第12話 時子の涙

 郡山の駅前に戻ったころにはもう日が暮れかけていた。今度は帰りの電車の時間をしばらく待たなければならない。


 夕日と夜の境目の紫のなかを歩きながら電話を取り出して、ぽつりぽつりと画面を触った。


 文太はすぐ電話に出た。

「よう」

「まだ郡山にいる。これから帰るよ。下宿の食事時間には間に合う」


「下山さんって人はどうなった?」

「殴っちゃった相手に会って少し話せた。訴えると言っていたけど、許してあげてくれとお願いした。どうなるかはまだ分かんない」


 歩きながら話した。たくさんの人とすれ違った。


 ハンバーガーショップの様子は外からも良く見えたが、相変わらず高校生でにぎわっている。知っている顔はいないようだった。


「できることをしたつもりだけど、これでどうなるんだろ。すっきりしないよ」

「いいじゃないか。他にどうしようがあった」


「自分を納得させるべきなんだろうか?」

「そりゃどこかのタイミングではね。お前だって、犯人を直接この手で捕まえようなんて思っているわけではないんだろ」


 答えに詰まった。


「はじめ?」

「ああ聞こえてる。そうだな。そんなことは無理だ」


 電話を切って電車の券売機の前で財布を手にしたときに「待ってたよ」と時子が僕に声をかけた。彼女は一人だった。


「時子、友達は一緒じゃないの?」


「帰るの? もうちょっといられない?」


「下宿にもどって晩御飯食べるつもりだからさ」


 昼間のやりとりを思い出しながら平静を装うのはなかなか難しかった。


「ねえ、こっちでご飯食べて行こうよ。べつに怒られたりはしないんでしょ」


「みんな好き勝手にやってるけどね。今日はやめとくよ。心配しなくても大丈夫。文太には何もいわないよ。俺も気にしないようにする」


「どうしてそんな見捨てるようなことをいうの?」


「そんなつもりはない。でもほかにどうしろっていうのさ?」


「言っていいのね?」

 彼女の双眸から星くずのような涙がこぼれた。


「なんで泣くのさ」

「あなたに嫌われたくない」


 その日、僕と時子は若松に帰らなかった。



「梅雨のころにね」

 僕らのほかには誰も乗っていない日曜の朝の電車のなかで、となりに座る時子は僕の肩にそっともたれた。


「女の子の友達とカラオケに行ったときに、文ちゃんたちのグループにナンパされたの。それが始まり。明るくて、軽くて、とても楽しい人だと思った」


 窓の外を足早に過ぎていく木々は赤い葉を落とし始めていた。もうそんな季節だった。準備をすべき時期に来ていた。


「二人で逢おうって誘われて、告白された。その時まではいい遊び友達ができたくらいの感覚でいて、恋愛感情ってなかった。でも悪い人ではなかったからOKしてみた。それが夏休みのこと」


 時子の体温が僕の肩に伝わり、柔らかい髪の毛が頬に触れた。


「こんなものなんだろうと思ってた。誰かを好きになるのは初めてじゃない。もっと自分ではどうにもできない、心の中から湧き出てくる炎で身が焦がれてしまうような感情をわたしは知っている。文ちゃんとの日々はそれとは違っていた。でも彼はとてもわたしのことを好きでいてくれたから、これでいいんだと思うことにした。でも良くなかった。心のバランスを保ちきれなかった」


 彼女の横顔は、何を見つめているのかわからない。

 かつて時子が恋したという相手のことを、僕は少しだけ考えた。


「あなたと文ちゃんとわたしでこの電車に乗ったよね」

「あのときは面倒かけちゃったね」


「正直に言うね。はじめてあなたのことを見たときから、この人カッコいいなって思ってた」

 僕は文太のことを考えていた。何かを失う必然などあいつは負っていない。


「早川さんもなにかしゃべってよ。わたしばっかりバカみたい」

「何を話せっていうのさ」


「黙っていると、いろんな気持ちに押しつぶされそうになってしまう。気を紛らわせてほしいの」

「俺が一番最後に出た大会でさ」


 時子が僕にもたれたまま見上げた。

 いっさい化粧っ気のない彼女の青白い顔。


「スキーの?」

「うん。俺、ゴールできなかったんだ。関門を通過し損なった」


「転んだの?」

「いや、転びはしなかった。通り過ぎて下まで行っちゃった。致命的なロス。でもさ、板も外れてないし、戻ろうと思えば戻れた。でも俺はそうしなかった」


「戻ったところで、もう勝つのは無理だったんでしょ」


「勝負としては無駄でも、ちゃんと見苦しく戻ってあの関門をもういちど通過すべきだった。どんなにひどいタイムでもゴールすべきだった。それをしていれば、俺は次のレースに向かえたはずだった。レーサーにとって一番大切なものを、あのとき自分で断ち切ってしまったんだ」


 いろんなことを考え続けて、はっきりと否定をしてしまったのが、今から思えばあの時だった。


「わたしは、わたしたちはコースアウトしちゃったのかな」

「でもまだ生きてる」


 踏切の音が遠くからやってきた。視界の端を赤いランプの点滅が横切った。閉ざされた遮断棒。開くのを待っているものは誰もいなかった。音がゆがみながら遠ざかって行った。


「困った。わたしやっぱりあなたが好きだ」


 僕は彼女の柔らかい髪をそっと撫でた。


「ほんとよ」



 下宿に戻った。玄関にも食堂にも人気はなく、誰にも会わずに自分の部屋まで戻ることができた。


 入口の前で僕は立ちどまった。しばらくしてようやくドアを開けるとベッドに寝そべっている文太の姿が目に入った。いつものように仰向けになって雑誌を読んでいた。


「お帰り。誰もいなかったろ。見つかりそうだと思ったら連絡するつもりだった」

「うん。問題なし」


「なんだかいま、ドア開けるのためらってたよね」

「お前に怒られるかと思ってさ」


「何かいいことあった?」

「そればっかりだな、お前は」


「悪いことがあったか聞くよりはいいだろ?」


 時子といた。


 息が滞った。言葉は出て来ない。


 文太の屈託のない表情が僕を覗きこんだ。


「なんだかんだで疲れているみたいだな。今日は一日のんびりしてろよ」

「ああ、そうだな。疲れたよ」


 自分のベッドに腰掛けて、どんな言葉が正しいのか僕はずっと考え続けた。文太がちらちらと僕のそんな様子を伺っていた。


 いたたまれず部屋を出ていきたい気持ちがあったが、とりあえず先に一つだけすべきことがあったのでそちらを済ますことにした。


 携帯を取り出した。猪苗代の実家の番号にかける。昨日の警察署でのことを両親に説明しておかなければならない。


「あれ?」


 液晶画面に実家からの着信が三件入っていた。昨日の遅い時間だ。


 変だと思いながら電話を掛けると、出たのは母だった。


「はじめ、何度も電話したのに」

「ごめん、何かあったの?」


「昨日、あなたと電話で話した後、テレビ局の記者が家に来たの」

「どうして」


「いろいろと変なことを聞かれた。そっちにも記者が行くかもしれない」


 母の言ったとおりだった。その日の午後、僕の住む下宿に彼らは現れた。


 記者たちは急いでいた。

 月曜のワイドショーに間に合うように。

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