第7話 傘
猪苗代の人間に、いつまでも消えてくれない炎の夢を見るものはきっと多い。
白い山。
それは現実に僕が見たことのある光景ではない。人から何度も聞いていて、なのでまるで自分が体験したことのある物事のように、こうして思い出しているのだ。
でも授業中にそんな夢を見るほど本気寝したのはまずかった。
教師に数学の教科書の角で頭をこづかれた僕は「ふえ?」と、わりと気持ちの悪い声を上げた。クラス中から笑いが起こった。
授業が終わると僕はすぐに駐輪場へと向かい家路についた。
九月半ばでもまだ暑さが残っていた。でももう夏ではなかった。雲の形も、会津若松の町を囲む山の木々も、少しずつ移ろいを見せ始めていた。
学校から下宿までは自転車をこいで五分で着く。住宅地の細い道を抜けて、大通りにでると景色は急に開ける。
下宿の近辺は会津若松の中でも店が集中していて、ジーンズショップや本屋、うどん屋にカレー屋にカラオケと、一周するだけでそれなりに遊べてしまう。もちろんそれは地方の中規模都市の割にはというレベルなのだけれど、猪苗代から高校入学でこっちに出てきた際、地元と比べてそのちょうど良い賑やかさに感動したものだ。
放課後の時間帯は高校生姿が多くみられるこの場所で、本屋に寄り道しようかと自転車の向きを変えると、その先に制服姿で自転車をこぐ見覚えのある女の子がいた。
時子だった。
彼女の姿を見て戸惑った僕はこぐ力を一瞬緩めたが、すぐに、止まってどうするんだと思い直して加速した。
すれ違う時に時子は目を合わせず軽い会釈をしたので僕もそれに習った。すれ違って三秒たったところで僕は自転車を止めた。
僕のブレーキの音に気付いたのか時子も自転車を降りた。振り返ると向こうも僕を見ていた。
「何か言いたくて来たんじゃないの?」
「え」
彼女は前にあったときと同じチェック柄のリュックを背負っていた。僕の問いに戸惑っているようだった。グレーのスカートを指でいじっていた。
「いや、この間のことかなと思って」
時子は首を振った。
「別にそんなんじゃない。誤解しないで。わたしの家がこのへんなだけよ。ただの学校帰り。あなたの下宿も近所だったわね? だったらたぶん今までだってわたしたち何度もすれ違ってる」
「そっか。思い違いか」
僕はその場を去ろうとペダルを踏む足に力を込めかけたけど、やはりもう一度振り返った。
「あいつ、何か言ってた?」
「文ちゃん? 一緒に暮らしているんでしょ、話していないの?」
「俺から切り出すつもりはないよ」
「あの日は一日具合悪そうだったけど、別にあなたに対する恨み言はいってなかったかな。それから会ってない」
「そうなんだ。殴ったのは悪かった」
「まあね。でも殴られても仕方のないことだとは思う。わたしもね、ショックだった。文ちゃんの知らない一面を知っちゃった感じ」
「大丈夫? 俺のせいで別れたりしたらさすがに責任を感じるんだけど」
「まだ別れるとは限んないよ。少なくとも文ちゃんはそこまで深刻な事態だとは捉えていないと思う。わたしだって、ちょっと時間を置いて冷静に考えてみるつもりでいるだけだし。まあ早川さんは気にしないで」
早川さん。
今日の彼女からはこの前会った時のような親密さを感じることが出来ない。僕からももう話すことがない。
「じゃあ元気でね、時子さん」
僕の言葉に時子はぷっと吹き出した。
「時子さんって呼び方は何だか変。わたしは年功序列を守って言ってみただけなんだから、あなたまで合わせないでいいよ」
その言葉の意味が分かるまで少しかかった。
「ああ、なんだ。時子は一年生だったのか」
「老けて見えた?」
「態度がでかかった」
時子はまた吹き出した。
「平日はそういう格好してるのね」
「ああ、これ?」
僕はワイシャツの上から青くて派手な、薄手のパーカーを着ていた。
「だいぶ印象が変わって見える」
「変?」
「いいと思う」
僕たちはささやかに手を振って別れた。
自転車を軽快にこぎながら僕は思った。少なくとも文太のほうでは、なにもかも俺のせいだと思っているんじゃないかな。別にいいけど。
下宿に戻ると文太の姿はなかった。彼は忙しい。
姉の四十九日に、一度猪苗代に戻った。彼女の骨が入った真っ白な壺がこぶりな墓に納められるのを僕と父母の三人だけで見届けた。
「じんちゃ、ばんちゃ、朔と仲よくね」
母が涙声で墓石に語りかけた。
墓のある寺から家までは歩いていける距離だった。両親は先に帰り、僕は墓の前でしゃがんで、石に新しく刻まれた姉の名前を眺めていた。
あたりには誰もいない。だいぶ少なくなった蝉の声だけが響いていた。
「なにもできないまま、時間が過ぎて行っちゃうのかな」
答えなど帰っては来ない。自分がどんな言葉を望んでいるのかもわからない。
人の気配がしたので振り返ると、髪の短い細身の女性がこちらに近づいてくるのが見えた。
黒いスーツを着ていた。喪服ではなく、職場で着るようなタイプの服に見えた。キャリアウーマンというタイプの人間なのかも知れなかった。朔とはずいぶんと違う。
彼女は僕に気づいて小さく会釈した。左足を引きずっていて歩みは遅かった。
手には小さな花束を持っている。会釈を返した僕が様子を伺っているのを気にもしないふうでうつむきながら歩く。
「朔の弟だね」
「姉の知り合いの方ですか?」
そのきつめの顔立ちを、僕は見た覚えがない。
