第9話 彼女の秘密
夜の十時ころ。僕はグレーのジャージ姿で下宿から自転車で十分のところにあるファミレスにいた。
時子からの最後のメールは『たぶん行かないよ』というものだったが、ここに来ても来なくともどっちでも構わなかった。気のすむまでただ待つだけだった。
本を読みつつ、ドリンクバーから四杯目のアイスコーヒーを持ってきたとき、入口のドアの鈴が鳴って時子が現れた。濃い緑のパーカーにジーンズという格好だった。彼女は何も言わずに僕の向かいに座った。
「話、聞いてもらえる?」
時子は静かにうなずいた。
「あなたがそれを望むなら」
明日は休日なので店にお客は比較的多くいた。時子はドリンクバーを注文して、自分で冷たいプーアール茶を持ってきた。
「この時間に出歩くことって、わたしあんまりないんだけど、結構高校生っぽい子たちがいるのね」
「知っている顔、いそう?」
「いてもいいわよ別に。あなたほどじゃないかもしれないけど、わたしも世間の評判はそんなに気にしない」
「俺、今朝無視したね」
「したね」
「謝んないけど、いい?」
「結構傷ついたんですけどね。うん、いいよ、謝んないで。それで話というのは?」
「姉のことなんだけど」
「お姉さんのこと?」
「この前、郡山に行った日、姉の職場の同僚だった人と会うことが出来た。話しを聞いて、分かったこともあったし、かえって分からなくなったこともあった。それから、朔について、ちょっと想像もしていなかったようなことを聞いた。そんで混乱している」
「何か知らないけれど、身内だからって理解できないことはあると思うよ。」
「そうなんだけどね。結婚相談所ってあるじゃん。婚活とかいうのをする男女が利用する。朔はそれに登録していた」
時子が目を細めて僕を見た。何かを見定めるように。
「それは予想外の情報。お姉さんてまだ二十歳後半だったのよね。あれってタイムリミットにせかされた人が頼るものだと思ってたけど。で、何、弟くんとしてはそういうのちょっとショックだったりした?」
「うーん」
僕は腕を組んで、眉をしかめて、うつむいた。
「悪い、ちょっと飲み物取ってくる」
逃げるように席を外した。氷の入ったグラスにコーラを注ぎながら、考えをまとめようとしたがうまくいかない。僕は時子の待つ席に戻った。
「来てもらったんだからちゃんと話したいんだけど、そもそも俺って説明が苦手なのかも」
「わたしもせっかく来たんだから、ちゃんと聞いて帰りたい。とにかく話してみれば。分かんないところはこっちで聞いて補完していくから」
「うん」
「それはそうと、早川さん、甘い飲み物も飲むのね」
この前、郡山でカラオケをしたとき、ソフトドリンクはブラックコーヒーしか飲んでいなかった。そのことを覚えていたのだろう。
「え? うん、飲みたきゃ飲むけど。ちょっと頭が回ってない気がしたから糖分補給してみた」
「格好つけてるのかと思ってた」
「普段は若干そういう傾向あるかも。しょうがないだろ、そういうお年頃なんだよ」
「いまは格好つけないでいいのかね?」
僕は答えずにコーラをストローで啜った。それから、話し始めた。
「姉は結婚を急いでたというより、副収入が欲しかったんだ。ああいうところの具体的な仕組みって知ってる?」
「知らない」
「そりゃそうか。俺だって、この件に関わるまでちっとも知らなかった。調べて妙に詳しくなっちゃった。あれさ、基本的に女性が有利なんだよね」
時子はストローでくるりと氷をかきまわした。からんと音がした。
「まず男女が会うまでの流れについて。主導権は女性と決まっている。山ほどある男性の写真つきプロフィールを眺めて、この人とこの人ってな感じで選ぶ。するとその旨が男性のほうに伝えられて、女性の写真つきプロフィールも渡される。男性がOKすれば最初のお見合いになって、相談所に呼び出される。職員が簡単なあいさつをして去って行く。そして二人で話す」
「いきなり二人きりなんだ。会話が弾むものなのかな、それができる人ならお見合いなんて必要なさそうじゃん」
「俺もそう思うけど、そういうものらしい。次にお金の話。最初の登録料みたいなものは男女ともに払う。これはさほどの額じゃない。で、男女が会う場合、女性は無料。男性はその都度八千円」
「露骨なのね。でもそういえば、ラジオでたまにお見合いパーティーの募集やってるけど、女性は参加料が少なかったかも」
「つまり男性から金を取ることで成り立っている商売らしい。あの手のものって」
「うん、仕組みは分かった。良し悪しはともかく」
「弟が言うのもなんだけど、姉は見た目が結構良かったから、この女性とお見合いさせてあげますよと煽ればどんどん釣れた。商品価値はあったんだと思う」
「商品っていやな響きね」
時子の顔が少し曇った。
「俺も自分の姉をそんなふうに言いたくはない。でも彼女がやってたのはそういうことだった。男性に向けて会う意思を伝える。会う。男は八千円を払う。お見合いをする。そのあとで朔は相談所を通じてお断りの連絡をする。『あってみたらイメージと違った』と。それを何度も何度も、月に四十回以上繰り返していた」
「四十回」
「一回会うごとに姉は二千円受け取ってたらしい。引くよね」
「ばれないものなの?」
「あいだには常に相談所が入っているからね。ふられたのにしつこい男はいるらしいけど、『男らしくない』っていうキーワードをうまく使ってくるらしい」
時子は椅子にもたれた。天井を見上げて、何か考えているようだった。それから立ち上がった。
「飲み物取ってくる」
「うん」
彼女が席を外すと、店のざわめきが急に耳に響くように感じられた。それまではそっちに意識を配る余裕がなかったのだ。
