第3話 磐越西線に乗って

 日曜日の朝に、下宿で同部屋の文太から声を掛けられた。


「買い物に行かないか? 欲しいものがある」


 用事があると断っても良かった。実際は暇だった。


 文太はこんなふうにたまに誘ってくる。普段は一日二日部屋での会話がないこともよくあるのに。近所にうどんを食べにいったことくらいはあった。


「どこに行くの」

「郡山」


 電車に乗っての遠出。一日かかり。帰ってきたら休日は終わり。


 僕は少し考えて「いいよ」と答えた。姉が住んでいた町の名が文太の口から出た。その言葉に引き寄せられたようだった。


「じゃあさ。十時の電車に乗ろう」

「九時過ぎに言うなよ」


 こっちは起きたままの格好。文太は洗顔から戻ったところで、何気に準備の途中だった。

駅までは自転車で三十分かかる。電車は一時間に一本。急げということだ。


 薄手のクリーム色のトレーナーの上にシャツを羽織って外に出た。


 玄関では文太が自転車を手に、僕のことを待っていた。彼は白黒のストライプのシャツを着ていた。文太は細身で、背は僕の方が少し高い。


「そんな服持ってたんだ」

「うん」


「派手だな」

「そうかな?」


 この状況とは温度差があるように感じられた。


 二人で自転車をこいで駅に向かった。文太が少し前を走った。


 いい天気だった。話しが飲み込み切れてはいないが悪い気分ではない。案外会話が途切れなかった。


「そうだ、はじめ。あれってなんなの?」

「ん?」


「ご飯のよそい方。俺も食べるほうだけどさ」

「ああ」


 他人から奇妙に見えるのは理解できる。食べ盛りの男子たちが集う寮での食事どきは、ご飯がいくらあっても足りない。みんなしてどんぶり飯を何杯もお代わりするのだが、僕は一杯あたりの盛り方がほかの者と比べて極端に多かった。


 トータルとしての食べる量はそれほど抜きんでてはいないのにだ。『まんが日本昔ばなし』でお百姓さんが食事するときの盛り方といえば絵が浮かぶだろうか。


「子供のころ、ああいう食べ方をする人たちに囲まれて育ったから、癖みたくなってる」

「猪苗代ってそうなの?」


「町がというわけじゃない。『レーサー盛り』っていうんだよ、あれ」


 へとへとになるまで滑ってそれから腹いっぱい食べた、スキー仲間たちとの夜を思い出した。それほど昔のことではないのに、とても遠くなってしまったように感じた。


「なるほどねえ。そういうのって染みついちゃうものなんだな」


 文太は試験の結果などはずけずけと尋ねてくる。たいがい彼のほうが良い点だった。


 しかしスキーについては最初のころにさらっと説明した以降は何も聞いてこない。


 姉の事件については一度も話題になったことがない。同じ部屋に住んでいるというのに不自然なほどに。


 中学の時は卓球部だったそうだ。今はいくつかのゆるい文化部を掛け持ちしているような状態。積んである雑誌にはプロレス関係の者が目立つ。自分とは性質の違うこの男に、ある部分においては救われていた。


「で、何を買いにいくんだっけ?」

「服とか、かな。はじめ悪い。俺ちょっと寄り道するから先に行ってて」


「コンビニか? いいよ俺も行く」

「ちがうんだ。悪い」


 よく分からなかったが途中で別れて、僕は一人駅に向かった。


 駅で自転車を置いて、入口で待っていたが文太はなかなか現れない。まばらな観光客が駅の低い建物を写真におさめていた。僕の横では大きな赤ベコが申し訳なさそうにうつむいている。気にすんな、お前は何も悪くない。


