第6話 同僚

 相手が普通に家を訪ねるみたいなトーンで挨拶してきたので僕は会釈したが、立ち入り禁止のはずのこの場所を他人が興味本位でのぞきに来たのであれば、そのような人間は普通とは呼べない。


「えっと、どちらさまですか」

「君こそ誰、高校生?」


 男は薄緑のポロシャツにこげ茶の半ズボン、腰に赤いポーチという格好だった。


 年がいまひとつはっきりしないが、どの世代だとしてもあまりいけている服装ではなかった。


 太っていて色が白い。シンプルなメガネの奥の目は細く、もちもちした材質に見える額がわずかに汗でてかっていた。


「立ち入り禁止ですよ、ここ」

「君だって入っているじゃないか」


 男の声は縁日で売っている綿菓子みたいなふくらみを感じさせる。オブラートに包まずに言えば、デブ声だ。


「僕はこの部屋に住んでいた者の家族です。許可はもらっています」

「そうなの?」


 疑いの視線が僕に向けられた。


「ちょっと片づけが残っていたんで来ているんです。出てってもらえますか?」

「いやまあ、窓が開いていたからおかしいなと思って覗いただけなんだけどさ。君は朔さんの弟? 名前聞いたことがあったな。なんだっけ、ああ、はじめくんだ」


「姉の知り合いですか」


 男の顔がゆるい笑顔に変わった。

「うん、職場の同僚だった。さいころ保育園」


 それは確かに姉が短大を卒業してから勤めていた保育園の名前だった。

 姉の葬儀の時に彼を見たかどうかは思い出せない。


「下山と言います。いやあ、しかしこれは酷いな。火事の現場なんてそう見たことないけれど、こんなふうになっちゃうんだ。いい部屋だったのにね」


 下山と名乗った男は眉をしかめながら、黒い煤に覆われた部屋の中を見回した。


「部屋に来たことあるんですね?」

「彼氏とかではないし、犯人でもないよ。同僚はどこまでいっても同僚」


 犯人という単語が当たり前のように出てきたので僕は戸惑った。


「他殺だったんでしょ? お姉さん」


 ちなみにこの男性が朔の彼氏だとはまったく思っていなかった。


 僕と下山さんは、朔のアパート跡を出た。路駐していた下山さんの軽自動車で、彼に誘われるままに近所のハンバーガー屋に入った。


 レジに並んで僕はチーズバーガーとコーヒーを買った。下山さんはおごってくれようとしたが断った。四人掛けのテーブル席の奥側に僕は座った。下山さんはダブルチーズバーガーセットと、さらに単品で照り焼きバーガーを注文した。


「下山さんはなにか知っているんですか?」

「ん?」 


 テーブル席で僕は尋ねたが、下山さんはちょっと待ってという手振りで示して、ハンバーガーを食べることに集中している。仕方がないのでこちらもチーズバーガーをかじった。時刻は一時を過ぎていた。僕も腹は減っている。


 しかしよく考えると、これは危険な状況なのではないだろうか。姉の同僚という言葉を信じてついてきてしまったけれど、迂闊だったかもしれない。店の隅っこに黒い小型の防犯カメラがあったので、そちらを数秒意味ありげに凝視しておいた。これでなにかあっても、誰かがきっと気づいてくれる、かもしれない。


「何も知らない。でも分かる」


 唐突に下山さんの食事が終わった。僕のほうが量は少ないのにまだ食べ終わっていなかった。僕はコーヒーでハンバーガーの残りをせわしなく流し込んだ。


「火元が部屋のど真ん中だったんだよね?」


 下山さんは自分のペースで勝手に話を進める。人が好さそうな外見なのに意外と押しが強い性格なのだろうか。それとも僕が単に甘く見られているのだろうか。


「ああ、ニュースでもその話は言ってましたもんね。そう、真ん中です。しかもストーブとかでもなく、電化製品でもなく、居間に置いてあったただのぬいぐるみからの出火。UFOキャッチャーで取ったやつ。それが変だということでちょっと騒がれて、そのうち忘れられちゃった」


「解決してないのにね、何にも」


「千二百円使ったって言ってました。あのぬいぐるみを手に入れるのに」


 アニメ映画に出てくる、青くて毛むくじゃらで大きな図体のモンスター。UFOキャッチャのちゃちなマジックハンドではどこをどうしてもつかみようのないことに気づくのだけで六百円かかったと姉は語ったことがあった。マジックハンドをぶつける戦法に切り替えて、もう六百円消費したのちにようやくぬいぐるみは陥落したそうだ。