「まあね。知り合いだ。井上スミレ。あなたのお姉さんがこんな結末になっちゃって、戸惑っているよ」
その割には平静な声に違和感を感じた。
「弱ったね、君になんて声を掛ければいいのかわからない。朔もそんなの望んじゃいないんだろうけど。誰もいないと良いなと思って来てみたのに、タイミングを間違っちゃったよ」
「誰もかれもが、なかなか僕らを放っておいてくれないんです」
「案外みんなやさしいだろ? 慮ってくれる。でもそれはね、下に見られているだけなんだから気を付けたほうがいいよ。どういうことか分かる? ようするにあんたがまじまじと見つめてくれたわたしの足だ。まともに歩くこともできない人間が、世間様の標準以上に幸せになるなんてことがあってはならないんだよ。下賤な存在としてはじっこで控えていればこそ、生きていることを許される。これからいろんな人があなたたちに『がんばってね』と言ってくれるはずだ。けれど鵜呑みにしてほんとにがんばっちゃダメなんだからね」
「気が滅入ることいってくれますね」
「人生の先輩からの忠告だ。ありがたく聞いておきな」
スミレは花束を供えると、立ち去ってしまった。何も声を掛ける気にはなれなかった。
多分、彼女が一番正直なのだ。
下宿と時子の家がご近所というのはどうやら本当のようだった。
それから二日後の学校帰りに、また彼女を見つけた。
小雨が降っていて、僕が自転車に乗りながら黒い傘を時子に向けて振ると、時子は白地に赤い水玉模様の傘をぶんぶんと振り返して、雨のしずくを撒き散らかせた。
「よっ」
「よっ」
「にぎやかな傘さしてんね」
「可愛いっしょ」
「遠くからでもすぐ見つけられる」
「あら、いやだ。それは困る。今度から別の傘にしなくちゃ」
「ひで」
「文ちゃん、困ってるよ」
「何のこと」
「あなたのことに決まってるじゃないの。いい加減沈黙が苦痛になってきたって。あなただってそうでしょう」
「ああ」
考えてみた。時子の望む言葉を口にしてもよかったが、もう少し考えてみた。
「早川さんは、さほどでもないみたいね」
「うん、正直なところ」
「ちょっと理解できない。本当は一人で生活したいのだろうけど、実際あなたたちは同じ部屋で暮らしている。この状態はまだまだ続く。だったらお互いに過ごしやすくなるような、ある程度の努力は必要なんじゃないの?」
「この前のことは関係なしに、お互い自然でいるのが一番じゃないかというのが俺の結論」
「文ちゃんにはそれがストレスなんだってば」
「じゃあ、文ちゃんが努力すればいいい」
「もう」
時子は忌々しげに水玉模様の傘を振った。しずくが少し僕にかかった。
「ただでさえこんな天気なのに、どうしてわたしがあなたたちのことで気を揉まなきゃならないのよ」
「俺は頼んでない」
「あらカッコいい。個人主義ってやつを気取っているのかもしれないけど、本当のところは周りに甘えているだけなんじゃないの?」
「時子って結構まじめなんだね。もっと、今さえ楽しければって感じなのかと思った」
「バカにしてる」
「いや、本気で考えてくれているんだなと思って。俺も誰かを傷つけたいわけじゃないんだ」
「じゃあさ、あなたも少し考えてみてよ。あなたなりのやり方でも事態を好転させることはできるはずよ」
「分かった、考える。悪かったよ」
時子はうなずいた。
「文太と連絡は取ってんだ」
「そりゃメールが来たら読むわよ。会いたいって言われれば、会うかもしんないし」
もう少し立ち話をしてから別れた。
下宿に帰り着いたのは僕の方が先だった。文太が部屋にはいって来たときに、久しぶりに、「お帰り」と声を掛けてみた。
「うん、ただいま」
小さな声で返事が帰って来た。それ以上は互いに言葉が続かなかった。
翌日も雨だった。
朝からずっと強く降り続いていて、風まであって、僕は顔をしかめながら早急に下宿に帰りつくべく揺れながら自転車をこいでいた。
くるくるまわる、白地に赤い水玉模様の傘を見つけた。
「寒いね」
「このまま秋だね」
そしてすれちがった。天気が悪かったので仕方がないが、あまりしゃべれなかった。時子はなんだか表情が沈んでいた。
週末、一人で郡山にまた出かけた。下宿に帰って来たのは遅い時間だった。すべきことがあった。それは変化したり、増えたりしつつあった。
文太は部屋にいなかった。でも下宿のなかにはいた。
着替えとタオルをもって風呂へ向かう途中の部屋から、にぎやかな声がいくつか聞こえてきた。
ふすまが開いていたので横切るときに中の様子が見えた。中にいて背中を向けていた文太が同じタイミングでこっちを振り返った。僕は目を逸らしてその場を去ろうとしたが、向こうが声をかけてきた。
「遅かったじゃん、はじめ。マージャンお前もやる?」
和室で卓を囲みいつもの面子でマージャンに興じていた文太の顔は少し赤かった。四人ともそうだった。
「いや、いい」
「忙しそうだね」
「お前ほどじゃない」
文太の向かいに座っていた三年生が「この状況で言われると皮肉にしか聞こえない」と、牌をじゃらじゃらかき混ぜながら笑った。
マージャンで遊ぶ気分ではなかった。それに僕は「いつもの面子」じゃない。
風呂に入る気分ですらなくなっていたが、引き返すのもおかしいのでそのまま向かった。
文太は下宿内で友人が多い。
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