第8話 勉強を教える日(2)

 勉強会が、終わった。

 静けさの募る家の中、窓からは人気のない通りを見下ろせる。


 勉強に疲れた俺は、勉強道具をそっと畳む。


「もし、よければ……なんだけど、一緒にご飯食べない?」

「いいのか?」

「うん! じゃあわたし――腕によりをかけて作るね!」


 どうやら今から作るらしい。

 そりゃ一緒に勉強してたから当たり前と言えば当たり前なんだが。


 俺たちは一緒にキッチンへと向かう。


「キッチン……広くね?」

「お父さんがね、張り切っちゃって……」


 小野ヶ峰の家のキッチンはやたらと広い。

 キッチンとその流れにあるダイニングまで含めると、俺の家の土地面積を超えるんじゃなかろうか。

 区画丸ごと買い取ればそりゃそうなるか。


 ――なんて、他愛もないことを考えていると、小野ヶ峰は冷蔵庫の前に立つ。


「今日はカレーにしよっか! せっかく来てくれてるしね」

「来いっていわれりゃいつでも馳せ参じますよ。見守り係ですし」


 言われて思い出すが、見守り係として俺は何もできていない。

 むしろ今日にいたっては俺が見守られていたまである。


 冷蔵庫から小野ヶ峰は玉ねぎ、にんじん、ジャガイモ、豚肉を取り出した。

 そしてそのままの流れで引き出しにあったレトルトのカレーを用意して――。


「ちょっと待て! カレールーは?」

「? カレーはレトルトのものを人数分準備して作るんだよ。お父さんは辛いのが好きだから辛口。わたしは……中辛かな。由宇くんは?」

「そういうもんなのか……? 普通はカレールーとかでまとめて鍋で作るんじゃ……」


 ただ、小野ヶ峰の家の方針が『カレーはレトルトのを食べる』のなら下手なこと言わないほうがいいか。

 レトルトのカレーのほうがおいしいし。


「えっ――そうなの? 確かに『ルー』を使って作るっていうのは知ってたけど……」

「いや、続けてくれ」

「いやいや! 知ってるかもしれないけど、うち……あんまり普通じゃないから。ご飯だっていつもは毎日お弁当が届くんだよ」


 確かにそれは普通じゃない。

 ただ、しっかり小野ヶ峰の家――お金持ちの家らしい暮らしだ。


「見守り係なんでしょ? だったら、わたしが普通じゃないところがあったら言ってよ、ね?」

「普通じゃないところって……」

「由宇くんから見たらたくさんあるんじゃないかな……? わたしにとっては普通でも、みんなからしたら普通じゃないところとか。本人は意外とそういうところ、気付けないからさ」


「普通になる必要なんてないんじゃないか?」

「そうかな? “普通ができること“は重要だと思うよ。少なくとも――わたしは、さ」


 小野ヶ峰はそう言って――。


「じゃ、カレールー、買いにいこっか」


 レトルトのカレーをしまって、買い物に行こうと誘ってきた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 夜、自発的に外に行くことは滅多にない。

