第8話 必要な嘘

 数日後の学校帰りのとき、時子にまた会った。その日は雲がほどよくあったけれど過ごしやすい日だった。


「時子って部活やってないの?」

「春先に写真部入ったんだけど、辞めちゃった」


「つまんなかった?」

「芸術観の相違」


「じゃあ、しょうがない」

「早川さんこそ、今は完全に帰宅部?」


「人数不足のとこからたまに誘われるけどね、どこにも入っていない」


「スキーやんないの? 上手なんでしょう」


「上手くない。スキー部から入学したころにすごく誘われたけど、受け流していたらそのうち何にも言ってこなくなった」


「そりゃあ向こうからしたら誘うわよ。わたしだってちょっともったいないなって思うし。勉強に専念したいの?」


「いや、違うかな。何年かしたらまたみっちり滑る時期が来るかもしれないけど、今はそういう気分じゃない」


「なんだかよくわからない。スキー競技って貴重な高校時代を双六の一回休みみたいに消費しちゃっていいものなの?」


「良くないに決まってる。みんなに言われるよ。なんでそんなことして平気なのか分からないって」


「あなたにはその理由が分かっているの?」

 僕は時子から目をそらして点滅する青信号を見つめた。


「わかんない」


「あなたたちは謎姉弟だったのよ」

「俺と朔のこと? なんだよそれ」


「うちの学校の猪苗代出身の子に聞いてみた。ごめんね、気になっちゃったから。そしたらそういう話が出てきたの。だって別に怪我して競技をあきらめなければならなかったわけじゃないんでしょ。傍から見ている分にはこれからの伸びしろも十分あるように見えて、前途洋洋で、なのにすっぱり競技から身を引いちゃった。二人とも」


「勝手じゃん、俺らの」


「ちゃんとした理由があるならね。でもあなたは問われても分からないという」


「理由がわからなくとも」

 僕の語気はちょっと強くなっていた。白い山に黒い煙が立ち上る。


「俺と朔の、勝手だ」


 時子は黙った。


「ごめん、しつこかったね。わたし」


 それから何かを話そうとしたけれど、言葉は続かなかった。冗談でも言って明るくこの場を終わらせたかったが、よどみを残したまま別れた。


 彼女の言うとおりなのだ。僕も、朔がスキーを辞めてしまった理由を知らない。


 翌日は、帰る途中で書店に寄った。その日はまた雨で、降りが急に強くなってきたので避難した。


 入口の傘立てに並ぶ数本の濡れた傘を確認してから店の中へと入った。


 静かなバイオリンが流れる広い店内を、雑誌の表紙を眺めて、たまに手に取りながら歩いた。雨の音が高い天井を僅かに沁み通って響いた。


 ページをめくっても内容はあまり頭に入っては来なかった。ずっと考えことをしていた。野球の試合を観ながらサッカーに思いを馳せるみたいに。

考え事をするために、歩いて、本を開くという行為を必要としているだけだった。


 同じ場所を何度も行き来して、また立ち止まり雑誌を開く。店員からするといつまで居座るつもりなのかと思ったことだろう。同じような帰る途中の学生はぱらぱらといたから、そこまで目立ちはしなかったはずだけれど。


「背中が妙に寂しそうかも」

 ぼそっとつぶやいた声に振り向くと、時子がいた。


 彼女の制服の袖は雨で少し濡れていた。黄色い腕時計にも水滴がついているのが見えた。


「よ、雨まだ強い?」

「降ってるよう、やんなっちゃう」


 時子は横に来て雑誌の棚を目でたどった。彼女を横目ですこし眺めて、それから持っていた雑誌に向き直った。そしてしまったと思った。読んでいたのがアイドル雑誌とかのほうがまだ笑って済ますことができた。


