第5話 朔の生きた場所

「ぐはっ」


 文太はうめき声をあげて地面に倒れこんだ。飲みかけの缶コーヒーが転がり、中身が汚くまき散らかされた。


「ちょっと!」

 時子の耳障りな金切声。


「ひどいよ。暴力をふるうことないじゃない!」


 僕は何も言わずに彼らに背を向けて歩きだした。傍から見れば、せっかくできた新しい友達をなくしたように見えたかもしれない。


 駅まで戻った。ロータリーにいくつか並ぶバスの停留所のひとつに向かった。ちょうどバスが停まっていて、出発の時間を待っていた。


 郡山の町に詳しくない僕が唯一知っている、朔の住んでいたアパートへと向かう路線。


 乗るかどうか僕はしばらく迷っていたが、背後から聞こえてきた、リーゼントの男が踊るけだるい音楽に背中を押されるようにして、そのバスに乗り込んだ。


 市役所と大きな公園の前で降りた。

 公園の中を僕は早足で歩いた。大きな池に赤い橋が架かっていて、そこから鯉に餌をやる子供たちがいた。柳の木が淡い風を浴びてたたずんでいた。カモが静かに水面を漂っていた。花があたりを囲み、日差しは明るくて、ここが素晴らしい場所であるということを僕に強いているようで不快だった。


 この近くには姉が通っていた短大もある。前に来たことがあった。


 朔が大学生のとき、彼女のアパートを訪ねた僕は学校を簡単に案内してもらったことがあったのだ。


 でもそのときの建物についての印象はあまりない。たいして大きくもなく、さほどの歴史があるわけではないので建物はそう古びてもいない。かといって現代的というわけでもない。

 

 むしろあの時強い印象を僕に残したのは、朔がただの大学生になっていたことだった。


 彼女はもともと、別段くせの強い性格の人間ではなかった。正直で、だまされやすい一面を持っていた。


 でもスキーのインターハイで全国制覇を成し遂げたころの彼女は、体中に蛍光塗料でも塗ってあるみたいに、ほのかな光をまとっているようだった。


 どんな振る舞いをしてもそこに特別な何かを感じさせた。ただおやつのアンパンをかじったり、ただ髪を手で払ったりした時でさえもだ。


 あんなふうに、珍しさの全くない建物を自慢げに指差して、凡庸な笑顔を見せる人間ではなかったのだ。


 公園を抜けてさらに十分歩くと。朔が住んでいたアパートの跡が見えてきた。もう処理は終わっていても、焦げたにおいがまだ残っているような気がした。


 それは僕の願望からかも知れなかった。何かしら痕跡が残っていて欲しかった。


 お前ごときが何か手がかりを見つけ出せるとでも思っているのかと問われれば、返す言葉もない。でもそれだけではなく、朔が生きていたことをこの町が忘れていってしまうことが哀しかった。


 もう一度僕はこの場所に来なければならなかったのだ。


 僕はポケットから鍵を取り出した。警察の現場検証が十分終わったあとで大家さんから借りていたものだ。


 大家さんは郡山の駅前に住んでいるおばあちゃんで、彼女の受けた損害は大きかった。これから捜査がどう結論づけられるかによっては、早川家に現実的な請求をするつもりだったが、それはそれとして朔との関係は良好だったこともあり、僕の申し出を理解してくれた。


 立ち入り禁止の黄色い帯をくぐって、朔が暮らしていた一〇二号室の、もとは緑色だった扉を開けた。


 両親が朔に話していたことがある。若い女性は防犯の意味で、二階以上の部屋にしたほうが良いと。


 しかし朔は一階のほうが家賃が二千円安いという理由でこの部屋を選んだ。朔は楽天的な人間だった。


 部屋に入る。朔が保育士として働きだしてから六年間、最後の夜まで過ごした部屋。


 水色のカーテンは取り外されていた。汚れた窓ガラスから見える向かいの小学校の草木は変わらず茂っている。机も、八割がマンガだった本棚も撤去されている。彼女が大事にため込んだものが今はもうない。朔の一〇二号室は死んでしまったのだ。