 と言ってもまだ九時前だが。


 家族と一緒に過ごす手前、一人でに夜中出歩くなんてこともなければ、何か食べたいからと言ってコンビニに出歩くこともない。

 基本的には夜回り先生とはまったく別の世界に生きる優良児だ。


 九時ともなると、高校生の姿はめっきり減る。

 いるのかもしれないが――俺みたいな制服を着ている奴は少なくなる。

 そりゃ補導してくださいと言わんばかりの格好だ。

 誰がそんなリスクを取って外に出るのか。


 月明かりが煌々と輝き、暗い夜空の中で一人前に輝く。

 スウェットのままコートを羽織った小野ヶ峰に手を引かれるように、俺は外に出る。

 財布と鍵は小野ヶ峰が持ち、俺は手ぶらだ。


 家を出るときに巌さんとすれ違ったが「西村君もいるなら大丈夫だね、いっておいで」と簡単に認められた。


「お父さんったら厳しいんだよ! 日が沈んだら外に出ちゃいけない――って。海外ならまだしもこっちなら大丈夫だよ!」

「親御さん的には家に居てくれたほうが安心なんだろうな」

「気持ちはわかるから、わたしも外に出ないけどさ――」


 すぅ、と小野ヶ峰は夜の空気を吸う。

 俺も真似して吸ってみると、冷たい味がした。


「なんか、ドキドキするね。悪いことしてるみたいで」

「俺なんか制服だから小野ヶ峰の二倍ドキドキしてるよ」

「大丈夫だよ、悪いことしてるわけじゃないんだし」


 どっちなんだ、と突っ込もうとしたが、言っていることは同じだ。


「ってか、こんなところクラスの誰かに見られたら大変なんじゃないか?」

「由宇くんの中学校から今の高校に進学した人、どれくらいいた?」

「十人いないくらいかな……」

「じゃあ大丈夫だよ。三学年合わせて三十人くらい。たったそれだけの人と偶然居合わせるなんてこと、そんなにないよ」


 小野ヶ峰の言うことももっともだ。


「それに、由宇くんは怯えすぎだよ! そんなに、わたしと歩いているの――いや?」

「見守り係としては、心労が増えるかな……」


 正直じゃないなぁ、と小野ヶ峰が言う。

 正直な感想だよ。


「ほら、もう見えた。そんなに遠くないよ」


 近所の大型のスーパー、と言えば、駅前に併設されている二十四時間営業のスーパーだ。

 親にお使いを頼まれた時もだいたいここへ向かえばそろっている。

 そのままカレールーのコーナーに向かおうとしたが――。


「ねぇ……とってもいっぱい、あるよ……!?」


 隣にいる小野ヶ峰がスーパーに驚いていた。


「まさか、来たことないとか言わないよな……?」

「こっちに戻ってきてからは、初めてかも……。向こうでは何回かお父さんに連れていってもらったことはあるんだけど……。こっち戻ってきてからは、注文したら届くから」


 ネットスーパーと食品配達をフルに使っていた。

 なんだろう、小野ヶ峰からお嬢様という感じはしない。

 代わりに、小野ヶ峰の家全般に言えることだが、田舎のお金持ち感がある。

 思い出してみると、小野ヶ峰家にはウォーターサーバーに謎のボタン付きタグがあったっけ……。


「なんか……小野ヶ峰といると俺も新鮮だよ」

「いやいや、わたしの方がよっぽど新鮮だよ」

「そりゃそうだ」


 小野ヶ峰はうろうろしながらスーパーの中に進む。

 初めて家にやってくる猫とか、こんな感じなんだろうか。

 目を輝かせる彼女のことをしっかり見守ってから、問題のカレールーのエリアに到着して。


「いっぱいあるよ! カレーが!」

「ネットショッピングでもいっぱいあったろ」

「☆評価とかないの?」

「ここじゃ評価より値段がメインだからな」


 根本的な価値観の相違だ。

 確かに、ネットで買うものって真っ先に評価が見える。

 全く違う価値観の買い物は確かにさぞ楽しいだろう。


「じゃあこれ、どれ買ったらおいしいかもわかんないよ……?」

「いっぱい書いてあるだろ? シェフおすすめだの、11種の野菜を煮込んだだの」

「それはそうだけど……」

「情報を見て、比べて、以前そのメーカーの食品を食べたかを脳内で確認したりして――総合的に決める」

「……なるほど」


 ふむふむ、と小野ヶ峰は頷く。


「そして最後にフィーリング。ビビっと来たものを取れば問題ない」

「由宇くんならどれにする?」

「ん? 俺か――」


 振られて、俺は棚全体を見て。

 値段を見てビビっと来たスーパーのプライベートブランド(最安)を指さす。


「じゃあそれにしよっか」

「小野ヶ峰が選んだやつにしてくれ。俺が選んだのは一番安い奴だから……」


 それに、家に帰ると同じものが常備されている。

 プライベートブランドの商品は母親も父親も買いがちだ。

 生活の工夫がいつの間にか貧乏性として身に沁みついている自分が悲しい。


「うん、でもわたしはこれがいいかな」

「いつも食べてるんだけどなぁ……」

「だから、だよ。由宇くんがいつも食べてる味、わたしも食べてみたいんだ!」


 ぱぁっとした笑顔を向けられて、俺は何も言えなかった。

 ごちそうになる身だ。

 贅沢は言えない。

 言えない……が……!


