第2話 姉との思い出

 七月の終わりだった。その日は実家に戻っていた。


 目を覚ましてしまった僕は十回ほどの呼び出しの後母親が受話器を取るまでのあいだ、目を開けた先にあった薄緑色のカーテンをぼんやりと眺めていた。


 外の光は晴れやかだった。状況のバランスがとれなくて、何かが起こってしまったのだということに頭がついていけていなかった。


 母親の悲鳴が聞こえた。午前五時の電話が穏やかだったときを終わらせた。それは警察からだった。


 姉の住む郡山市内のアパートで火災がおきて、焼け跡から彼女の遺体が見つかった。


 朔の葬儀の日は雨だった。


 僕は高校の制服で両親の隣に立ち、参列の黒い人々に頭を下げた。


 たくさんの人が訪れた。実家がある猪苗代の町は有名なスキーどころだけれども、全国大会で優勝するほどの選手は朔のあとに現れていない。なので彼女はこの町では伝説のレーサーだった。


 全国ニュースで何回か報道されたので、事件の概要は誰もが知っていた。


 不審火。誰かが火をつけた。自殺かも知れない。他殺かもしれない。そこからさきは捜査中。


 ずっと捜査中のまま。


 姉とそれほど親しくなかった人たちは、彼女が高校卒業後、スキー競技から一切身を引いていたことをこの場で知り、意外がっていた。


「絶対オリンピック行くんだと思ってたのにね」

 駄目だったんだね。うまくいかないもんだね。


 他人はそれで済ませた。


 僕がいま死んでしまったら、優しい彼らは何というのだろう。そのとき思った。


 姉が日本一になってからの八年間の人生。それを空っぽだったかのように済ましてしまう人たちだ。


 何も成していない自分のことなどは『彼は本当に存在していたのだろうか? 早川はじめという人間は、歴史の偶然が生み出した想像上の産物に過ぎないのではないだろうか?』くらいは平気でのたまいそうだった。優しいから。


 しかし僕とて、もし知らない誰かから『じゃあ聞くけどもね』と、早川朔とはどういう人間だったのか説明を求められたとしても上手く答える自信がない。仲が良かったかどうかを聞かれても良くわからない。


 姉と交わした言葉のひとつひとつは、胸にあふれたかと思うと、油断すれば次の瞬間には全部がしゅんとどこかに隠れてしまいそうな気がした。なにをやっていたのかと自分に苛立ってしまう。


 小さいころは間違いなく仲が良かったのだと思う。冬は猪苗代のスキー場に入り浸って滑り続けた。仲間たちとともにのときもあったし、二人だけの時もあった。


 ナイターの光を浴びながら、振り子坂という難しいコースを平気で滑り降りていく姉を見るのが好きだった。


 毎年何人もの大人が転んで骨を折るような坂なのだ。でも姉は、給食を食べ終わってボールを小脇に抱え校庭に先頭切って飛び出していく子供のように、何の迷いもなくかっとんでいった。


 真似してかっこよく滑ろうとして、よく派手な転び方をしたものだ。


 猪苗代の子供たちは振り子坂に育てられて大きくなった。そして僕の場合付け加えるならば、振り子坂を滑る朔の背中が育ててくれた。


 朔が高校生になると、彼女の生活は完全にスキー一色となった。


 彼女の進学した猪苗代高校はスキーの名門で、練習が当然大変だったのだが、彼女のスキーへの打ち込み方は常軌を逸していた。


 どうしてそこまでする必要があるのかと理解に苦しむほど、スキー以外の物事には目を向けない日々が続いた。


 食事の時に箸を持ったまま眠ってしまったこともあったし、極度の疲労のために吐いている姿も何度か見かけた。過酷な修行僧のようだと他人は彼女を畏れた。


 スキーはこの世で一番楽しいものだと信じていた僕は彼女の姿を見て少し落ち込んだ。ちょっと傷ついた。


 しかしその甲斐があったのだろう。彼女は全国制覇を果たす。そして突然競技からを身を引いてしまう。


 彼女が高校を卒業して、隣の郡山市にある短大に進学してからは話すことがほとんどなくなった。


 単純に物理的な距離が遠くなったのだから仕方がないわけだけども、それだけではなかった。


 彼女は変わってしまった。少なくとも僕はそう感じた。母親にも言ってみたことがある。


「年頃だもの、いろいろあるんでしょ。何、構ってもらえなくなって寂しい?」


「そんなんじゃねーし。あいつ今スキーやってないんでしょ」

「ああ、それはもったいないなと思うけどね。わたしも話してはいるんだけども、いくら言ってもダメ。朔の好きにさせるしかないでしょう、結局は」


「ふうん」


 何があったのかは知らない。たまに話すことがあっても朔の表情は変にうつろで、どこを見ているのかよくわからなかった。スキーに対して彼女が見せた情熱や探究心は根こそぎどこかに行ってしまっていた。


 あれは確かに『燃え尽きてしまった』という状態だったのかもしれない。


 彼女が心の内に持っていたろうそくの芯のようなものは、そこまでの長さしかなかったのだろうか。燃やすものが無くなって自然と炎は消えた。それだけのことだったのだろうか。


 彼女は何となく郡山の短大で学生生活を送り、なんとなく保育士という職業を選んだ。どうしてもその道をというよりは、行ける学校にいって、なれる職業に就いたという感じだった。僕にはそう見えた。


 それは以前の朔からは考えられないような生き方で、また少し反発を感じた。


 そして保育士として六年間勤めて、早川朔は死んだ。彼女の人生は終わった。彼女はもう何も選ぶことができない。


 時が過ぎて変わってしまっていたのは僕も同じだった。


 朔の葬儀の時に、久しぶりに会った昔の知り合いに面と向かって「キャラが変わっちゃったよね」と言われた。


 知り合い。正確に言えば中学の時に少し付き合っていた女の子だった。


 いい気分はしなかったが、そう見えるのも仕方がないと思った。女の子の方も髪型と髪の色が変わっていて、僕の知っていた彼女とは違うようだったが、そのことについてなにも言わなかった。


 姉が『燃やすものが無くなった』のだとすれば、僕は『燃やすものがまだあるにはあるけれど、燃料の質の問題で、燃やしてもろくな炎を起こすことができない』という状態だったろう。


 要するに才能がないのだ。煙がやたらと出るばかり。


 中学三年の大会では県で十番目の成績だった。多少は目立っていたが、偉大な姉とは比べようのないほどの差があった。


 自分なりに精いっぱい滑ったがだめだった。朔のようになりたかったが、やればやるほど彼女は遠ざかっていった。


 誰に強制されて生きているわけでもなし、スキーを辞めたいのであれば辞めればいい話だった。かつての姉のように。


「勉強頑張ってんだ? 頭良かったもんねえ」

 その知り合いの女の子に聞かれた。


 僕は目を逸らした。返事を濁した。その様子から彼女は概ねの事柄を察して、ふっと僕への興味を失ったようだった。あとは近ごろどんなことをして遊んでいるのか、当たり障りのない話題で時間をつないで彼女は立ち去って行った。


「またね」

 手を振った彼女。その後、一度だけメールを出してみた。返事はなかった。


 僕は彼女の生き方から目をそらしていた。何が違うのかはっきりさせるのが怖かった。

 朔にも、僕に聞いてほしい話があったのか、考えることから逃げ続けていた。


 もっと彼女と話さなければならなかった。時間はまだあると思っていた。

 でも人の一生はある日突然終わる。僕らはいったいいつになったらそれを学ぶのだろう。

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