第36話 ハクトの相談

「……そういうわけで、ユキメといい感じになりたいんだ」

「知るか。勝手にしろ」


 今日もむくれたミネルバに、僕は必死に話しかける。

 夏も真っ盛り。夏休みに入った学生が集まるために昼もそれなりに繁盛しているアニマル喫茶テルセウスの仕事は忙しく、けれど僕の頭を占めるのは全く別のことだった。

 ユキメとキスがしたい。

 強くそう思うようになったのは、彼女の初キスをエメリーに奪われたと知った日。性格にはユキメからキスをしたわけでエメリーが主体的に奪ったわけではないらしいけれど、そんなことは関係ない。

 ただ、僕はエメリーに嫉妬した。


 そしてその日は全く仕事に身が入らなくて、途中で黒猫姿で撫でられていたシトラスと仕事を交代してもらうことになった。いつもだったらユキメと一緒に人間の姿で仕事をしているだけで幸せだったのに。

 阿吽の呼吸を思わせる視線での会話でどちらが注文を取りに行くかを決める時。コーヒーを持っていこうと伸ばした指先同士が触れた時。

 そんな些細なことが僕をこの上なく幸福な気持ちにさせた。


 まあ、キスはキスなのだと思うけれど、女の子同士や親子でのキスはノーカウントでいいと思う。

 それを言い出してしまえば、僕だって毛づくろいをしてくれたお母さんの鼻先をなめてお礼を言ったことがある。あれも、キスと言ってしまえばキス。


 ああ、キスという単語が頭の中をぐるぐると回る。あの日、抱きつくユキメをひっぺがしてキスをしておけばよかったという後悔が首をもたげる。

 でも、あの抱擁だって幸せな時間だった。特別感のあるキスだけじゃなくて、ああいうスキンシップで幸せになれるのなら、それに越したことはないのだ。

 慣れてしまわないように、飽きられてしまわないように。倦怠期になんてもっていかせない。


 そのうえで、僕はユキメとキスをしたい。


「……まずはキスが愛情表現だってわかってもらうところからだと思うけどな」


 ミネルバが何かを言っていたけれど、頭には入ってこなかった。僕の狐イヤーは優秀だけれど、集中しているときにも周囲の声を正確に聞き取れるほど頭のできはよくないんだ。

 神なんだからそれくらいできて当然だって?そんなこと、八代師匠の顔を見て行って欲しい。神様がお酒で酔いつぶれて悪がらみしないで、って。


 八代のことは放っておこう。最近また忙しそうにしているけれど、たぶん八代は自分で何とかするだろう。だって八代はたくさんつながりを持っているんだし。朱雀のミラあたりと一緒になんだかんだうまくやるのだと思う。


 今は師匠のことはいい。どうすればユキメとうまくいくかを――


 ぐるぐるとユキメのことを考えながら仕事をして。

 チリン、という心地よい音色が僕を現実に引き戻す。


「いらっしゃいませ……」


 あ、と思わず声が漏れる。

 視線の先、ドアを開けて店に入ってきたのは、まだ五歳の女の子。彼女はうんしょ、うんしょと扉を開き、まだためらっているらしい自分の母の手を引っ張って店の中に入ってくる。

 まん丸の瞳は好奇心に輝き、店内を見回してすぐに僕の姿をとらえる。


「ひさしぶり、ハクト」

「久しぶり、スズ」


 ヒイラギスズハ。小さな女の子はこの店の常連であり、そして僕と深いつながりにある女の子。

 何を隠そう、彼女は僕の今生の母、その転生した魂を宿した子なのだから。僕たち元気いっぱいの子狐たちを立派に育て上げてくれて、けれど食糧不足の中で人里に降りて田畑をあらし、人に殺されてしまった。

 けれど彼女は今、どんな因果かその人として転生を果たして僕と再会を果たした。


 それから、スズに引っ張られて今日も恐々とお店に入ってくるのは、サツキ。スズのお母さんで、そして前世の僕のお母さん。

 まだ四十はじめくらいのはずの彼女は、今にも倒れしまいそうなほどの顔色をして、何かにおびえるように店内に見回す。

 スズが呼べば当然サツキの視線は僕の方を見て、その顔がひどくひきつる。

 苦悩と、混乱と、恐怖と、悲しみに満ちた顔。


 サツキに、僕の転生の話はしていない。というよりは、できていない。何しろいまだに、彼女は僕と話をしてくれないから。

 今の僕は、人化の術によってかつて人間だったころの自分をイメージして人の姿をしている。僕の成長に合わせて人の姿も成長して今では幼いころの面影が残っている程度。それでも、一目見て何らかの縁を思わせるくらいには、かつての僕と今の僕は似ている。

