トンネルムゲン

権俵権助(ごんだわら ごんすけ)

トンネルムゲン

 山奥深く、夜明け前の静寂を破って車のエンジン音が響いていた。年季の入った安物の軽自動車。白い外装は経年の汚れと塗装の剥がれでもはや灰色に近い。そんな老体に鞭打って、山の中腹を貫くトンネルをひとつ、またひとつとくぐっていく。


"2月18日、日曜日。皆様いかがお過ごしでしょうか。まだまだ夜は寒いですね! 運転中の方はどうか慌てず、ご安全に。お休みの方は……"


 運転席のシローは苛立ちながらカーステレオを切った。右手でハンドルを握ったまま、左手で器用にタバコを一本取り出して口に咥え、百円ライターに持ち替えて火を点けた。煙を吐きながらルームミラーの角度を調整する。鏡に映った自分が、寝不足で座った目で睨み返してきた。年齢以上に目立つ白髪と伸ばしっぱなしの無精髭。憔悴した表情。昨夜から走りっぱなしでそろそろ体力の限界が近い。


 舗装の甘い山道で車体が揺れると、後部座席に横たわったキャスター付きのトランクがわずかに弾んだ。その浮き具合の小ささから、かなりの重量を搭載していることがわかる。冬の澄んだ空気を裂きながら車は次のトンネルに入った。ここを抜ければ県をまたぐ。


「こんだけ離れりゃ、とりあえず安全だろ……」


 ひとりごち、アクセルを強く踏む。こんな田舎、こんな時間。前にも後ろにも他に走っている車は数台だけ。ひたすらにまっすぐなトンネルを漫然と走り続ける。フロントガラスの左右をオレンジ色の照明が一定間隔で流れていく。それに歩を合わせるようにアスファルトの窪みが退屈なリズムを刻んでシートを揺らす。大きな揺りかごに乗っている気分だった。蓄積した疲労もあり、だんだんと瞼が重くなってくる。


 ── 一瞬、意識が飛んだ。


 握っていたつもりのハンドルがシローの制御を離れて回転し、タイヤとアスファルトが不自然に擦れる音が意識を呼び戻す。


「!」


 すぐさまハンドルを掴んで慌てて車を制御し、スピン直前でなんとか軌道を修正することができた。


「……っぶねぇ」


 一度、深呼吸をした。眠気覚ましに切ったばかりのカーステレオを点け直し、片手で適当に周波数をいじくる。幾つかの番組の声が入れ替わり聴こえてくる。


"……ュースです。昨晩七時頃、◯◯県の宝石店に強盗が押し入り……"


 シローはそこで手を止めて耳をそばだてた。もう報道されているのかと、後部座席のトランクに目をやった。


"……店主……報し……察が…………の後、犯…………"


「おい、なんだよ」


 電波の入りが悪くなり、肝心な部分が聞こえない。ガチャガチャと周波数を変えて他のニュース番組を探してみるが、ノイズは酷くなる一方で、さらに英語や韓国語の混線まで始まってしまった。


「くそ、他にやってねえのかよ」


 諦め悪く探していると──不意にノイズが消失した。いや、ノイズだけではない。不思議なことに、車のエンジン音も、外を吹きすさぶ風の音も、シローの呼吸音すらかき消えていた。


 ──直後、甲高いビープ音が耳をつんざいた。


「!?」


 シローは思わず急ブレーキを踏んで両手で耳を塞いだ。が、その時にはもう音は止まっていた。ゆっくりと耳から手を離すと、エンジンと風と呼吸が何事もなかったかのように音を立てていた。


「なんなんだよ……」


 とにかく、今ので眠気は消えた。アクセルを踏み、ふたたび車を走らせる。フロントガラスの左右を、またオレンジ色の光が流れ始めた。


「……………………」


 それにしても随分と長いトンネルだった。入ってから既にかなりの距離を走っているはずだが、まだ出口が見える気配すらない。一体どれだけ大きな山を掘って作られたのか。代わり映えしない景色に緊張感が薄れ始めると、思い出したかのように腹の虫が鳴いた。


