第2話 どうして俺が見守り係に!?
「お隣さんが越してくるらしいぞ」
父親がぶっきらぼうにそう言った。
我が家の中ではお隣さんが引っ越してくるというのはいい報せではなかった。
家は二階建ての戸建てで、区画の角に位置している。
そんな家の隣の隣がつい半年前に引っ越した。そこからずっと、そこは空き家になった。気付けば裏の家も引っ越していた。
我が家があるこの区画ではここ数年引っ越す人ばかりで、転入してくる家庭がずっとなかった――上に、相次ぐ転出が行われていた。
どこかで地上げ屋が暗躍しているだとか、この区画にビルが経つだとか――そんな噂が我が家の中でもたびたび取り上げられていた、そんな最中だった。
まるっと我が家を除く区画すべてを買い取って、大豪邸を作ろうという計画を耳に挟んだ。
いやなんでだよ。そこまでするなら家にも声かけてくれよ。
母親はそう憤っていたし、俺もそう思った。
区画丸ごと一軒の家にするならまだしも、角だけ別の家があるなんて邪魔だろ。
だが――どうやら新しく新築の家に住む家族はそうは思っていなかったらしい。
そう。
その家庭こそが――小野ヶ峰家だ。
小野ヶ峰千桜と俺、西村由宇は同じ幼稚園に通っていた。
だからと言って幼馴染かと問われると、大人しく首を縦に振ることもできない。
なぜか――それは、彼女とそれ以降の接点がほとんどないからだ。
風のうわさで、というか母親コミュニケーションで小野ヶ峰家は海外へ一家丸ごと赴任したという話を聞いていた。
ちょうど、幼稚園を卒業し小学校へ上がるころだった。
突然の別れは、あまりにも突然すぎて――俺たちは別れの言葉すら告げることもなく。
ただ、“知っている人間が居なくなった”程度の感想しかなかった。
そんな人間をもちろん、高校まで覚えているかと言われたら――そんなこともなく。
帰国してきて、隣家としての挨拶に来た小野ヶ峰を見て俺が放った言葉は。
「あ――……、Nice to me too?」
「ええと……???」
高校一年生の八月、夏真っ盛り。
受験で培ってきたはずのなけなしの英語力はどこかへ飛んで行ってしまったのか。
ただ小野ヶ峰は困惑し、にこにこしながら受け流すだけだった。
そんな俺とは裏腹に――両親は小野ヶ峰の父親に懐柔されたようで「これからもよろしく」など堅い握手を結んでいた。
そして、九月。
ちょうどアイスでも買おうかなと思った矢先、家を出た瞬間に俺は小野ヶ峰の父親に掴まった。
車のことはよくわからないけど、高そうな車種の後部座席に乗っており、俺の前を通るなり気さくな挨拶を仕掛けられて――そのままなぜか俺は小野ヶ峰の家に招待されることになった。
どうして? と俺は思ったが――せっかくの厚意だ、無碍にはできない。
家にお邪魔すると、しんと静まりかえっていた。
女の子の家に来たはずなのに、その高揚感はまるでなく。
あるいは豪邸に訪れた、という感慨もなく。
ただ、不気味な屋敷に訪れてしまったという恐怖のほうが大きかったかもしれない。
区画にはもともと家が十軒連なっていた。上部区画に五件、下部区画に五件だ。
家は下部区画の一番右下に位置している。
家三軒分に当たる長い廊下を歩くと、そこは大きな書斎だった。
「突然呼びだして驚かせてしまったら済まないね。ちょっと君……由宇君に話があって」
「俺に……ですか?」
「そう、君にさ」
快活に笑う巌さんは名前のゴツさに対して柔和な人だった。
見た目は非常に若く、まだ三十代前半だと思えてしまいそうな風貌をしている。
「千桜は今までインターナショナルスクールに通わせていたんだけど、ほら、これからは日本の学校に通うことになるだろう?」
「まぁ……そうなるんじゃないですかね。あんまり俺……いや、僕は千桜さんのことを知らないんですけど」
「え? そうなのかい? 千桜からは君の話をよく聞くんだけどなぁ……」
ぽりぽりと頬を掻いて「ん~」と空を見つめる巌さん。