「お待たせ」

 電車が出る四分前になって文太は駅に現れた。


 彼の後ろから女子が一人ついてきた。


 水色のシャツに白いスカート。白黒のチェック柄のリュックを背負っていた。髪は短く、僅かに茶色く染まり、毛先を軽やかに遊ばせていた。


 学校で見かけたことがあっただろうか。


「ほら、早く。電車が出ちゃうよ」

 文太が彼女に促した。


「うわ、ひどい。遅れたのは文ちゃんなのに」


 三人で改札を通った。ホームを歩きながら僕は文太に尋ねた。

「うちの学校の子?」

「違う」


 なぜ本人に聞かないのかというような表情で、文太は彼女が通う中高一貫の学校の名前を口にした。


「俺の彼女」

「連れてくるなんて聞いてないぞ」


「お前も連れてくれば良かったな」

「そういうことじゃなくてさ」


 言葉に詰まり無言で見つめる僕に、女の子は対応に困ってしまったようだった。

「えーと」と考え込んでから、ダンスの挨拶みたいにスカートの両端をつまんで広げてちょっとだけ頭を下げた。


「文ちゃんの彼女です。以後お見知りおきを」

 彼女はにっこり笑った。


 二両編成の電車は空いていた。


 会津若松駅は平成二十四年現在自動改札になっていない。その必要性に乏しいからだ。


 この町は車社会で、電車はあくまでもサブウェポンだ。僕は実家に帰るためにまだ利用が多い方だったが、乗るのは久しぶりだった。


 向かい合った四人掛けの席に、こっちに僕が、向こうは文太と女の子が座った。


「はじめ、こいつ時子」


「時子です」

「はじめです」


 中一の英語の教科書みたいな挨拶。


 電車のドアが二人のぎこちなさにあきれたかのようにしゅうっと音を立てて閉じた。


 九月の日差しが走り続ける電車の窓を抜けて彼女にあたると、肩にときおり触れるほどの長さの髪が光に透かされた。


 時子はリュックの中からいちごポッキーを取り出してかじった。それを文太との会話の途中の変なタイミングで彼と僕に一本ずつ差し出した。白い腕には黄色い小さな腕時計がまかれていた。


 彼女は明るかった。文太との会話は『あのときのあれ』とか二人だけにしか通じない内容が多かったが、時子はそのたびにこちらを向いて簡単な説明を加えた。


 瞳が良く動き、良く笑った。仕草のひとつひとつにエネルギーがこもっていた。生きているのがとても楽しそうに見えた。


「ね、はじめちゃんて呼んでいい?」

「え? いやそれはどうだろ」


「あはは、冗談よ。でもそう呼ばれない?」

「呼ばれる。昔のマンガでそういうキャラがいるんだってさ」


「へえ、そのマンガは知らないけど、もはや潜在意識みたいなものに染み込んでいるのかもね。文ちゃんからたまにあなたのことは聞いていたの。一度会ってみたかったから良かったわ」


「おいお前何話したんだよ」

「別に。はじめの愛読書と、その隠し場所とか」


 時子は座席をたたいて楽しげに笑った。


「文太、お前最悪」


 僕は舌打ちして窓の外に顔を向けた。


「あ、ごめんなさい。怒らないで。ほらこれあげるから」


 ポッキーを差し出す時子。冗談めかしていたが、僕が本当に怒ったと思ったのだろうか、その眼には僅かに不安が浮かんでいた。僕は無言で一本受け取ってかじった。


「うまい」


 僕が少し笑うと、時子もほっとしたような笑みを浮かべた。


「二人で出かければよかったのに」

 本当は彼女もそのほうが良いのだろうと思った。時子は不思議そうに僕のことを見た。


「ええと、整理させてもらっていい? 文ちゃん、はじめくんになんて言って連れ出したの?」

「買い物」


「買い物なんだ?」

「え、違うの?」

 僕は尋ねた


「いえ、買い物でもいいんですけどね。ただ、はじめくんを連れて行くのが今日の前提だから」


 言っている意味が分からなかった。


「郡山でわたしの友達何人かと会うつもりなのよ。同級生で会津から向こうの学校に通っている子がいて、そのつながり」


「彼氏募集中の子がいてさ、誰か連れてきてと頼まれた」

 文太が平然と語った。


「だったらなんでそう言わなかったんだよ」

「言ったら来ないだろう? ちゃんと確認したことはなかったけど、どうなの? 付き合っている子がいるなら話は別なんだけど」


「いないけどさ。こういうのはちょっと」

「文ちゃんは嘘つきだなあ」


 揉める二人を眺めながら、時子がポッキーをかじった。


 会津若松から電車で三十分揺られると、磐梯山のふもとで幾層もの木々に囲まれて、僕と朔が暮らしていた猪苗代の小さな町がある。


 そこで降りようとする素振りをみせて文太と時子にとどめられた。郡山まではもう三十分掛かる。


 高校を卒業して朔が家を出た日、僕は彼女に『もう帰ってこないんだろうね』と尋ねた。


 いろんな感情がひっからまった挙句に口をついた言葉だった。


 語る言葉すらなくして、最後は消えていく未来が、あるいは初めから僕は分かっていたのかもしれないけれど。


 そして会うことが少なくなり、彼女は大人になっていった。


 いつかは帰る。いまは出ていく。


 あのときの彼女の答えにどんな思いが込められていたのか。

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