 僕は手にしていたスキーの専門誌を棚に置いた。


「別にいいと思うけど?」

 見透かしたように時子がつぶやいた。並ぶ雑誌を無表情に見つめたままで。


「時子はここ良く来るの?」

「ほとんど来ない。本って読まないの」


「雨宿りか」

「違うよ。あなたの自転車が置いてあるのが見えたから、あいさつしておこうかなと思って」


「そっか。……昨日は悪かった」

「何が?」


「もうちょっと柔らかい言い方で済ますべきだった」

「ああ、いいのよ。わたしも良くなかった。わたしとしたことが。でもさ、早川さん」


「ん?」

「謝ってばっかりだね」


「そうかな」

「でも本当はわたしに謝っているんじゃない気がする」


「じゃあ一体」

 時子は向き直り、僕をまっすぐ見つめた。

「わたしが聞きたい。あなたは誰に謝っているの?」


 答えることができなかった。

 遠い山の面影が胸に浮かんだ。


「よし、やめやめ」

 彼女は微笑んで、何かに納得したかのように頷いた。


「そのうちどうにかしてあなたとの距離感をつかむから」

「なんだよそれ」

 僕は吹き出してしまった。


「あのさ、時子。アドレス聞いていい?」

「あ、いいよ」

 お互いのスマホを取り出した。


「赤外線でね」

「OK」


 スマホをかざすとすぐに反応する。時子がにやにやしている。

「どうしたの?」

「いつも思うんだけどさ、これってスマホとスマホがキスしているみたいだよね」


「そう言われるとなんだか照れる」

 僕は本当に照れていたので、彼女と目を合わせずにスマホをぽちぽちと操作した。


「よし、ありがとう」

「どういたしまして」

 彼女は笑った。

 僕が言葉をつなごうとしたとき、後ろから声がした。


「あれー、時子じゃん」


 明るい呼びかけに振り向くと、文太がいた。とっさに時子の顔を伺うと、彼女はまだ僕のことを見つめていた。まるで咎めるような視線だった。


 一拍うつむいて、時子は振り返った。


「文ちゃん、久しぶり」


「時間あるなら、なにか食べていかない?」

「うん、大丈夫だよ」


 文太は僕に「よっ」と手をあげ、笑みを見せ、形だけの挨拶をした。僕も手をあげて答えた。彼はそのあと僕の姿など見えないかのように時子との会話を続けた。


 時子も、ここに僕がいることをもう忘れてしまったようで、文太の耳障りのいい言葉に暖かい笑顔を見せていた。


 二人が去ってしまってからも、縛り付けられたかのように、僕はしばらく大きな本棚の前に留まった。店を出たときには雨はひときわ強くなっていた。


 下宿の夕食が終わり、僕は食堂のテレビで野球中継を眺めていた。ほかに数人残っていて、雑談したり、マンガを読んだりしていた。テレビの音を消していたし、さほど集中して見ていなかったので、戦況は良くわからなかったけどどうやら好試合が展開されているようだった。延長十一回に入っても文太は下宿に戻ってきてはいなかった。


 結局引き分けに終わった試合を見届けたころに、一人が気づいた。


「文太、いねーな」

 残っていた僕以外の者たちが顔を見合わせた。雨はようやく止んだようだ。


「あいつ彼女できたって言ってたな」

「二か月くらい前に言ってた」


「二か月か。まだ最後までやってないっていってたよな」

「うむ」


 その場にいたものたちが改めて壁にかけられた時計を確認する。


「とりあえず酒を準備して出迎えたほうがいいのかな?」

「祝勝会だな」

「ビールかけだ」


 そそくさと僕らは宴の準備をはじめた。同室の僕は自動的に参加者にカウントされてしまった。文太のことがなくともどうせ酒を飲みだす時間だった。ビールかけとはいったが、あれをおおっぴらに下宿の冷蔵庫で冷やすことはできないので、手元にはない。冷蔵庫の中には代わりにコーラとか、ウーロン茶の大きなペットボトルがたくさん詰め込まれていた。


 部屋の奥から焼酎を取り出して、割って飲む。自分たちの行いを正当化しようとは思わないけど、これが現実だ。


 主賓の到着を待たずにコーラ割りに口をつけながら、僕の胸中を影が覆った。文太から、時子に関するどんな話も聞きたくはなかった。


 食堂の扉が急に開いた。


 大家のおじさんは、僕らの生態をよく理解しているので、何も言わずに入ってきたりはしない。


 そこにいたのはもちろん文太だった。彼は中で待ち受けていた僕らの表情で、すぐに状況を理解した。そして両手を羽のように大きく広げた妙なポーズと抑え気味の雄たけびをあげた。


 確か、文太が好きなプロレスラーの決めポーズ。


「やったか」

 一人がたずねた。


「成し遂げた」

 文太は誇らしげに答えた。


「飲め」

「戴こう」


 テンションの高い乾杯の後、質疑応答が始まった。僕一人だけが何も問わずに、違和感を醸し出していたが、酔った彼らがどれだけ察したかは分からない。


「ちょっと最近やばい状況だったんでへこんでたんだけどね。大逆転だ」

 浮かれる文太。手酌でコーラをどぼどぼ注いだ後、彼はペットボトルを僕の方に向けてきた。ほかの面子は横で他の話題で盛り上がっていた。そもそもなんでもいいから盛り上がりたいだけなのだ。


