誰かが呼んだのだろうパトカーが到着して、僕と男は警官たちに取り押さえられた。


 二人の警官に両脇を抱えられて、僕は連れて行かれる。人が集まってきて、遠巻きに、パトランプの赤い光に照らされる僕らのことを面白そうに眺めていた。


「わたしは」

 僕の背中にスミレの声が届いた。彼女は絞り出すように言葉を放った。


「ただあの子に、『おめでとう』って言いたかった。『お幸せに』って、最後にはそう言ってあげたかったんだ」


 僕は振り向き、アスファルトにしゃがみ込むスミレの姿を見つめて、それから歩き出した。




 姉の事件を担当していたあの刑事さんがとりなしてくれて、見張りがついてはいたが僕は市内のホテルにその夜は泊まることができた。


 次の日の朝からは、警察署で細かく話を聞かれた。猪苗代から両親が駆け付けた。取材の人間も何人か外に来ているのが窓から見えた。


 淡々と事は進んだ。

 判子を押された紙きれのように事務的に移動させられる自分のことが奇妙に思えた。


 制服の警察官に伴われて廊下を進む僕の前に、同じように警官に付き添われたスミレが姿を現した。


「昨日の夜はこれを取りに帰った」

 彼女の手には、僕がずっと探していたものがあった。オレンジ色の日記帳。


「朔の日記帳だ。あなたが持っていた?」


「朔に託された。わたしは中をみていない。その資格がないと思っていた。それにきっとわたしの悪口がたくさん書いてある。見たくなかった。これは多分大事な証拠となるから、警察に渡さなきゃならない。でも特別にお願いして聞き届けられた。まず最初にはじめくんが読むべきだ」


 寝ていないのだろう。青白い顔色のスミレは、そっと日記を僕に差し出した。


 僕は日記の表紙を眺めた。何か植物のつたのような模様に彩られた、朔がいかにも好きそうなシンプルで平和なデザイン。


「処分しようかと思っていたんだ。この期に及んでまだ自分の生活を守ろうとしていた。ダンナとの生活、家族との生活」


 家族。スミレのお腹が少し膨らんでいることに、僕はようやく気が付いた。


「赤ちゃんが」

「こんな母親で申し訳ないよ。生まれてきたくないって思っているかもね。でも育てたい」


 赤ちゃん。新しい命。

 僕は失われてしまった朔の命のことを思った。


「雪が好きになってほしい」

 スミレが薄く微笑んだ。


「『おめでとう』ってあの子に言ってあげたかった。さようなら、はじめくん。またいつか」


 取調室とは違う部屋で、僕は机にオレンジ色の日記帳を置いて、椅子に座った。


 朔に直接手を下した犯人は、あの黒い指輪の男だ。


 供述を始めているそうだ。事件の夜、朔のアパートに招き入れられお茶を飲んだ。朔の飲み物に薬を入れて眠らせた。そして火をつけた。


 しかし黒い指輪の男は言っていた。


 手紙。


 誰かが手紙を奴に送った。パソコンで書かれたその手紙には、姉が結婚相談所でやってきたことが事細かに書かれていた。


 その手紙のせいで男は朔に殺意を持った。


 いったい誰がその手紙を書いたのだろう?


 スミレは手紙の主が自分ではないと言ったが、それがほんとうか僕には分からない。


「一人だけ連絡しておきたいやつがいるんですけど、ダメですか?」

 自分の携帯を受け取り、僕は画面を操作した。


「はじめか?」

「よ、文太」


「どうした? 今どこにいる。まだ郡山か?」

「朔の日記帳がやっと見つかったよ。これから読む。でもいざとなったら少し怖い」


「俺はいま時子といるんだ」

「そっか」


「何か伝えることはあるか」

「いや、いいよ」


「大丈夫だはじめ。何が書いてあったとしても、何も変わらないから」

「ありがとう」


 電話を切って、改めて僕は日記帳と向かい合った。追いかけ続けた朔の背中をもう一度思い返してから、日記の表紙に触れた。


 こら、見るな。


 姉の声が聞こえた気がした。



〈第一部 完〉

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