誰にも言わんといてくださいね
夕方、僕が事務所に戻って伝票を渡すと、エビちゃんが真剣なまなざしを向けてきた。
なんやろ、なんか真面目な話があるんかな?
「伊勢原さん、この後時間ありますか?」
「あるよ」
僕は席を立ったエビちゃんの後を追って、会議室へ向かった。
僕が中に入ると、エビちゃんは会議室のドアを閉めた。
ドアを閉めるってことは、他の人には聞かれたない話ってことよな。
「どしたん、大事な話か?」
僕が言うと、エビちゃんはじっと僕を見つめてうなずいた。
「このまえはありがとうございました」
ほう言うと、エビちゃんは僕に向かって小さく頭を下げた。
「僕なんかした?」
僕はエビちゃんにかしこまってお礼を言われるような記憶はなかった。
「給湯室で薬を飲ませてくれたでしょ」
「ああ! なんや、ほんなこと? 気にせんでええのに」
僕はエビちゃんが困っとんがほっとけんかっただけで、頭を下げられるようなことをしたとは思ってなかった。
「あれからいけるんか?」
僕が言うと、エビちゃんは少し困ったように微笑んだ。
「誰にも言わんといてくださいね」
「言わんよ」
エビちゃんは、僕に手が届くくらいの距離まで近づいて、上目遣いに僕を見た。
「僕、病気なんです」
エビちゃんの言葉を聞いて、僕は反応に困った。
「ごめんなさい、いきなりこんなこと言われても困りますよね」
エビちゃんが目を伏せた。
「僕こそごめん、実はエビちゃんが飲んどった薬、調べたんや」
僕がほう言うと、エビちゃんはハッとして顔を上げた。
「あれ、安定剤やろ? ほんな薬常に飲まないかんくらい悪いの?」
僕が言うと、エビちゃんはうつむいて下唇を噛んだ。
僕はエビちゃんが話し出すまで待った。
どんな病気か教えてくれたら僕も力になるし、詳しいに話せんでも僕にできることがあるんやったらさせてほしいと思うた。
ふいにエビちゃんが、両手で僕の手を取った。白くて、男にしては華奢で小さな手で、薬が飲めんかったあのときみたいに震えとった。
情けないことに、エビちゃんに手を握られて僕は目を泳がせとった。
エビちゃんは上目遣いに僕を見とった。
「薬飲んどったらいけるんです。でも、ときどきすごく調子が悪くなることがあって。だから伊勢原さんに言いたいことがあるんです」
「う、うん……」
僕は変に緊張して、手に汗をかいとった。
言いたいことって、なんやろか……。
「伊勢原さん……」
「うん……」
エビちゃんは熱っぽいまなざしで僕を見つめとった。白い肌が、少し赤くなっとるような気がした。
僕もなぜか緊張して、顔が熱くなるんを感じた。
時間が流れるんがゆっくりに感じた。
「いつも親切にしてくれてありがとうございます。これちゃんと言うとかな、僕きっと後悔するから」
エビちゃんに握られた手は僕の汗でヌルヌルしとった。
エビちゃんの白い手は、やっぱり小さく震えとった。
「あっ、うん! 僕のほうこそいつもありがとうな!」
僕は上ずった声でほう言うた。
ありがとう、か。
ほうよな、何でエビちゃんが僕のことをほんな目で見よらないかんのよ。年甲斐もなくドキドキして、あぁ恥ずかし。
「それじゃあ僕、行きますね。ありがとうございました」
エビちゃんは僕の手を離して、小さく頭を下げた。
「うん! 困ったことがあったらいつでも言うてき!」
僕たちは連れだって会議室を出た。
「あ、エビちゃん、手ぇ洗ときよ。僕めっちゃ汗かいたけん、だいぶばっちいよ」
僕は汗で湿った手をズボンで拭きながら言うた。
エビちゃんは胸の前で両手を重ねると、なぜか嬉しそうに笑うた。
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