「まぁいいか。いや、日本の学校で千桜が上手くやっていけるか不安でさ」
「はぁ……」
「千桜を君と同じ高校に編入させることにしたんだ」
「なんでまた……」
正直、俺は小野ヶ峰のことをよく知らない。
「知り合いがいたほうが落ち着けるんじゃないかと思ってね」
巌さんはなぜか知らないが、俺と千桜が知り合いだと思っている。
確かに『知り合い』と言えるような関係値ではあるけど……。
これなら、まだクラスメイトとの関係値のほうが近いくらいだ。
とはいえ、親に負担をかけたくないという気持ちで千桜が吐いた嘘なのかもしれない。
まさか親が心配症発揮して隣人の子供に直接こんなことを聞くとは思わないだろう。
一つ恩を売っておくのも悪くはない。
同じ学校に通うことがほぼ確定した今、わざわざ拗れた関係になるのも良くはない。
「……確かに、そうかもしれませんね。ええ、千桜さんとは知り合いなので、ええ」
「ああ、それならよかった、うん!」
大人じみていない、無邪気な笑顔で巌さんは俺の手を握る。
「仕事上僕もこの家に居られることも少ないからさ。たまに戻ってきたときでいいから、千桜の様子とかも聞かせてくれると嬉しいな――そうだ、連絡先を交換しないかい?」
「いいですけど……」
「ああ、グイグイ行き過ぎて怖がらせちゃったかな。ごめんごめん、こういう性分なんだ。あ、でも別に怪しいってわけじゃないよ。なんなら君の両親とも連絡先は交換済みさ」
そっちのほうがよっぽど怖いが……。
と、思いはしたが突っ込むことはしなかった。
あくまで知り合いの親御さんだ。
「じゃあ、お礼ってわけじゃないけど――」
そういって取り出したのは――一枚の封筒。
ひょいと巌さんは俺に手渡した。
「千桜には内緒だよ?」
「これって……現金じゃっ――」
ひぃふぅみぃ……いつ。
五枚の万札がピンピンしながら入っていた。
「受け取れませんよこんなの!」
「気にすんなって学生! これからもよろしく代ってことでさ。受け取っときなよ……。それに、君が変なバイト始めて自由な時間を奪われるより、こういう知り合いの変な人からもらったお金で自由気ままに過ごすほうが親御さんも安心するだろ?」
「しませんって!」
「いや大丈夫だよ。君の親御さんにも話はちゃんと通してあるさ」
見せてもらったトーク画面には、うちの父親が了承のスタンプを返していた。
親父……。
「だから……もし、千桜がこっちの学生生活で困ってたら、手伝ってあげてほしいんだ」
俺は封筒をポケットに押し込まれ――有無を言わさず返された。
気付けば俺の家の裏に小野ヶ峰の家と直通の扉が出来ていた。
いつの間にこんな……。
「じゃあ、千桜をよろしくね」
巌さんが見送り際にそう言って――それからすぐに、小野ヶ峰千桜は転校してきた。
丹下高校一年C組――俺のクラスに。
だが、千桜のお父さん――巌さんが心配しているような展開にはならなかった。
千桜は俺もびっくりの大立ち回りで、気付けばクラスの中心人物になっていた。
完璧才女として名を轟かせ、俺が見守るまでもなく学校中のヒロインとなっていった。
同じ教室にいるにもかかわらず、かなり遠い存在になってしまったみたいだ。
そして、十一月。
時は昨日に巻き戻る。
「へぇ、先月はそんなことがねぇ! うんうん! 上手くやってるみたいで何よりだよ!」
月に一回、俺は巌さんにお呼ばれして裏口からこっそり小野ヶ峰家に入っていく。
話す内容は、千桜が学校でどんな活躍をしているかとか、どういう人間関係を送っているかとか、問題がなかったかとか――軽くスパイのようなことをしている。
そして俺は金銭的対価を得ている。
そういうことをしているうちに、少しずつ千桜に罪悪感を覚えるようになってきて。
「なんか……千桜さんに悪いですよ。こういうの」
「ああ……じゃあ、分かった。千桜も巻き込めばいいよ!」
「は?」
素の「は?」が出てしまった。
スパイじみた真似をさせているにもかかわらずその本人を呼びだす……?