 ここで何が起こったのか。そして僕の知らない何かが燃えてしまったのか。


 朔の部屋は八畳一間の、若い人間が住む一般的な作りだった。トイレとバスは一体型。玄関を入るとすぐに縦長の配置でキッチンがある。居間へ続く流しと引き戸の間に冷蔵庫があった。


 室内の壁は無残に焼け爛れていたが、棚が置いてあった場所などは煤の付き具合でわずかに判別がつく。


 小さな額縁が飾ってあった跡に僕は気づいた。


 以前ここにあった木枠の額縁には、モネの『印象・日の出』のレプリカが飾られていた。


 朔が生きていたころ、僕が両親と共にこの部屋に来たとき、絵画にひとひらの知識も持たない母親が「これ本物?」と尋ねたことがあった。そんなわけがあるかと父が笑い、朔は、また盗まれたなんてニュースになってないでしょう、と笑った。


 暖かい記憶から逃れるように、東側に面したベランダに出た。道路向かいには小学校と公民館があるので日当たりはそんなに良くない。


 このアパートは一階と二階各々四部屋ずつの作りで、建物に沿って駐車場があった。いまはもちろん車は一台も停まってはいない。駐車場はベランダから一メートルばかり低い。アパートの入口に数段の階段があるのでこういう位置関係になっている。


 公民館の横には住宅が並んでいる。


 ここでは以前にもボヤ騒ぎが一度あったと朔から聞いたことがある。


 深夜に住宅の敷地に停めてある自家用車が突然燃え上がったことがあった。


 ジャージを着て寝ていた朔はただならぬ物音に目を覚まし、すぐにベランダに駆け出た。とぎれとぎれに鈍い破裂音を発しながら炎上する車とは十分な距離があったのでこちらのアパートに燃え移るような危険はなかったけれど、熱はわずかに感じたという。


 朔は現実みのない光景を前に(火事を見ちゃった。おねしょしてしまう)などとのんきに考えていたそうだが、すぐにそれどころではない当事者が、家から悲鳴を上げながら飛び出してきた。主婦のようだった。


「なんでよ!」


 寝間着姿の主婦はパニックになってしまい、どうすることもできない。辺りの家から男性が数人飛び出してきた。彼らは大声を掛け合い、水の場所を確認し、バケツをどこからか持ってきた。


 朔も身をひるがえして部屋を出た。バケツリレーの始まりだ。アパートからは朔のほかにも二人出てきた。総勢八人ほどのリレーの真ん中へんに朔は入って、今まで簡単に挨拶をするくらいの間柄だった人たちと声でリズムを取り合い、水を運んだ。


 誰かが呼んだ消防車は到着したころには、火はだいぶ弱まっていた。


 日本車が夜中に勝手に燃え出すなんてことはありえなくて、あとから調べたらやっぱり放火だった。犯人は分からずじまい。(朔の事件の際に、放火がまず疑われたのはこの一件によるところも大きい)


 車の持ち主からは、後日五千円の商品券をいただいたそうだ。


 バケツリレーの一体感は悪くなかったと、朔は人様の家の火事を文化祭の思い出みたいに語った。


 室内に戻った。窓は開けたままにしておいた。木の葉のざわめきとともに部屋の中にわずかな風が流れ込んできた。僕はもう一度『印象・日の出』がかけてあったあたりの壁を見た。


 今にして思えば、その絵はまわりの家具の色調と比べるとそこだけ沈んでいるようだった。朔はものを選ぶとき明るい色を好んだ。絵は自分で買い求めたものだったのだろうか。それとも誰かから贈られたものだったのだろうか。


 手を伸ばして触れたくなるようなほのかな朝日を僕は思い出していた。


 物音がして振り向くと、ドアが開いていた。ポロシャツ姿の知らない男性が部屋を覗き込んでいて、僕と目があった。


「こんにちは」

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