かぐや姫の婚活
のんぴ
第一部
第1話 2012年9月 会津若松
誕生日って苦手だ。僕はいつも思う。
どのように苦手かというと、自分の中に運に頼ろうとする弱い気持ちが湧き出てきてしまう。
誕生日くらいはこんな僕にだって幸運が訪れてもいいだろう。誰かと街中で偶然出会い、そこから何かが始まるような。なにせ一年に一度なのだ。少しくらいは、今日くらいは。
そして何も起こってくれないことに勝手に落ち込む。黙って口を開けていれば誰かが幸せを連れてきてくれることなどありえないし、もしあったらあったで実のところそんなつまらないことってないと思う。
普段ならば分かっているつもりのことが見えなくなる。苦手だ。
「遅くなる」
下宿で同室の文太に告げた。
「うん、分かった。デートだな」
ベッドに寝っころがって雑誌をめくる文太の言葉に、否定でも肯定でもない、「ん」という妙な返事をしながら簡単な準備をした。
僕が通う高校は、会津若松市内の南の方にある。
学区が広大であるために市内に下宿している生徒が大勢いた。
会津という国は山ばかりなので人口は少ないけれども、面積は千葉県より広い。僕は猪苗代町、文太は三島町の出身だ。
十畳間の両端にベッドが置かれ、間の大きな窓にはくすんだチェック柄のカーテンが掛けられていた。ベッドの足元に各々のごく小さな本棚があったがとても足らずに、いろんな種類の本があちこちに放ってある。
散らかったなかに赤いスキー板が立てかけられていた。
この下宿では同じ学校の生徒たちが全部で十二人暮らしていた。男子生徒のみ。僕と文太の部屋は二階。
古い作りの建物だが、一階にはそこそこ大きなお風呂と、そこそこ大きな食堂があった。勉強は食堂の机でするものが多い。
こんなに狭い空間での知らない人間たちとの生活。慣れてはいないが、いろんなことをあきらめることによって、どうにか成立させていた。
一年以上共に生活しているにもかかわらず、文太とも打ち解けたとは言い難い状況だった。
彼はノリの良い男だった。僕はそうではない。
変に打ち解けようとする努力を互いに放棄することによって、ある程度のバランスが生まれていた。どちらがが、どちらかの性格に近づこうとする試みを最初はやってみたのだ。でも疲れるだけだった。誰と一緒になるかは運だったので仕方がない。
自転車をこいで目的地に向かった。近くのスーパーの大きな駐車場が待ち合わせ場所だった。向こうは先に到着していた。車の中からこちらに向かって軽く手を振る。
両親。猪苗代町から今日出てきた。
これから三人で食事をする約束をしていた。
高校生にもなって親とお誕生会。普通ならばなかなかの苦行だけれども、姉の葬儀から一か月が経ち二人の様子が気になっていたので、若松まで来るという両親の申し出を僕は受けた。
「はじめ、お誕生日おめでとう」
自転車を広い駐輪場に置いて親の車に乗り込み、予約をしていた焼き肉屋へと向かった。
「食事はちゃんと採っているの」
「大丈夫だよ下宿で食べてんだから。そっちこそ」
僕は激しい運動を毎日する生活から身を引いてだいぶ経っていた。体重は増えていてもまだ痩せている範疇だったが、筋肉が落ちていた。体つきの変化は母親からすれば一目で分かり、たぶん顔色だってそんなに良くないのだろう。
両親ははっきりと痩せていた。心配されるべき状況なのはどうみても彼らだった。
僕の知っている彼らは食欲旺盛で、焼き肉屋などに来たら二人でもりもり食べるはずだったのだが、どうにも食が進まない。
立ち上る煙は、自分ばかりが勢いよくはしゃいでいることが申し訳なさそうに揺らめいた。
「次なに頼む?」
「わたしらはもういいわ。はじめは好きなの食べなさい」
「そ?」
僕はカルビと牛タンををもう一人前ずつ注文した。
学校の様子など互いの最近の状況をひととおり話してしまうと、会話が途切れた。黙ると考え事をしてしまう。どうしても姉のことを思いだしてしまう。黒いざわめきが胸にこもった。