そんなことしたら親子関係滅茶苦茶こじらせない?
大丈夫ですか巌さん……!?
なんて心配をする間もなく、千桜が部屋に現れた。
「えっ……どうして……由宇くんが」
由宇くん。
そんな呼ばれ方をした記憶はないが。
「ああいや、彼は僕が呼んだんだ。お隣さんだから別に何の不思議もないだろう?」
「え、ええ……。そうですね」
千桜は露骨におどおどした態度を取り始めた。
家に帰って部屋着に着替えた千桜はいつも学校で見ている格好と違って、とても新鮮で――気を抜いているように見える。
「ん? 普段君たち仲いいんだろ? だからさ、これから彼を千桜の『見守り係』として雇おうと思ってさ!」
「なんすかそれ……」
『見守り係』。
聞いたことのない単語が飛び出してきた。
「今までと同じでいいよ。や、今までよりも踏み込んでいい。学校にいる間、千桜を見ていてくれないか? もっというと放課後とかも見ていてくれると助かるな。もちろん、君の自由な時間は確保してくれていいからさ」
「お父様! そんなの由宇くんに迷惑ですよ!」
「いや、俺は別にいいけど……」
「本当かい!? 僕は最近、というかずっと多忙でさ……日本に帰ってきてからまともな家族サービスの一つも出来てないんだ。どこかに連れて行ったりとか、遊びに行ったりとかも出来てないんだよね。もしタイミングとかがあればせっかくなら外に連れ出したりとかも――」
「お父様っ!」
千桜が叫ぶように父親の暴走を止める。
「ああ、ごめんごめん。でもまぁ、それくらいしてもいいんじゃないかな? 二人の話をまとめると、クラスでも仲良く話しているみたいだし、千桜もわざわざ登下校にSPつけるのも嫌だろう?」
「それは……そうですけど!」
どうやら小野ヶ峰家は俺が想像している以上のお金持ち――というか、お嬢様らしい。
じゃあどうしてこんな辺鄙な場所の公立高校に通おうとしたんだ、という疑問が生まれなくはない。
「じゃ、これ――GPS付きの首輪。もしなんかあったらボタン押してね! そしたら警備隊が駆けつけるからさ!」
はい、と黒い首輪を渡される。
同時に一枚のぺら紙も。
『雇用契約書』と書かれた紙の中には――月給三十万円という表記が。
高校生、しかもアルバイトの一つもしてない学生にとって、ありがたいことこの上ない親切だ。
俺は躊躇わず頷いて首輪を受け取る。
「それを首に巻いたら、雇用契約完了ってことでいいかな? もちろん、君の親御さんには許可を取ってるよ」
「わかりました。あとは……千桜さ――千桜さえ問題なければ」
なし崩し的に進んでしまったが、一応雇用主、その対象の、隣家の女の子の意思も聞いておこうと思う。
俺は全く問題ない――というか、むしろそんな大金がもらえるチャンスを逃したくはないんだが……千桜がさっきからずっと止めようとしていた。
そんなに俺に見られるのが嫌、というのなら……泣く泣く辞退せざるを得ない。
「まぁ……由宇がいいなら」
「じゃ……遠慮なく」
かちゃっ、と首の後ろで首輪が閉まる音がした。
「これにて雇用関係は締結っ! じゃ――これからもよろしくね! 西村君!」
喜び勇んだ巌さんの声が響く中、千桜が俺にぐっと急接近してきて。
「ちょっと……話をしたいんだけど、いい――よね?」
有無を言わさず、俺を部屋から連れ出した。
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