第7話 勉強を教える日(1)

 小野ヶ峰千桜に会うために、彼女の家に入るのは正面玄関から。

 そう決めていた。


 チャイムを押す。

 荘厳な鐘の音が鳴り、小野ヶ峰が出迎えてくれた。


「なんで玄関から来たの……? 裏口つながってるよね?」

「なんか、『来た』感がないかなって」


 ふぅん、と怪訝な表情をされながらも、どうにか侵入成功。


 学校から帰宅した俺たちは、いったん家に帰ってから小野ヶ峰の家に集合することになった。


「にしても、結構早かったね……準備する暇もなかったよ」

「鞄置いてくるだけだしな……。むしろよくこの短い時間で着替えられたな」


 その間、わずか三分と経っていない気がする。


 それでも小野ヶ峰は制服姿でなく、私服姿で現れた。


 普段の小野ヶ峰の格好を俺はほとんど見たことがない。

 当然だが、学校で会う以外に小野ヶ峰と遭遇しないからだ。

 以前小野ヶ峰の私腹を見かけたのは――引っ越しの挨拶に訪れた時だったか。


 その時はまだ暑く、比較的開放的な格好をしていた気がする。

 開放的、と言ってもフォーマルじみた格好で、適切なTPOをわきまえたものだ。

 具体的には、フリフリ系の黒いスカートに、真っ白なワイシャツだったか。


 そして今は――。


「いいでしょ、スウェット。動きやすくて……ってごめん! 完全に家モードになってたよね、わたしっ!」

「別にいいと思うけど……」

「今からでも制服に着替えなおしてくるね!」

「いい、いいから!」


 明らかに使い込んでることがわかる、ダボっとした茶色のスウェットを上下で着込んで現れた。


「家に帰ったから、いつもの癖で……」

「そういうもんだよな、分かるよ」


 俺だって一度家に帰るとすぐに制服を脱ぐ。

 堅苦しいうえに暑苦しい。皺になるからと放置したら怒られ、変な体制で座っても怒られる。

 着るものなのにも関わらず日常的な動作の中に禁忌行為が含まれてるバグのある服だ。


「片方が制服でもう片方が家着って、わたしだけリラックスしすぎだよね……そうだ! 西村君も着る? お父さんのがあるけど」

「遠慮しとく」


 純粋な善意で言ってくれてるんだろうけど、パパシャツには抵抗がある。

 ってか別に友達の家に勉強しに来ただけなんだが……なんだこのふわふわした雰囲気は。


「さ、上がって上がって。いっぱい部屋あるから」

「お茶があるとかじゃないんだ」

「あ、ジュースでいいかな? 今りんごジュースしかないけど」

 

 来客用のスリッパを俺は履く。

 ぱたぱたと音を立てながら、小野ヶ峰の後についていく。


 そして訪れる部屋は――前回同様、がらんどうとした何もない部屋だった。

 おそらくは来客用の部屋。

 ただし前回と違うのは、部屋に備え付けのベッドがあるわけではなく、ど真ん中に味気ないテーブルと椅子が備え付けられている部屋だった。


 これ見よがしに勉強道具が準備されているため、自習室みたいなもんかと思ったが、たぶんルーツをたどれば巌さんの商談部屋か何かなのだろう。


「ここなら落ち着いて勉強できると思う。二階だから車の音も気にならないし」


 すんと言い放つ小野ヶ峰に対して――俺は。

 ちょっとだけ、落胆していた。


 だってそりゃ、同級生の女子の家に勉強会としてお呼ばれ――なんてイベントの一つもあったら期待したくもなるだろう。

 小野ヶ峰がどういう生活をしているのか、小野ヶ峰が過ごしている部屋をちょっと眺めてみたり、へー意外と乙女趣味なんだねとか軽口たたいてみたり、小中学校のアルバムが本棚から見つかったり――みたいな。


 そんな王道イベントは、どうやらこの家じゃ起こらないらしい。


「そりゃたくさん部屋があるならそうなるよな……」

「この部屋はわたしがいつも勉強してる部屋なんだ。誘惑をなくすためにものは最小限、時計もデジタルなものを置いてるの」

 

 どうやら小野ヶ峰は秒針、ないしは歯車の動く音が気になる質らしい。

 そんな奴が他人と勉強なんてできるのか……?