 なんでも器用にこなした朔にでも苦手なことはあったらしい。


 下山さんは話を続けた。

「不審火には違いないけど、場所が場所だから放火は考えづらい。なので朔ちゃんをよく知らない人間が想像すると自殺の線が濃厚になってくる」


「あなたは姉をよく知っているから、彼女が自殺などしないと思っている。そういいたいんですか?」


「君は違う意見?」

「姉が自分で命を絶つなんてことは確かにぴんときません。でも他人が心の中で何を考えて生きているのか、たとえ家族でも全部わかるはずがないでしょ。僕と姉はずっと離れて暮らしていたということを抜きにしてもです。一日中笑って過ごして、懸命に働いて、未来のための準備をして、そして一日の終わりに人生を自分の手で閉じてしまうということがあり得るものなのではないかと、最近思います」


「まだ高校生なのに、そんなことを悟らなくちゃならないなんてね。気の毒に思うよ」

「どうも」


 残りのコーヒーを飲み干しながら、自分は話しすぎているのだろうかと考えた。誰かに吐き出したいものが自分の中に積もってはいたけれども、会ったばかりの、外見だけはとびきり人のよさそうな人間にそれをさらしてしまうのはどうかと思った。


「でもね、はじめくん」


 下山さんはフライドポテトの箱の底をあさって、集めたかけらを指でなめた。やっていることはとぼけていたけど、口調はまじめだった。


「もし、万が一、君のお姉さんが自殺する決意をしたとする。それは確かに可能性がゼロとは言えない。でもそのとき、彼女はこんなふうに残された人たちに迷惑がかかるような手段でそれをするだろうか。現にいま君のご両親は火事の責任を取らなければならないかもしれない状況にある。アパートのほかの住人に怪我がなかったのは幸いだったけど、それは本当にたまたまだし、彼らは住むところを失ってしまった。そして君はこんなに傷ついている。思い出してみなよ。君のお姉さんは自分がこんなに不幸なのだから、そのうえこれでなにもかも終わってしまうのだから、だったら後に残るほかのやつらなんてどうなってもいいと考えるような人間だったかい?」


 彼の問いかけに、僕は朔のきれいな横顔を思い出した。

 久しぶりに思い出すことが出来た。


「ばかみたいに他人の心配をする女性でしたね。そういえば」

「うん、いいやつだったよね」


 下山さんは笑った。ただでさえ細い彼の目がさらに細くなって、そこからほんの少しだけ涙が絞り出された。


 僕は下山さんの顔から眼を背けながら、テーブルに置いてあったアンケート用の紙とペンを手に取った。そして朔の住んでいたアパートの間取りを簡単に書き込んだ。


「真ん中って僕は言いましたけど、正確にはこのへんです」

「どれ。ふうん、入口の側なんだね」


「反対側の窓際に小さい棚があって、人形とか小物が密集してました。燃えたのは大きいぬいぐるみだったので、ぽつんと単品で置かれることもありえますけど、ちょっと浮いています」


「問題の青いぬいぐるみだけどさ。朔ちゃんが手に入れたのっていつごろなんだろ」

「千二百円のくだりを姉から聞いたのは、今年の梅雨のころでした」


「職場の飲み会の帰りに朔ちゃんのアパートに寄ったことがあった。五月だ。何、僕だけじゃなくほかにも数名いたけどね。朝方までぱーっと騒いだ。震災の後、一年たっても日常はなかなか戻らないし、テレビではいやなニュースばかり流れるしで、みんなむしゃくしゃしてたからね」


「保育園の人たちにとっては切実ですよね」

「うん。今も変わってない」


「で、そのときはありました? ぬいぐるみ」

「なかったんだよね」


「なかった」


「酔ってたから記憶があやふやではあるんだけどね。置いてあった人形とかで、即興の人形劇やって遊んだからさ。まず確実。なかった」


 僕は椅子にもたれてうつむいた。少し黙っていると、下山さんは大きな体を後ろにそらして、レジの上の大きなメニュー表を眺めた。


「まさかまだ食べたいんじゃ」

「不可能ではない」


「やめておくべきです。それで、いまのぬいぐるみの話って警察には?」

「一応、そのとき参加してた面子で警察には言ったよ」


「そうですか。ぬいぐるみは徹底的に燃えていて指紋の採取はできなかったんです」

「灯油とかガソリンがかけられていたなんてことは」


「そこはちゃんと調べられました。なんにもなし。あれって燃やそうと思えばものすごく燃やしやすい材質なんだって。燃料は必要なかったようですよ。火はライターでつけたみたいです。部屋に落ちてた。そっちも指紋なし。姉は二か月にひと箱くらいのへんてこなペースでたばこ吸ってましたから、ライターはあって当たり前」