「……なんか食うか」


 昨晩走り始めてから何も口にしていなかった。シローは片手で助手席前方のグローブボックスを開き、昨日から入れっぱなしにしていたコンビニの袋に手を伸ばした。中身は、卵とレタスを挟んだサンドイッチと紙パックのアップルジュース。袋を取り出す時、その奥に収納していた拳銃に手が触れた。


「………………」


 サンドイッチを頬張りながら車を走らせる。単調な走行音。進んでいるのか戻っているのかわからない景色。退屈だ。半日前にパンに挟まれた卵の味すら新鮮に思える。しかし、しなびたレタスだけはいただけない。こいつがすべての味を台無しにしている。はっきり言って不味い。どうしてこんなものに金を払って空腹を満たさねばならないのかとシローは腹を立てた。いっそ機械の体なら食事なんかしなくて済むのに、と思った。


※ ※ ※


「どうなってんだよ……」


 苛立ちは時間と共に狼狽へと変わっていた。時速50kmでかれこれ一時間は走っているというのに、いまだトンネルの出口が見えてこない。たしか日本最長のトンネルでも全長は20km未満のはず。いや、それ以前にこんなトンネルを掘れるほど巨大な山が一体どこに存在できるというのか。どう考えても理屈が合わない。バックミラーに目をやる。前方に映る光景と変わらぬ、ただただまっすぐな二車線の道が後ろにも続いていた。その奥は前後どちらも闇に包まれ、外の様子は伺いしれなかった。走っているのはシローの車だけ。他の車は忽然と姿を消していた。


「くそっ」


 シローはさらにアクセルを踏んだ。引き返すには判断が遅すぎたし、自身に追っ手が向けられている可能性を考えれば、いずれにせよ前に進むしか選択肢はなかった。せめて少しでも外の様子がわからないものかと再びカーラジオを点け、周波数を細かく調整する。しばらくは耳障りなノイズだけが続いていたが、そのうち、かすかに言葉の断片らしきものが聞こえてきた。言葉の発音は言語によって異なる。たとえ単語の一部であっても、それが日本語であることはわかった。さらに周波数を絞り込んでいく。


"………表によりますと、慢性的な半導体不足により、来年の出生率は20%低下する見込みとなりました。続いては全国各地のご当地ニュースを……"


「よし、聞こえる……!」


"……アラム国で高品質のオイルが産出された影響で今年の食卓は賑やかになりそうです……"


"3月43日のシルドー外国為替市場でルガーが反落し……"


「くそったれ」


 いくら聞いても作り話ばかり。どうやらラジオドラマらしいと分かり、シローはまたカーラジオの電源を落とした。今時、オーソン・ウェルズの『宇宙戦争』もないもんだ。一瞬でも真剣に耳を傾けた自分が腹立たしかった。また、走行音だけが車内に響き始めた。


 ……ふと、景色の流れが緩やかになったように思えた。


 いや、気のせいではない。明らかに走行速度が落ちてきている。まさか、とガソリンメーターを確認する。残量警告灯が点灯していた。


「おい、嘘だろ……」


 機械仕掛けに嘘は無い。シローの願いも虚しく、それから間もなくしてタイヤは回転を止め、景色は流れるのをやめた。


「冗談だろ!? こんなとこで止まったら死んじまう!」


 叫んだところで動くはずもない。もう、いくらアクセルを踏み込んでもエンジンが応答することはなかった。シローは未練がましくハンドルを握ったまましばらく顔を伏せていたが、結局それが何の解決にも繋がらないのだと認めると、グローブボックスから取り出した銃をジーパンの後ろポケットに突っ込み、ドアを開けて数時間ぶりに車外へ出た。トンネル内のコンクリート壁に冷やされた外気が肌をちくちくと刺した。シローは後部座席のドアを開くと、重いトランクを引きずり出し、伸ばした持ち手を引っ張って歩き始めた。動かない車は鉄の棺桶だ。ここに乗り捨てていくしかない。