ひとつも触れないのも不自然だろうかと考えて、焼けた肉を箸でつまみながら「あれから何か分かったの?」と切り出した。
「先週警察に呼ばれて二人で行ったの」
話したいことがあったのだろう。母からの答えはすぐに返って来た。
「色々と聞かれた。たぶん何か進展があったのだと思う。それが何かは教えてもらえなかったけど」
「大事な証拠が見つかったんだ、おそらく」
父が口を開いた。彼はもともとそんなにはしゃべらない。僕はどちらかというと彼の人格を引き継いでいる。
「どんなことを聞かれたの?」
「うん、あのね。はじめは朔から何か聞いていなかった? あの子に付き合っている男の人がいたのかどうか」
彼氏。
「いや、そういう話ってしなかった」
子供のころは互いにクラスの誰が好きなのだと、自白させ、冷やかして、首を絞めあったことがあったような気もする。けれど大人になってからの朔には、その類の質問を寄せ付けないような乾いた雰囲気があった。
「母さんたちも知らなかったの?」
「結構いい歳になってきていたから、誰かいないのか聞いてみたことはあるんだけどね。ふわっとした、判別しかねるような答えしか返ってこなかった」
そういうところが僕と姉は似ていた。
姉の見た目は割と良い方だったと思う。ちゃんと大人として働いて、社会に関わっていたのだから、彼女に目を留める男性が一人もいないということはなかっただろう。
「男性とのトラブルがあったってこと?」
「はっきりとは言わなかったけど、わたしはそう解釈した」
「警察の話はそれだけ?」
「それだけだった」
「捜査ってこんなに時間がかかるものなのかな。遅いよね」
テレビドラマだと、すごい薬品とか使って科学捜査というやつで、あっという間に何でも分かってしまう印象がある。
「待つしかない」
父の言葉の響きはゆるぎなく重い。
「真実を明らかにしてほしいというのはあるが、分かったところで朔は帰ってこない」
店員が注文していたウーロン茶を運んできたので、そこで話が途切れた。伝票に確認の記述をして去っていく店員の背中を見つめながら母がつぶやいた。
「でも、わたしにはわからない」
「母さん」
父がさえぎろうとしても母の言葉は続いた。
「わたしたちは乗り越えなければならないと思う。時間が癒してくれるのならばそれに従うべきだと思う。よい方向に少しずつむかいたい。でもきっとこのままではそうはならない。だって」
母の目には涙が浮かんだ。朔に似た顔が歪んだ。
「いくら考えても朔がこんな目に会ういわれがない。わたしはあの子をそんなふうには育てなかった。大した親じゃないから、世間から見れば大した娘でもなかったんだと思う。でもこんな終わり方をする人間じゃなかった。わたしの娘は。こんなはずはない。絶対にこんなはずはない」
食事が終わり、自転車を置いたスーパーに戻った。車の中では誰も口を開かなかった。
「はじめ。わたしとお父さんは、つらいけど日々のやるべきことをちゃんとやっているから心配しないでいい。あなたはあなたで、すべきことを見定めて」
「分かっているよ」
「今からでもほかのスポーツを始めて見たら? スキー以外にも。楽しんでやる分には遅いなんてことないんだし」
「うん、そうだね」
笑顔で母の言葉に応えた。傷ついたことを悟られないように。
両親の車が去っていくのを見送り、下宿へと帰った。
「あれ、もっと遅くなると思ったのに」
文太は意外そうだった。彼は黒いイヤホンを耳から外してさらに何か話そうとしたようだったが、僕が自分のベッドに倒れこんでためいきをつく様子を見ると、イヤホンを耳に戻して黙った。
僕がスキーをやめても、両親は『もっとがんばってみれば』とは全然言わない。自分の好きな道を好きなように歩けというばかり。
朔のときはもったいない、何があったのとあんなにしつこく問いただしたのに。
どうして僕の時に限ってそんなに物わかりがいいのか。答えは分かりきっている。姉と違って自分に見込みがないからだ。ちっとももったいなくないからだ。
学校の廊下で声をかけられることがある。
