第11話 朔の恋人

 警察署へは駅からバスに乗って二十分かかった。


 郡山市内には警察署が二か所にあって、今日向かったのは姉の事件のあと訪れたのとは違う方だった。


 だから窓口で話が通じるか不安だったが、顔を見知っている刑事さんがいたので助かった。


「下山さんはまだここにいるんですね?」

「色々と途中だからね。悪いがいまはまだ会わせてやれない。はじめくんは彼と連絡を取り合っていたのか」


「はい」


 角ばった瓦屋根を思い起こさせるような風貌のその刑事とは事件以来何度も会っている。


 年は五十後半だろう。腹の底では全く別のことを考えていそうだったが、愛嬌のある笑みで、こっちが緊張しないようにしてくれていた。


「訴えられるかも知れなくてなあ」

「何やっちゃったのか、教えてもらえますか?」


「まあいいだろう」

 隅っこの応接用のソファーに向かい合って座った。刑事さんが自分でお茶を入れてくれた。他の警官や婦警の何人かがちらちら僕のことを伺っていた。


「朔さんな。事件当時付き合っている人がいたんだ。そのことは?」

「いえ」


 僕は壁にかけられた時計を見つめていた。


「知りませんでした。下山さんからも聞いてなかったです」

「下山は知ってたよ。奴はその相手の男性が、朔さんの事件について関わっていたのではないか、少なくとも何かを知っているのではないかと考えたんだな。まあうちらも、目を付けてはいたんだが」


 刑事さんはお茶をすすりながら、ゆっくりと話した。


「相手の男性は朔さんを失ってから、だいぶナーバスになっていた。俺たちは時間をかけて話を聞きだすつもりだったが、下山はずいぶんとことを急いた。家にいっても会ってもらえないもんで、最後には相手の会社に押しかけちゃってな。口論の末に殴った」


「怪我させちゃったんですか、その……」

「綿貫秋平というのが朔さんの交際相手の名前だ」


 聞いたことのない名前だった。その名を知ったことで、僕の全く知らない姉の生活があったのだということを今更ながらに実感した。


「どうやって、出会ったんだろう」


 僕がつぶやくと刑事さんのまなざしに緊張が生まれた。


「さあ」

 刑事さんは、心の揺れをごまかすようにお茶を一口飲んで笑った。


「どんな出会いだったんだろうなあ」


 そして言葉が途切れた。でも話すべきことは互いにちゃんとあった。


「結婚相談所のことは下山さんから聞きました。普通のやりかたじゃなかったことも」


 刑事さんはじっと僕のことを見た。苦渋の色が彼の表情に浮かんでいた。


「そうか。驚いたろうな」


「はい、とても。でもそれと一緒に納得がいったこともあります。刑事さんたちはこのことをできれば伏せようとしてくれていたんですね。それで捜査の進みが遅く見えた。僕はなんて煮え切らない人たちなんだろうとずっと思っていました。ごめんなさい」


「いや、能無し揃いなのは本当だ。そんなことは気にしなくていい」


 僕は下山さんから聞いたことを刑事さんに細かく話した。


「綿貫と朔さんが結婚相談所を通じて知り合ったのは確かだ」


「その綿貫という人は、姉のしていたことをどこまで知っているんですか」


「わたしたちから彼には何も話していない。綿貫からもそのことを匂わすような言葉はない。もし知っていたとなると、話が違ってくる。そこは慎重にやらせてもらっている。それ以外にも数人のお見合い相手をあたっているが決め手がない」


 僕は頷いた。


「ところで下山はずいぶん詳しく知っていたんだな」

「ああ。もしかしてあの人自体もそういうのを利用したことがあるのかもしれないですね」


「いや、そうじゃなくてな。うん」

「疑ってますか? 下山さんのことも」


「ん? ああ、一応全部の可能性は頭に入れとくって程度だがね」


 下山さんは、朔のために暴力を振るってしまった。あんなにやさしそうな人が。

それだけの理由が保育園の同僚だった二人の間にはあったのだ。


「綿貫さんに僕が会うのもまずいですか?」

「会ってどうする?」


「彼に下山さんを許してあげて欲しい」

「それが正しいことなのだろうか。わたしにはまだ分からない」


「それと姉について、その人から直接話を聞きたい。知りたくないことから僕は耳をふさぐべきではないんです。少なくとも」

「うむ」


 刑事さんは座り直して、うつむいた。


「実はな、これから署に来るんだ、綿貫」


「会わせてください。待ちます」


 綿貫さんという人は三時に警察署を訪ねることになっていた。僕は刑事さんに出前のラーメンをごちそうになった。


「警察署で出前を取るのって、あこがれがありました」

「ああみんなそう言う。近ごろの刑事ものでそんな場面を見たことないんだがな。下山にはラーメンとかつ丼を食わせてやった。あいつはよく食うな」


 綿貫さんが姿を見せたのは三時をだいぶ過ぎてからだった。


「遅くなってすみません。仕事がキリのいいとこまで終わらなくて」

「いえ、お忙しいところありがとうございます。どうぞ掛けて下さい」


 刑事さんに促されて、綿貫さんはさっきまで僕が座っていたソファーに腰を下ろした。刑事さんの少し離れた後ろに立つ僕と綿貫さんは目があった。


 暗い眼差しだった。さっきまで会社にいたというのでそのせいなのかもしれないけれど、彼は神経質そうに僕のなりを品定めした。


「この子は?」

「ああ、これから説明しますよ。休日でも出勤が多いのですか?」


「この時期は忙しいほうなんで。動いてると気が紛れるし」


 会社というとスーツにネクタイというおきまりの姿しか僕には想像がつかないが、綿貫さんはよれたシャツに濃い色のジーンズという砕けた格好だった。痩せていて、色白の頬には薄く髭が覆っている。髭は不揃いで、勝手に伸びている途中という感じだった。