 高いカレールーの味ってどんな味がするんだろうと。

 俺は後ろ袖を引かれたまま、口には出さなかった。


「これくださいっ!」


 レジのおばちゃんに向かって小野ヶ峰は差し出す。

 金色のキャッシュカードで110円の会計を済ませた。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 税込み108円とレジ袋で2円。合計110円。

 買ったカレーが入った袋を持ちながら、小野ヶ峰は家とは反対方向に歩き出す。


「そっちは家じゃないぞ」

「知ってる。でも……せっかく外に出たんだから、ちょっとくらい、ね」


 何が『ね』なのかはわからないが、俺は小野ヶ峰についていく。

 少し歩くと、大きな公園がある。

 パチンコ屋に対抗するためにつくられった住宅街の中にある小ぢんまりとした公園ではなく、遊具がちゃんと置かれた上で、ボール遊びができるように整えられた地面があるタイプの公園だ。

 ランニングコースまで作られており、全長千二百五十メートルもあるらしい。


 ――ってな感じで、普通に想像されるよりもかなり大きめな公園が近くにはある。

 鬱蒼とした雑木林の中、街灯だけがほのかに歩道を照らす。


 すれ違うのは、ランニングをしているおじさんか、犬の散歩をしている婦人だけ。

 この公園のメインの客層である小学生はとっくに家でお風呂に入っているだろう。


「……静かに、なっちゃったね」

「そうか? 向こうで犬の鳴き声が聞こえるが」

「ドッグランがあるんだっけ。むかし犬飼いたいって言って困らせたっけ」


 小野ヶ峰はこの公園のことを知っているみたいだ。

 この辺に昔住んでいたっていうから、当たり前か。


「ベタだけどさ、秘密基地作りたいって昔思ったんだよ」

「奇遇だな、俺も思ってたよ。憧れだよな……」


 秘密基地。その言葉に内包されているわくわく感はこの年になってもまだ冷めない。

 とってもロマンがある。


「だけど、子供ながらに大きな公園だったけど――全部、ちゃんと整備されてるんだよね。当たり前だけど、秘密基地にできそうな場所なんてなかったよ」

「どこまで行っても街中の公園だしな」

「そうなんだよねぇ……あの頃はあんなに広かったはずなのに、今こうやって歩くと一瞬で歩けちゃう」

「一キロちょっとあるけどな」


 高校生の体力があれば、確かに一瞬だけども。


「昔はここで一緒に遊んでたんだよ? 覚えてる?」

「悪いが、全く」

「由宇くんはここで凶暴な犬からわたしのことを守ってくれたの」

「ほんとかよ」

「嘘かもね」


 なんだよ、嘘か……。

 やるじゃん昔の俺、と思ったが、そんな記憶もない。


「昔の記憶がないってことは、嘘の記憶を入れ放題ってことでしょ? ならそういうことにしとこうよ! そっちの方が自己肯定感上がるよ?」

「それって最終的にウソでコーティングされた自己肯定感だけヤバい人ができない?」

「……ま、そういう自覚があればオッケー、かな……。本当にどうにもならなかったらちゃんとこちらの方で責任をもって処分させていただくので……」

「急に怖いこと言うなよ」


 夜の公園を一通り歩き――小野ヶ峰家に帰ると。


 おなかをすかせた巌さん出迎えてくれた。

 時刻は夜十時。

 夕食にしてはやや遅い。


 慌てて小野ヶ峰は食事を作り――そしてそのあとは言わずもがな。

 巌さんにとっ掴まり、小野ヶ峰の様子を報告することになった。


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クラスで1番の完璧美少女様。実はポンコツな女の子でした~完璧才女の見守り係~ 一木連理 @y_magaki

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