 小野ヶ峰はジュースを持ってくると言って部屋から出て行ってしまった。

 取り残された俺は……最小限のもの(エアコンのリモコンなど)しかないこの部屋で楽し気なイベントを起こすことも出来ず――ただ持ってきた参考書を開くことしかできなかった。


 ちなみに、小野ヶ峰が持ってきたリンゴジュースはストレートの味がした。



「じゃあ、さっそく――英語からやってこうか」

「あの……小野ヶ峰先生? 前置きとか、雑談から入るとか……」

「それって、勉強終わってからでもできるよね?」


 戻ってきた小野ヶ峰は、的確な正論パンチで俺をやりこめる。


 小野ヶ峰千桜という女の子は、真面目で正しい。

 要領も良ければ、融通も利く。

 ただし――それは、あくまでこの三か月間、“外側からの視点”で俺が見た評価に過ぎない。


 その評価は――裏を返せば、自分には厳しいという評価にそのまま繋がる。

 そして、その評価は――小野ヶ峰家に招き入れられた、俺にも矛先が向けられ始めた。


「そこ、問2-③、④間違ってる。使い方が違う。なんとなくの感覚から判断して」

「問4-①『Peace of cake』で一つの熟語、これは覚える」

「onとかは正直ニュアンスで覚えて、乗っかってればon。でも違うときもあるからそこはケースバイケース」


 ――いやまぁ、語ることも何もなく、ただ教わるだけ、ではあるんだが。


「……いや、マジでわっかんねぇ――ッ!!」

「わからないならわかるまでやろう……って言いたいけど、こればっかりはね。英語、普通に話せるからどうやって教えればいいかわかんないや」


 そう、小野ヶ峰は英語を長らく話して覚えている。

 だからこそ、他人に教える際にニュアンスや感覚で伝えようとしてくる。


「母語ってどうやって教えればいいかわかんないんだよね……。どうやって話してるかもあんまりよくわかってなし、正しく言葉をつかえてるかもわかんないけど……でも、なんとなくこういう場合にはこれ、ってあるよね?」

「まぁ、ある」


 胡乱な言葉で小野ヶ峰は言い訳をするが、なんとなく言っていることは分かる。

 知っていることと教えられることはまた別物、という話だ。


「じゃあ――他の教科なら!」

「おうよ!」


 英語から逃げたいという気持ちで挑んだ数学A。


「この図だと交点EからE‘を求めることができて……で、角CAFの角度が62度だから、AFE’の角度が――」

「ちょっとストップ」

「どうしたの?」


 小野ヶ峰はすらすらと、まるで参考書の解説文章を読んでいるかのように読み上げる。

 ただ――よく考えてみてほしい。


「参考書の解説文を読んで理解できるような頭なら躓いてないんだわなぁ……」

「ご、ごめんね……もっと分かり易く説明するね」


 小野ヶ峰をおろおろさせてしまった。

 ただ、正直――その隣で絶望している俺には、彼女をカバーできるほどの残り体力はない。


「分かり易い話をしよう。交点EからE‘を求められることは分かる。授業でやってる。ってか、いろんなことを一応これでも真面目に聞いてはいるから分かりはするんだ、分かりはするんだが――」

「うんうん」

「どうしてその発想に至るのかが、まっじでわかんねぇ……!」

「うんうん……それはね」


 俺の嘆きに小野ヶ峰が言葉を紡ぐ。

 何か明確な解決法があるのかと期待する。


「類題に慣れることと、ひらめきだよ!」


 だが――返ってきたのは天才の答えだった。

 どこのどいつだ――小野ヶ峰を秀才だなんて言ったのは。

 才女と呼ばれるだけのことはある。


「ひらめけない場合は?」

「とにかく類題の数をこなすことかな。そしたら、応用問題までとはいかなくても、基礎問題なら解けるはず」


 ってな具合で――まぁ、俺は数学からも逃げ出して。


 古文、漢文、化学基礎とまで逃げに逃げ――。

 そんなこんなをしている間に、結局四時間ほどが経過し。


「なんか……真面目に勉強してるだけでこの時間になっちゃったね」

「意外と真面目に(当社比)勉強してたな」


 振り返ってみると、俺がぶうたれているだけだった気はするが……。

 っていうか、これ小野ヶ峰にプラスになる要素あったか?