「ありがとな、はじめ。時子に色々とりなしてくれたんだって?」

「え?」


 戸惑いながらも自分のコップを差出した。溜まっていくコーラを眺めながら僕は言葉の意味に気付いた。時子なりのフォロー。必要な嘘。


「この前のことは俺が悪かった。考え方が根本的に間違っていた。改める。だから許してくれ」

「気にしなくていい」


 こうも正面から謝られてしまってはそう答えるほかない。


「俺、あの日やきもち焼いていたんだ、はじめに」

「やきもち?」


「時子はお前のことを、好みじゃないと言っていた」

「言ってたね」


「時子は結構誰にでも愛想のいいほうなんだ。悪くは言わない。なのに好みじゃないなんてはっきり言うのを初めて聞いた。それは特別な位置づけってことだ。だからお前に嫉妬した」

「ああ」


 文太を小さい男と笑う気にはなれなかった。


「はじめ、ごめん」

「その気持ち、分かる。殴って悪かった」


 心を切り裂かれながら、僕はかろうじて答えた。


 同居人たちは文太に根掘り葉掘り今夜のことを聞いてきたが、彼は具体的なことは最後まで話さなかった。


 酒のせいもあり、その夜はごちゃごちゃな夢を見た。


 雪山の上から姉が見つめていたかと思うと、それはいつのまにか時子の姿へと変わり、僕は何の疑問も持たずに手を伸ばして彼女を捕まえようとした。


 するとまた相手は朔へと姿を変えて、彼女はスキーで滑りだした。僕も滑って追いかけた。


 この場面は覚えている。昔本当にあった記憶だ。


 しなやかに滑る朔をおぼつかない足取りで僕は追いかける。そうだ。八才くらいの頃、僕はこの程度の滑りしかできなかった。


 夢の中で、がんばってもがんばっても距離は開いていくばかりで、最後に僕は転んだ。姉は待ってはくれなかった。


 やっと一番下まで僕がたどり着いたとき、どこにも朔の姿はなかった。


 彼女のスキー板だけが雪に刺さっていた。


 もう朔は先にロッジの中へ行ってしまったのだろう。


 仕方なく自分の板を脱ぎながら、もう一度彼女の板を見て、そして僕は自分の目を疑った。


 スキーのエッジが錆びていた。


「どうしたんだよ」


 問いかけた僕の声は冷静さを欠いていた。そんなことがあるはずがなかった。


 いつの間にか僕と朔は猪苗代の実家にいた。大人になった姉は僕の声など気に留めもせずに、どてらを来て自分の部屋へと戻っていく。彼女は決して几帳面な性格ではない。でも、板の手入れだけはさぼったことなど一度もなかった。


 彼女はスキーから離れるといった。理由は分からなくとも、そのうち競技に復帰するのだろうと僕は思っていた。でもそのスキーのエッジに付いた血が乾いたかのような錆を見たとき、僕は朔がもうレーサーではないことを悟ったのだった。


「どうして!」


 夢の中で僕は叫んだ。声は彼女に届かない。下山さんのメールが心の中に浮かんで消えた。


「どうしてあんなことをしたんだよ、朔」


 次の日から僕は帰り道を少し変えた。時子に会わないように。


 下宿では、文太が以前よりも僕に声をかけることが多くなった。向こうは多少居心地が良くなったようだった。向こうは。


 朝の通学中に時子に会ったことはそれまで一度もなかったのだが、ある日ばったり出くわしてしまった。


 時子が低血圧だとは本人から聞いたことがあった。だからなのだろうか。朝の静かな光のなかでの彼女の表情は、僕の記憶とはどこか違って見えた。知らない女性に初めて会ったかのようだった。


 互いの自転車がすれ違う時、僕は目を合わせなかった。


「おはよう、久しぶり」

 時子の声、僕はなにも答えなかった。


 二時限目が終わった休み時間にメールが入った。時子からだった。文面は一言だけ。


『おはよう、久しぶり』


 返事をしたのは夕方だった。


『時子に聞いてほしい話がある』


 彼女からの返信は間もなく来て、それから何通かのメールが互いに行きかった。

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