話していていやだったが、自分が飲み込んでいた鉛の塊の一部を時子に移し替えることができたようで、少しだけ心が軽くなっていた。彼女にとってみればとんだ災難だけれども。
「ごめんね」
アイスコーヒーをもって帰って来た時子が座ると、僕は謝った。
「迷惑だったよね。こんな話聞かされて。わかってはいたんだけど、自分でもどうしようもなかった。ずっと苦しかったんだ。ここは払うよ。迷惑料」
「何言ってんの。そりゃちょっとは戸惑ったけど、そんなことしないで」
「姉は別に聖人君子じゃなかった。でもこういう類のことをする人間ではないと勝手に思っていたんだ。知らなきゃよかったと正直思っている。事件のことだって、これだと話が全然違ってくる」
「つまり結婚相談所の件と結びつくと、早川さんは考えているの?」
「まだ分からないけどね。確かなのは、姉は人に恨みを買う理由があったということ」
「お姉さんの顔って、携帯に写真が入ってたりしないの? 良ければ見せて欲しい」
僕はポケットから携帯を取り出して、少しいじってから時子に向けてかざした。
おととしの初もうでの時、雪が穏やかに舞う中、父と朔とで撮った写真で、彼女は白い毛糸の帽子をかぶって、肩をすぼめていた。
最後に僕が彼女にあったときは、この写真よりももう少し髪は伸びていた。
「へえ。かわいい人ね。スキーのチャンピオンって感じはしない」
「実は寒がりだったんだ。おかしなことに」
「ほんとに? 板をはくと豹変したの?」
「そんなこともなかった。子供のころ一緒にリフトで上がるときも、うどんのはなしとか温泉のはなしとかばっかりしてた。そんで滑ると優勝しちゃうんだからとんでもないよね」
「天才ってそういうもんなのかな」
「天才、だったのかなあ、あれって」
なんだったんだろう、彼女は。
「またほじくりかえしますけれども、早川さんは中学の時に県で上位入賞しているんですよね」
「うん、まあね」
「十分たいしたものだけど、朔さんと比べると素養はとても開きがあったということなのだと思います。それについて複雑な気持ちというのは、やっぱり多少はあったの?」
「犯行の動機を聞かれてんのかな」
僕は冗談で言ったのだけど、それはあまりに黒くて、時子の固まった表情を見て後悔した。
彼女は何か話すつもりだったようだが、僕のせいでその気がそがれてしまったようだった。
「どうするんですか早川さん、これから」
「姉の同僚って人とは、メールでやりとりを続けている。でもやればやるほど、姉について知りたくなかったことが増えていくだけなのかもね。そんで肝心の事件については何一つ分からないなんてことになったら目も当てられない。けど、もう少しやってみるよ。俺がそうしたいんだし、朔もそれをきっと望んでいる」
「朔さんは望んでいる。どこかであなたに助けを求めているのかしら。早川さんは霊とか信じるほうなの?」
「全然、まったく」
「そうなの? 魂の存在を信じているからこそ、あなたは彼女を救済したいがために頑張っているんじゃないの?」
「もし本当に。死んでしまっても、何らかの形で生きている人間に影響を与えることができるのであれば、言葉を贈るなり、何かを見せるなり。朔は必ずやりかえすはずだ。俺に『頼むよ』って言ってくるはずだ。彼女は黙って引き下がったりしない。でも何にも言ってこないんだから、そういうのってないんだと思う」
「ふうん」
「でもね。俺の前に出てきてくれればいいのにとも思う。話がしたいんだ」
「そうよね。たった一人の姉弟だったんだもの」
「まあね。それにね、俺の抱え込んでる悩みの答えのようなものを、姉ならば持っていたんじゃないかとずっと勝手に思っていた。聞くべきことがあった。それをため込むだけため込んで、先送りにしているうちにこんなことになってしまった。でも俺あきらめてないよ。全部が腑に落ちたとき、姉のために何かをしてあげられたと納得ができたとき、次の一歩が踏み出せそうな気がするんだ」
二人でファミレスを出たのは十一時を過ぎてからのことだった。
「送るけど」
「大丈夫よ、それほど遠くないし」
地方の夜は人気が少ない。クマが出ることはあっても不審者が出没したなんて話はそんなに聞かない。
でもまったくいないわけじゃないのだ。僕はそれを知っている。
「暗闇とか、時子は怖くないの?」
「怖くない」
「さっきの質問の返しになるけど、幽霊とか気にしないんだ?」
「いるよ幽霊って」
時子の言葉は冷たい確信に満ちていた。
「でも怖くないの」
下宿に戻った僕は裏口から中に入った。一応は門限があってそれをとうに過ぎている。
文太はまだ起きていて、ベッドで教科書とノートを広げていた。
「人が宿題に苦しんでいる間に、どこで遊んでたのさ」
数学の問題に煮詰まっていた彼は、そのストレスの矛先をこちらに向けてきた。
「俺だってたまにはそういうことがあるよ」
「うん。それでいいと思うぜ」
文太の言葉はまるで何もかも知っているようだった。
「そう?」
「色々抱えているのは俺でも分かるけど。パンクしちゃうよ。少しゆるめないとさ」
「うん」
素直に頷くことができた。本気で気にかけてくれているらしい。なのに僕はこいつの彼女と、今の今まで二人きりで会っていた。
寝る前に、時子にメールを送ってみようかと考えたがまとまらなくてやめた。手が滑って文脈がめちゃくちゃなメールを送信しそうになってあせった。告白でもするつもりだったのかと誤解されかねないような文章だった。
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