※ ※ ※


「……………………」


 歩いても歩いても同じ景色。どこまでも続くトンネル。前方100メートルほどまでは壁のオレンジ灯に照らされてかろうじて視認できるが、その先は漆黒の闇に包まれていた。少なくとも、そこまでに出口が無いことだけはわかる。振り返ると、後方にもまったく同じ景色が続いていた。車はもう闇の奥に埋もれて見えなくなっていた。また腹が鳴き始めた。もう手持ちの食糧は無い。もしかして、さっきの不味いサンドイッチが最後の晩餐になるのだろうか。そう思うと、ここにたどり着いてしまったこれまでの人生そのものが間違っているように感じて情けなくなった。


 腕時計を見る。午前六時を指したまま針は止まっていた。今は何時いつでここは何処どこなのか。ここではそれすら曖昧だった。


 歩いていると、金属音がしてトランクを引っ張る腕が急に重くなった。見ると、トランクが横倒しになっていた。本体とキャスターを接続する金属が割れ、タイヤが道路を転がっていた。こけた衝撃でトランクの鍵が外れ、開いた蓋の隙間から色を失った人間の腕がはみ出していた。シローは苛立つ気力も無く、腕を中に仕舞ってトランクの鍵を締め直すと、片方だけのキャスターで引きずって歩いた。やがて体力の限界が訪れ、コンクリートの地面に両膝をついた。同時に睡魔がやってきた。シローは意識が途切れる前に道路の左脇へと体を寄せ、壁に手をついて──眠った。


※ ※ ※


 ……………………。


 目が覚めた時、手はまだ壁についていた。どうやら進行方向を見失ってはいないようだ。もしもシローが、寝ている間に反対車線まで転がり、180度反転するほど寝相が悪くなければ、の話だが。


「……………………」


 寒気のする体を震わせてどうにか立ち上がる。手足の末端が冷え切っている。深呼吸をする。……のどが渇いた。壁に手をつき、またトランクを引きずって歩き始める。まだ出口は見えない。時間の感覚を失ったが、それでも歩き続けるしかなかった。トンネルの中に自分の足音だけが響いた。


 ……………………。


 ……いや、何か聴こえる。


「……!」


 水の音。水滴がコンクリートに落ち、跳ねる音だ。シローは口を開けたまま音のする方へと走った。ちゃんと走れているのかどうかはわからなかったが、走ったつもりだった。


※ ※ ※


 ひび割れたコンクリートの隙間から水が漏れ出していた。どんな水だろうが今のシローには関係なかった。壁に口を吸い付け、細かな砂利と一緒に飲みこんだ。飲めるだけ飲んだ。にわかに意識が明瞭になっていった。


「ふぅ…………」


 その場に座り込み、考える。このままここにいれば水は確保できる。だが……。


「…………」


 シローはすぐに立ち上がって、またトランクを引きずって歩き始めた。出口への希望を持っているわけではない。ここでただ静かに死を待つ方が楽かもしれないと考えたが、すぐにそれは間違いだと気付いたのだ。じっとしていれば身体の代わりに頭が働く。そうしたら、間違いなく死の恐怖に襲われる。それなら、まだ身体を動かして何も考えずにいた方がマシだ。そう判断しただけだった。


「……………………」


 右足を前に。左足を前に。右足を……。歩くことだけに意識を集中する。余計なことは考えない。前は見ない。出口など意識しない。右足、左足、右足、左足、右……。


「……?」


 音。


 音が聞こえる……気がした。


 水……ではない。


 音量が増してくる。


 間違いなく聞こえている。これは幻聴ではない。


「!」


 車の走行音だ。こちらに向かってきている。止めなければ。なんとしても乗せてもらわなければならない。シローは二車線の中央に立ち、トランクを脇に置いて両腕を広げて叫んだ。


「おおーい! 止まってくれえ! 助けてくれぇ!」


 両腕を振りながら絶叫した。これを逃せば命はない。そう思えばなりふりかまっていられなかった。走行音が近付いてくる。闇の向こうにうっすらと車の輪郭が浮かんだ。


(来た!)