「そこで話が終わっちゃってんのか」

「姉には付き合っている男性っていたんでしょうか?」


「どうだろう。いたんじゃないかなあ」

「コイバナしなかったんですか。下山さんってそういうことに積極的じゃないほう?」


「いや、僕の状況であんまりアグレッシブだったら気持ち悪いと思うよ」

「状況とは?」


「バツイチ、子持ち」


「ああ」


 驚くべき情報ではあったが、それ以上は深く聞かなかった。自分の傷を熱心に語りたがる人間というのも世の中にはいるみたいだけれど、彼はそういうふうに見えなかった。


「あ、そうだ」

 僕はもう一つ気になっていたことを思い出した。


「携帯のデータって全部抹消されていたんです。それは知ってました?」

「いや知らなかった。全部というと?」


「メール、アドレス帳、着信履歴、全部です。初期化されてましたから」

「バックアップはされていなかった?」


 僕は首を横に振った。


「それってすごく重要なことじゃないの?」


「ですね。事件の一週間前に知り合いにメールを送っていたので、消去したのはたぶんそれ以後です。そんなことをしてしまうほど姉は精神的に不安定だったのではないかと、自殺説の根拠としてとらえられています」


 やはり電子データ類を消してしまっていたというのは大きい。

 携帯もパソコンも便利だけど、データがボタン一つでいっぺんに、あっけなく消去できてしまうというのは怖い。


 人が長い間ため込んできたものが消えてしまうときには、炎に包まれてゆっくり灰になっていくのが正しい姿であるように思う。


 ただ、手書きの文字を人前にさらす機会がぐっと減ったのは、われら早川姉弟にとっては良きことだった。


 僕らは二人とも字が下手だった。両親は平均的な字を書くので僕らの代で新しく追加された特徴のようだ。僕が字を書くと、それを見て人はふざけているのかと怒った。姉が字を書くと、人は笑った。


 こら、見るな。


 そのとき朔の声を急に思い出した。


 あれはいつのことだったか。朔の奇天烈な文字もまた、僕の脳裏に思い起こされた。


 僕は彼女の手紙でも見てしまったのだろうか? いや違う。ちゃんと思い出せ。


 あれは朔の日記帳だ。オレンジ色の表紙。分厚い、丈夫そうな作り。鍵がかけれるようになっていた。


 何年分ものページ数があり、その存在自体は、僕は前から知っていた。

休みに二人とも実家へ帰っていたとき、どてら姿でこたつにあたりながら彼女は日記帳を広げていた。通りがかった僕はうっかりそれを横目で見てしまったのだ。


 中身はちっともわからなくて、単に(字、下手だなあ)と思っただけなのだが、朔には怒られた。


 すっかり忘れていた。思い出す機会がなかった理由はある。遺品のなかにそのオレンジ色の日記帳はどこにもなかったからだ。


「日記帳」


 ずっと黙っていた僕が急に声を上げたので、下山さんは驚いた。


「どうしたの。日記帳?」


「下山さんは見てないですか? 姉の部屋の本棚でひときわ存在感を放っていたはずなんですけど、オレンジ色の厚い日記帳」


「あった。五月の飲み会のときに、本棚に確かにあった。あれは日記帳だったのか」

「それ、部屋から見つかってません。本棚にあった本は焼けちゃいましたけど、跡形もなく燃え尽きたものはなかったはずなんです」


「日記帳も消去された? 自分で、あるいは誰かに」

「確認しなくちゃ。もしまだどこかに残っているのならば、きっとそこには全部書いてある」


 光が一筋見えて僕の声は少し上ずっていた。


 下山さんは、結局アップルパイを追加で食べて、アドレスを交換したのち、僕らは別れた。


 バスで郡山駅まで戻り、磐越西線で会津若松の駅に戻ったのは五時過ぎだった。涼しくなった駅前から下宿まで、一人自転車を走らせた。


 僕が下宿についてから二時間後に文太が戻ってきた。彼は何も言わなかった。目も合わせず、僕からも何も声をかけはしない。頭から暗幕をどさっと被せられたような気分だった。


 しかし元からまめに話してはいなかったので、たいして沈黙が苦痛になどならない。これから何日続いたとしても平気だ。何かの拍子に蒸し返そうと向こうがするならば、相手になるまでのことだ。


 寝る前に、ベッドに転がって今日のことを思い返していると、メールが来た。下山さんだった。


『話すべきかどうか迷って、今日は結局言えなかったことがある』


 彼の長いメールはそんな出だしから始まった。

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