「楽しかったね」

「いや楽しくはなかったけど……」

「わたしは、少なくとも楽しかったよ。友達と勉強するのなんて、初めてだし」

「小野ヶ峰は頭いいだろ? それならクラスの……吉田? とかに教えたりしないのか?」

「もー、それ意地悪で聞いてる? 私だって、自分が教えるのが下手なことくらい分かってるんだよ?」


 あ、自覚はあるのね……。

 最初のうちは冗談でやっているのかと思っていたけど、途中から徐々に気付いていた。

 小野ヶ峰は他人に教えることがとても下手だ。

 “どこがわからないか”がわからない、から、他人が躓いているポイントが理解できない。


「だから……正直、すぐに嫌がられちゃうと思ってた。結構我慢してくれてたでしょ?」

「まぁ……ってか、勉強自体が嫌だしな。でも、小野ヶ峰が教えてくれるって言うんだから、俺も頑張んなきゃって」

「精神的な面で支えになってるのなら、よかった。……けど、吉田さんたちにこれをやっちゃうと、嫌われちゃうからさ」


 ぼそりと、小野ヶ峰は言う。


「嫌われることはないんじゃないか?」

「『どうして出来ないの?』って――言われたら、誰だって嫌じゃない?」


 まるでハンドルを切るかのように、小野ヶ峰は会話をもって運ぼうとする。

 俺は、川の流れに逆らわない。


「言わないけどさ。でも、できない人に指摘するだけでそう感じられちゃうことも知ってるし、分かる。わたしはそう言われたくないから頑張って必死に勉強するけどね」

「小野ヶ峰が頑張ってるのは知ってるよ」

「ありがと。でも――それは由宇くんがわたしのことをよく見てるからだよ。」


 秒針が動く音すらもしない室内。

 ただ、俺たち二人の息遣いだけが部屋に響く。


「完璧才女、って言われてるように、わたしはそう思われてる。わたしがどう思ってるかは関係なく、相手からしてみたら『完璧才女が言ったこと』になっちゃう。『完璧才女』に馬鹿にされた――なんて思われたら、いやな気分になるでしょ?」

「……まぁ、な」

「だから、わたしは人に勉強を教えないのです」


 ――と、思いっきり冷え切った空気になったところで、小野ヶ峰は空気を温めるように語尾でふざける。

 

「あ、でも由宇くんは別だよ。だって、ちゃんとわたしのこと、見ててくれてるから。わたしにいくら指摘されても、『嫌味だな』なんて思わないでしょ?」

「確かにな……」


 むしろそこまで相手のことを考えられていることに、畏敬の念を禁じ得ない。

 俺がどのくらい小野ヶ峰を見ているか、まで推察して距離を測っている。

 その距離の測り方を――出会ってきた全員にしているのか?


「だから、こんなこと言うのは変なんだけど……きょう、勉強を教えさせてくれて、ありがとう。わたしはきっとそんなことする日はないなって思ってたから、とっても楽しかった」

「随分と屈折してるよな」

「そうかな? ……そうかも」


 ふふっ、と笑って小野ヶ峰は伸びをする。

 窓の外はさっきからずっと暗い。


「西村君が良ければなんだけどさ……たまに、またこうやってわたしに付き合ってくれる?」

「むしろ俺からお願いするよ。そうじゃなきゃ勉強しようなんて思わないし」

「こら」


 ははは、と笑いながら――俺たちの初めての勉強会は幕を閉じた。


 この苦痛ながらも幸せな時間は、今後しばらくの間続いていくことになる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る