 銀色の車体を視認した──と同時にシローは反射的にその場を飛び退いた。次の瞬間、さっきまでシローが立っていた場所をそれが猛スピードで通過していった。異常な速度──おそらく時速200km近くは出ていただろう。あと一秒判断が遅れていたら今頃……。シローは地面に尻餅をついたまま、車が通り過ぎていった先の暗闇を呆然と見つめていた。おそらく最後のチャンスを逃したのだ。それを認識した時、ついに彼の心は折れた。もう、一歩も動けなかった。動いたところで助からないのだからと身体が拒否していた。


「……………………」


 シローはしばらく何も考えられず、ぼうっと道の先に広がる闇を眺めていた。


「……………………?」


 何かが光った。光は徐々に明るさを増しながらこちらへ近付いてくる。だんだん光の周りに輪郭が浮かび上がってくると、それが先ほど通り過ぎた銀色の車だとわかった。今度はゆっくりと速度を落としてくれている。おかげで車体を初めてしっかりと視認できたが、それはシローの見たことのない、やたらと車高の高い車種だった。車は座り込んだシローのすぐ隣で止まった。


「あ、ありがとうございます!」


 叫びながらシローが立ち上がると、運転席のドアが開いて「すまない、少しばかり速度を出しすぎたようだね」と男の声がした。だが、その姿は見えない。……いや、そもそも、それが運転席なのかどうかすらよくわからなかった。本来ハンドルがあるべき場所からは二本の金属アームが伸びており、座席に据え付けられた金属製の──自動車の衝突実験に使われるような──表情の無い人形に接続されていた。


「あ、あの……」


 どこかにいるであろう運転手へおそるおそる声をかけると、金属人形の首だけが90度回転してシローの方を向き、「やあ」と喋った。人形は金属アームを引き抜いて自らの腕とすると、車を降りて立ち上がった。3メートル近くある巨大な機械人形の影がシローに覆いかぶさった。


「君を探していたのだよ」


 まぶたらしき鉄のシャッターが開き、現れた両の目に赤いライトが灯った。人形は助手席から拾い上げた黒鉄のシルクハットを被ると、鉄の足を地面に降ろし、表情の無いまま近付いてきた。得体の知れない恐怖にシローの防衛本能が反応した。


「う、うあぁ……!」


 震える声で精一杯の威嚇をしながらポケットから銃を抜き、人形めがけて連続で発砲した。銃の腕前には自信があった。三発の銃弾はすべて人形の顔面に命中した──それは間違いなかったが、その皮膚を構成する信じがたい硬度の金属により、そのすべては弾き返された。


「まあ、待ちたまえ。怖がる必要はない」


 人形は落ち着き払って言うと、二本の金属アームを伸ばしてシローの両肩を掴んだ。本気になればこのまま万力の如くシローを潰すなど容易いことだろう。この態勢になった時点で、もはやシローに抵抗する術はなかった。


「別に危害を加えようというわけではないから安心したまえ」


 言うと、人形は極めて紳士的にシローを助手席へと運んだ。人形のサイズに合わせてか、やたらと広い座席だった。親切なことに、シローの座った脇に道路から拾い上げた死体入りのトランクも載せてくれた。


「まあ、走りながら話そうじゃないか」


 人形が両腕をハンドルのあるべき位置に空いた二つの穴に差し込むと、扉が自動的にロックされた。シローはおそるおそる人形の顔を横から見上げた。だが、その無表情からは何の感情も読み取れなかった。車は走り出すとすぐに最高速に達した。