たとえば一年の時に担任だった英語の男性教師だ。
進路の件についての話だが、僕が答えても、自分で聞いてきたくせにさほどの興味を示さない。
こういうことが僕にはよくある。高校に入ってからだ。朔が亡くなってからは、さらにその回数がふえた。
腫れ物なのだろう、僕は。
中学の時はスキーに熱中してある程度の成績を残したのに、高校に入ってからはすっぱり競技から身を引いてしまい、勉強に集中したいのかと思えばひとつも成績は上がらない。彼らにとってみれば不思議なのだ。
その年の春に震災があったので、それが心に影響を与えているのではないかとも気遣ってくれた。確かにそういう人間もいたが、僕は少し違う。
他人に何か迷惑をかけているわけではないのだから、別に自分の勝手じゃないかとも思うのだが、それでは困るらしい人間たちが近づいてきては心配そうに声をかけた。
彼らは僕が朔を殺したとでも思っているのではないだろうか。声をかけられるたび気持ちが沈んだ。
高二の秋。大学受験の影が確実に近づいてきてはいたが、まだ僅かに遊べる余地が残っている貴重な時期。それを早送りでもしてしまうように、何もしないで通り過ぎてしまうことは避けたかった。
下宿の部屋に帰るたびに、スキー板は何かを語りかけてくるようだった。
分かりきった話ではあった。これをもう一度履くか、いっそ捨ててしまうか。どちらかをはっきりと選ばないから僕はどこにも行けないのだ。
近ごろよく見る夢があった。
冬の旭川。天気は荒れていた。
九歳だった僕にとって、北海道の寒さは想像をずっと超えた厳しいものだった。
それはあのときの刺すような緊張感とともに強い印象を残した。小さな手で両親の手を強く握った僕は、吹雪の揺らぎの向こうにまっすぐ立つ赤いスキーウェアに身を包んだ彼女の姿を見上げた。
そして誰にも聞こえないように囁いた。
がんばれ、お姉ちゃん。
朔は高校総体アルペンスキーの全国大会福島県代表としてスタート地点に立ち、時を待っていた。
いつも隣にいた彼女が大勢の人間に見上げられ、まるで崇められているかのようだった。不思議な、現実味の薄い光景だった。
そして白い舞台で彼女が滑った数十秒間。
旗門を一つ過ぎるたびに、僕の心臓は畏れと期待ではちきれそうだった。
そんな邪魔なものなど全部蹴散らすかのように彼女は突き進んだ。
余計な感情に振り回されているのは見ているこちらだけで、彼女はきっと無心だった。
朔は優勝した。日本一になった。
彼女の勝利が決まり、両親と共に彼女に駆け寄ったもののほかの人々に阻まれて、なかなか朔の元までたどり着けなかった。
祝福を受ける姉。
それはとても華やかで、映画のラストシーンのようだった。
ハッピーエンド。おめでとう。それは一生の思い出。
でも、僕の中で一番強く今でも心に焼き付いている風景は、スタート前の、背をまっすぐ伸ばして堂々と目指すゴールを見下ろした朔の姿だった。
彼女は僕のことを見ているのではないか。そんなふうに感じたことを覚えている。
本当のところあのとき朔は何を思っていたのだろうか。
今ではもうわからない。知りたくても無理なのだ。
夢の中で僕は朔に語りかけることができなかった。現実で彼女に問うことができなかった僕は、夢の中であっても問うことが出来ない。
今このときの僕が、雪に立つ彼女を見つめる。
何も持たない僕は違う時代を生きていて、彼女に届けるべき言葉を手探りで探していた。
僕は闇の中にいた。
姉を見上げながら、心の中で思いを浮かべる。
朔、誰が君の命を奪ったのか、僕は知る必要があるんだ。
権限とか、身の程とか、そんなものって僕らには関係ないよね。
僕だけはあの出来事を決してこのままでは終わらせないから。
あのときの朔が勝ち取った賞状は、彼女の体と一緒にすでに灰となってしまっていた。
早朝に鳴り響いた電話の音を忘れることができない。
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