 左目の下が少し腫れていた。


 そのぴりぴりした雰囲気は、今の状況を考えれば仕方がないのだろう。しかしそれを差し引いても、このじめじめした男性が朔の付き合っていた相手だということが、僕には意外だった。


「これ、診断書です」

「お預かりします」


 刑事さんは綿貫さんから渡された紙をひと眺めしてから手元に置いた。


「軽くて良かったですな」

「でも怖かったですよ。ねえ、この前は話が途中になってしまいましたが、やはり訴えは出させていただくつもりです」


「訴えますか」

「このくらいで、とおっしゃりたいのでしょうがね、こっちの事情も分からず一方的な理屈をまくし立てられて最後には殴りかかられたんですよ。相手してて怖かったですよ。それも自分の会社で大勢の同僚の前でだ」


 朔の恋人は、落ち着かない手つきでシャツの胸ポケットからたばこを取り出し、銀色の飾り気のないライターで火をつけた。


「で、彼は誰なんです」

 綿貫さんはもう一度僕を見た。まだいたのかとでも言いたげに。


 心が擦り切れてしまっている。そんな印象を彼に持った。追い詰められているときならばどんな態度をとってもいいというものではない。自分も文太からはこんなふうにきっと見えていたのだと思う。悔しい。


「僕は早川朔の弟です」

 綿貫さんのより強張った表情と、刑事さんの背中を交互に眺めた。


「下山さんのことは、僕のせいでもあります。僕が姉のことを知りたがったから、下山さんは手伝ってくれようとしたんです。本当にごめんなさい」


 刑事さんは、僕の言葉が終わるのを待って口を開いた。

「綿貫さん。彼ははじめくんといいます。あなたと比べることは間違っているのでしょうが、彼も今、どうしていいか分からないでいるのです」


 綿貫さんは僕から目をそらして何もない中空を見つめた。こみあげてくるなにかから逃れたがっているように見えた。


「はじめくん。君の名前は聞いていた。あのときは、もっと違った形でいつか会うのだと信じていたのだけど」


 彼の目には遠い昔となってしまった光景が映っているようだった。


「彼女、君に僕のことは話していたのかな?」

「いえ」


 綿貫さんの望む答えではなかったのかもしれないけれど、僕は首を横に振った。


「僕も両親も、姉に付き合っている人がいたことは知りませんでした」

 綿貫さんの様子を確認しながら言葉をつないでいく。


「姉はもともと家族にも、自分の立ち入った話をあまりする人ではなかったんです。綿貫さん。あなたから見て姉ってどういう人間だったのですか? 僕はここ何年かはあまり会う機会がなかった。それが心残りの一つです。最後に多くの時間を過ごしたあなたから、姉のことを聞かせて戴けませんか? もしこんなことが起こらなかったら、あなたは姉と結婚するつもりだったんですか?」


 刑事さんが振り返った。咎めているようだった。


 綿貫さんからの答えはなかった。彼はうつむき、両手で目のあたりを覆った。


「どうして、どうしてこんな」

 大きな手のあいだから嗚咽が聞こえた。


「彼女と出会って、これでやっと安らげると思ったのに。心配かけずに済むと思ったのに。一度ほっとしてしまったものだから、今は余計につらくて」


「ごめんなさい。つらいことを思い出させてしまって」


 しばらく三人とも無言の時が流れた。綿貫さんが落ち着きを取り戻すのを、静かに待ち続けた。


「つらいのは君も同じだろう。悪いね。自分だけ被害者ぶるなんて良くないことだとわかってはいるんだけど」

 赤くはらした目で、綿貫さんは僕を見た。


「僕はね、身内にこんなことを言ってはいけないのかもしれないけど、これ以上この事件に関わりたくないんだ。真相を全て知りたいとは思わない。今は彼女を思い出したくない。遠ざかりたい。そしていつか自然に彼女のことを懐かしく思い返せる日が来るまでそっとしておいてほしい」


 僕はじっと彼を見つめる。


「君はそうじゃないのかい、はじめくん」

「僕は違います。すべてを知らなければならない」


「朔さんがそれを望んでいないとしても?」


「すべてを知ることだけが、僕に残された方法なんだと思っています」


「それはとてもつらい選択なのかもしれないよ」

「ええ、たぶん」


 聞きたいことはもっとあった。でも僕から伝えたいことは伝えたので、そろそろ帰るべきかと考えた。


 切り出そうとしたときに綿貫さんが口を開いた。


「僕を殴ったあの男、下山でしたっけ? あいつと朔さんは本当のところどういう関係だったんだろう? 許す許さないの前にそこが気にかかる。朔さんを信用したい。でももう直接尋ねることができないから、悩みだすと止まらなくなる。ところで刑事さん。その、僕と朔さんが出会うことになった、あの相談所にはあのあと話を聞いたんですか?」


「担当者となかなか連絡がとれなくてね。滞っているよ、申し訳ない」


「そうですか」

「何か気にかかることでも?」


「いえ、そういうわけではありません」


 僕は綿貫さんの様子をじっと眺めて、それから刑事さんに帰ることを告げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る