「さっき、そこで乗り捨てられていた君の車を見つけてね。きっと"迷い人"だろうと思って追いかけてきたんだ」


「…………」


「緊張しているのかね? はは、実は私もだよ。なにしろ言葉を話す有機物と出会ったのは初めてでね。私の名はトピー。君は?」


「…………シロー」


「ふむ。ちゃんと言葉は通じていたようでよかった。君の車のメーター等の表示からそうだろうとは思っていたが、やはり同じ言語か。案外、近い世界の住人なのだな」


 トピーは姿こそ異形だが、その話ぶりはいかにも親しげで、本当に敵意が無いように思えた。


「……し、知ってるなら教えてくれ。このトンネルは一体なんなんだ」


「普通のトンネルだよ。……何もしなければね」


 それは、言い換えればシローが何かをしたがゆえに閉じ込められてしまったという意味になる。


「並行世界というものを知っているかね? 複数の可能性から分岐したもう一つの世界のことだ。そう、たとえば私たち無機物生命体と君たち有機物生命体の似て非なる世界のようにね。それらは通常、同じ座標にありながら決して重なることはなく、お互いに影響を及ぼすこともない。だが例外的に、ある条件を満たした時にだけ世界は繋がってしまうんだ」


 トピーの話すことのすべては理解できなかったが、シローは黙って耳を傾けた。


「これを見たまえ」


 穴に差し込んだままの腕の側面カバーが開くと、中に折りたたまれていた小さなアームが伸びて、運転席の中央にあるカーラジオの操作盤……らしきものを指した。つまみを回して矢印を左右に動かすことで周波数を調整するアナログ方式だ。シローも昔に見た覚えがある。ただ、彼が知っているものと違っていたのは、同じものが縦に四つ並んでいることだった。


「乗り捨てた車を拝見させてもらったが、どうやら君たちの文明ではまだを一つしか発見できていないらしいね」


「……軸?」


「たとえば、X軸とY軸がわかれば二次元の点の座標を特定できる。そこへ奥行きのZ軸が加われば三次元だ。それと同様に、並行世界の座標はある四つの数値を知ることで特定ができる。君たちはそのうちの一つ──並行世界の位置を示す電波の周波数だけしか認識できていない。ゆえに、まだ他の世界を見つけられないでいるのだ」


「……その話とこのトンネルと、どういう関係があるっていうんだ」


「問題はそこだ。たとえ四つの軸を認識できたとしても、それだけではただの知識に過ぎない。……そうだな、君の世界で例えるなら『生き物図鑑』を読んで知らない生物を知ったとする。しかし実際にその手で触れるためには、その生物が棲む場所への道が必要だ。その道こそが……」


「このトンネル……?」


「その通り。わかっているじゃないか」


 別に理解しているわけではなかった。話の流れから、その答えしか考えられなかっただけだ。


「このトンネルはいわゆる特異点でね。四つの軸の数値が常に変動しているんだ。そのせいで様々な時間や空間に繋がる可能性が──つまり、知らず知らずのうちに他の並行世界と繋がってしまう可能性があるということだ」


「だからって、どうして俺だけ……」


 そこまで口にしたところで気付いた。あの時、ラジオの周波数を変えたことに。その瞬間、偶然にも並行世界と繋がる四つの軸が揃ってしまった。そしてここに迷い込んだ後、またトンネルの軸がずれたことでどの世界とも繋がりが無くなり、出られなくなった……。 


「さて、帰り道のわからない君はこれからどうするかね? いっそ、私の世界へ来るというのはどうだい?」


 唐突で無茶な提案だったが、かと言ってこのままトンネルの中にいても野垂れ死ぬだけだ。


「……そうしたら、どうなる?」


「そうだねえ。悪いが、当分はマスコミの注目の的になるだろうね。まあ、そんなに気にすることじゃない。みんなすぐに飽きて忘れてくれるさ。それよりも最悪のパターンは……いや、これはやめておこう」


