第8話 失ったぬくもり

 屋敷を出たクリスティーナはエダとニナを連れて町へと繰り出した。だが、都合よく困っている人など転がっているわけもなく、クリスティーナは困っている人を探して馬車の窓から町を見て回るしかなかった。


「どこにいるのよ困っている人は!」


 困っている人は、いる。けれどクリスティーナの目には入ってこない。


 目が見えないわけではない。ただ、本質的に興味がないだけなのだ。自分は貴族で聖女になる人間で、その他はただの下々の下民。そんな者たちが困っていてもクリスティーナは今まで気に留めることもなかった。


 そんな彼女がいきなり困っている人を探そうとしてもわからないのだ。どんな人が困っていて、どんな人が困っていないのか。


「どいつもこいつも役に立たないわ! ちゃんと困ってなさいよ!」


 無茶苦茶である。悪夢を見たことで多少は性格がマシになっていると思われたが、数日ではやはり変わらないのだ。


 だが、そんなクリスティーナにも目に留まるものがあった。


「くそっ! 待ちやがれクソガキ!」


 怒鳴り声が聞こえてきた。クリスティーナは馬車の中から声のするほうを見た。


 少年が何かを抱えて走り去り、それを男が追いかける姿が見えた。さすがのクリスティーナも何が起こったのか察することができた。


 泥棒である。少年が店先に並んでいた野菜を盗んで逃げていったのだ。


「追いかけるわよ!」


 クリスティーナはすぐに馬車を走らせた。少年が逃げていく方向へと馬車を走らせ追いかけた。


 けれどすぐに追跡できなくなった。少年は馬車の入れない路地へと逃げてしまったのだ。


「もう! 逃げるんじゃないわよ!」

「お嬢様、どちらへ」

「追いかけるのよ!」


 クリスティーナはエダたちの制止を振り切り馬車を飛び降り、路地へと入っていった。


「泥棒は悪いこと。そいつを捕まえれば、それはいいことだわ!」


 良いこと。確かに良いことだろう。


 けれど、追いつけるわけがない。今まで大した運動をしたことなどない幼い貴族のお嬢様の体力などたかが知れている。


「はあ、はあ……。一体どこに」

「お嬢様!」

「だ、大丈夫ですか?」


 膝に両手をつき息を切らして立ち止まったクリスティーナに追いついたエダとニナは周囲を見渡してこう言った。


「お嬢様、早くここを離れましょう」

「そうです。ここにいると」

「なんで! あいつを捕まればきっと清らかな心を」


 そう言ってクリスティーナは顔を上げた。


 顔を上げて、見た。


 町の路地裏。そこには地面に寝転がっている身なりの汚い男がいた。地面に座るやせ細った子供がいた。ゴミを漁る少女がいた。膝を抱えて死んだように暗い目で何もないところを見つめている小さな男の子がいた。


「ここ、は」

「行きましょう、お嬢様」


 エダはクリスティーナを手を引く。しかし、クリスティーナは動こうとしなかった。


 いや、動けなかった。クリスティーナの脳裏に浮かぶ光景が彼女の足を動かなくしていたのだ。


「そう、よ。なんで、忘れてたの……」


 思い出した。見たはずなのに忘れていた、悪夢。


 いや、忘れようとしたのだ。あの悪夢は。


 それは、あたたかな悪夢だった。


 その悪夢でのクリスティーナは聖女に選ばれたフィニルを陥れようとした。けれどその計画がバレてしまい、罪に問われて王国を追放された。


 何もかもを失ったクリスティーナは当てもなくさまよった。そして、雪の降る寒空の下で息絶えようとしていた。


 けれど、救われたのだ。凍死寸前だったクリスティーナは聖女教団の修道女に助けられたのである。


 それからクリスティーナは聖女教団の修道院で修道女たちと共に暮らした。その修道院には孤児院も併設されており、クリスティーナは孤児たちの世話をしながら生活していた。


「だめ、やめて。奪わないで――」


 最初は何で自分がこんな仕打ちを受けなければならないのかと呪っていた。けれど、温かい食事と温かいベッドと修道女たちの優しさに触れ、少しずつ自分の行いを悔いるようになっていった。


 少しずつ、少しずつ、クリスティーナは心を開き、子供たちにも慕われるようになっていった。


 幸せだった。あたたかかった。聖女に選ばれず他人を陥れようとしていたことが恥ずかしくなっていた。追放され、飢えと寒さで苦しみ、死の淵に追いやられて当たり前だと、そう思った。


 クリスティーナは反省していた。そして、ここで人生をやり直そうと、そう誓った。


「お姉ちゃん遊ぼう」

「ええ、いいわよ。何して遊ぶ?」

「うーんとね、今日はね――」


 何もかもを失った。けれど、人の優しさを手に入れた。


 幸せだった。何もかもを失ったけれど、幸せであたたかかった。


 けれど。


「やめて! 子供たちだけは、子供たちは!」


 孤児院に強盗が押し入って来た。クリスティーナは子供たちを庇って、死んだ。


「お、ねえ、ちゃん」

「あ、ああ、あああ……」


 子供たちを庇って死んだ。けれど、子供たちも助からなかった。消え行く意識の中、ぼやけていく視界の中で、次々と強盗たちに子供たちが殺されていく姿をクリスティーナはその目で見ていた。


「いや、いやああああああああああああ!!」


 どうしてこうなってしまったのだろう。何がいけなかったのだろう。どうしてこんな目に合わなければいけないのだろう。


 間違っていたのか。何が間違っていたのか。どうすればよかったのか。


「お嬢様! 落ち着いてくださいお嬢様!」


 もし、あの時、自分に力があれば子供たちを守れたのか。あのぬくもりを失わずにすんだのか。


 いや、力はあったはずだ。


 光の力。聖女の力を持っていたはずだ。


 けれど守れなかった。何も守れなかった。


 なぜ? 


 理由は、わかっている。


 努力しなかったからだ。何もしなかったからだ。


 もしあの時、光の力を自在に使うことができたとしたら、あの子たちを守れただろう。けれどそうはならなかった。


 すべて自分の行いが悪かったからだ。


 だから死んだ。だからみんな、死んでいった。


 自分が弱く、愚かだったから。


「う、ううう」

「ニナ、お嬢様を運びます。手伝って」

「は、はい」


 どうして忘れていたのだろう。あのぬくもりを。


 どうして忘れようとしたのだろう。あの子たちのことを。


「やめて、いや、どうして……」


 忘れようとした。忘れたくはなかったけれど、忘れるしかなかった。


 辛かった。辛くて苦しくて悲しくて悔しくて頭がどうにかなりそうだった。


 きっと正気を保つために無意識に抑え込んでいたのだろう。


 だが、思い出した。思い出してしまった。


 思い出して、わかった。クリスティーナは理解した。


 何をするべきなのかを、彼女はその時、理解したのだった。

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