「おい、なんだよ! はっきり言えよ!」


「……君は我々にとっては非常に珍しい生物だ。最悪の場合、研究者の実験材料として生きたまま解剖され……」


 シローはそれを最後まで聞くことなく、必死で車のドアをこじあけようとした。が、人間の力ごときで開くものではなかった。


「ははは、冗談だよ、冗談。そもそも、私のような世界間貿易商には迷い人を救助する義務が課せられている。安心するといい」


「……その冗談、全然笑えないんだが」


「ふむ。文化と価値観の相違だな。さて……」


 トピーは四つのつまみを回しながら言った。


「君の車の痕跡を辿って、おおまかにどのあたりの座標から来たのかは特定できている。出口に多少の空間や時間のズレがあるかもしれないが、そこは勘弁してくれたまえよ」


 つまみを設定し終えると同時に、またあの甲高いビープ音が鳴り響いた。シローは思わず耳を塞ぎ、目を瞑った。


「……っ!」


 閉じた瞼の裏側に、ぼんやりと光を感じた。ゆっくりと目を開くと、フロントガラスの向こうに──出口があった。


"……こんばんは。夜7時になりました。2月17日のニュースをお送りいたします。本日午後、山本総理は会談を開き……"


 カーラジオから聞き覚えのある番組が流れてきた。本当に元の世界に戻ったのだ。


「さあ、行くといい」


「あ、ああ……」


 ロックの解除されたドアを開け、シローは車を降りた。


「おっと、忘れ物をしているぞ」


 続いて車を降りたトピーが助手席に置きっぱなしにされていたトランクを片手に言ったが、シローは「アンタらにやるよ。解剖でもなんでも好きに使ってくれ」と晴れやかな笑顔で答えた。今の彼の目には、ようやく辿り着いた地獄からの出口だけしか見えていなかった。


「ふむ。では、さらばだ。いつか君たちが我々の世界を認識する時まで!」


 トピーは鉄のシルクハットを脱ぎ、去りゆくシローの背中を見送った。


※ ※ ※


「ここは……」


 シローは夜の森の中に立っていた。振り返るとトンネルの出口は無くなっていた。やはりトピーの言っていた通り、戻る場所と時間には多少のズレがあるらしい。まずはここがどこなのかを確認する必要がある。


「!」


 ……人の気配。


 木の向こうに誰かがいる。向こうもシローの気配に気付いたようだ。薄雲の隙間から月が顔を出し、わずかな光を森に下ろすと、夜の闇にシルエットが浮かんだ。その手には銃が握られていた。


(追っ手の警官か!?)


 こちらは既に人をひとり殺している。やられる前にやるしかない。シローは銃を抜いて相手に向けた。直後、相手もシローに銃を向けた。当然、先に引き金を引いたのはシローだ。だが、その六発の銃弾は既にすべて撃ち尽くされていた。代わりに相手の銃口が三度赤く光った。それがシローの見た最後の光景になった。


※ ※ ※


「はぁ、はぁ……」


 一瞬の銃撃戦を制し、は息を荒げた。宝石強盗に失敗して逃げ出してからまだ10分も経っていない。いくらなんでも追っ手が来るには早すぎる。草むらをかき分け、死体を確認する。


「うげぇ……」


 銃の腕前には自信があった。撃った三発の銃弾はすべて相手の顔面に命中し、原形を留めないほどに破壊していた。服は血まみれで柄もわからなくなっていたが、少なくとも警官の制服ではないことだけは確かだった。マズいことになった。いくら相手が先に銃を向けたとはいえ、宝石強盗が正当防衛を主張できるはずもない。


「くそったれ」


 悪態をつき、本当なら宝石でいっぱいになるはずだったキャスター付きのトランクに、死後硬直が始まる前の死体を無理やり詰め込んだ。シローはトランクを引っ張りながら、森の奥に隠してあったボロ車へと走り、後部座席にトランクを放り込んでアクセルを踏んだ。


「とにかく、こいつをどこか誰にも見つからない田舎の山奥にでも埋めて、それから……」


 どうやって逃げきるか、それだけを考えながらシローは車を走らせた。長い夜になりそうだと思った。車は、先の見えない夜の闇の奥へと消えていった。


-おわり-

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トンネルムゲン 権俵権助(ごんだわら ごんすけ) @GONDAWARA

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