 何より、同じハクトという名前が決定的だった。

 死者が恨みをこじらせて姿を現している、あるいは、怨念を胸に生き返った。

 サツキがどんな風に思っているかはわからないけれど、少なくとも僕と彼女の間には深い溝がある。


 サツキが再婚して生まれた子どもがスズ。つまりスズは僕の妹であり、僕のお母さんでもあるというおかしな状況になっている。


「ご注文はお決まりですか?」

「オレンジジュース!」

「……コーヒーでお願いするわ」

「かしこまりました。オレンジジュースとコーヒーですね。ではごゆっくりどうぞ」


 少しもゆっくりでいていなさそうなサツキに向けて告げるけれど、彼女は僕から視線をそらしている。その先にいるのはエメリーで、流れ弾を受けた彼女は「何とかしなさいよ」と鋭い目で僕を見てくる。

 仕方ないでしょもう少しだけ待って――そう視線で告げて、マスターのところに向かう。


 にぎやかな店内。大蛇姿のエメリーにそろそろと触れて、その感触にびっくりする人や、どこか誇らしげに胸を張るミネルバに甲高い歓声が上がる。

 今日は黒猫姿のシトラスは、常連のお客さんの膝の上に丸まってすやすやと寝息を立てていた。ピンと背筋を伸ばしたどこか神経質そうなおばあさんは、その目じりだけをわずかに下げて、身じろぎ一つせずに固まっている。楽しんでいるのかもしれないけれど、その緊張具合が少し可哀そうにも思える。


「お昼は二人と一緒に食べてきて構いませんよ」


 あらかじめ今日二人が来ると告げていた上にいつもの注文だったため、何も言わずともマスターは僕が二人に同席することを許してくれた。


 ドリンクをもって二人のもとに向かい、スズの隣に腰を下ろす。

 少しサツキがびくりと肩を震わせたけれど、見なかったことにした。何しろ今の僕はスズに聞きたいことがあったから。


「ねぇ、スズ。少し聞きたいことがあるんだけれど」

「お母さんと呼んでくれていいのよ?」

「いや、明らかに僕の方が年上だからね?」


 確かにスズは僕のお母さんなのかもしれないし、話しているとお母さんと呼びたくなることもある。けれどそこはしっかり区切りをつけておくべきだと思っている。

 むぅ、と頬を膨らませるスズには悪いけれど、ここで引くつもりはない。


「お母さんだから大丈夫!」


 突然聞こえて来る声にもすでに慣れてしまった。基本的に人の目に映ることはなく、声も届かない渡り綿毛のフラフ。彼、もしくは彼女は、まるでスズのアクセサリのようにその胸ポケットにちょこんと収まっていて、いつものように声を出す。

 当然その声はスズとサツキ以外の人には聞こえていないのだけれど、フラフが話すといつもサツキは恐々と周囲を見回す。

 心労がたまっていそうで、少しだけ申し訳なく思った。だって、サツキを妖の社会に巻き込んでしまったのは、彼女の日常を、世界をゆがめてしまったのは、間違いなく僕が原因だから。


 まあ、その辺りはサツキ自身に慣れてもらうしかない。一応妖の中には、人から妖の記憶を消すという妖術を使えるものもいるらしいけれど、他の記憶まで消えてしまう可能性があるということで、なるべくサツキには施したくない。

 万が一の時には考えるけれど。


「それで、話というのは何かしら?」

「うん。実はユキメとのことで相談があるんだ」


 すでに僕とユキメが結婚していることを知っているスズは身を乗り出して話の続きをせがむ。サツキの顔色がさらに悪くなった気がしたけれど、そっと見て見ぬふりをして相談内容に入る。


「実は少し前、ユキメとキスができそうな雰囲気になったんだけどね」

「ふんふん。キスね。ちゃんと知っているわ。人間の求愛行動なのでしょう?」

「求愛というか、親愛というか、まあ愛情表現だね。それで、キスをしようと思ったんだけど、ユキメは僕に抱き着いてきたんだ」

「まぁ、愛されているのね?」


 どんどん腰が曲がっていって、とうとうサツキの顔が見えなくなった。プルプルと肩が震えているのが気になりつつも、相談は核心に迫る。


 抱き着いて上目遣いで見てくるユキメも可愛いけれど、今はキスをしたくてたまらない。でも、そんな雰囲気にもっていくことがなかなか難しい。意識して雰囲気を作ろうとすると途端にうまくいかなくなるし、失敗してユキメが抱き着いてくることも多い。


「それで、どうしたらユキメと今度こそキスできるようになるかな、って」

「なぁんだ、意外と簡単なことで悩んでいたのね」

「何?どうすればいいの?」


 どうやらスズにはすでに解決方法が見えているらしい。思わず身を乗り出す僕に、スズはにっこりと笑って告げる。


「ダンスをするのよ」

「……ダンス?」

「そう。求愛のダンス」


 虚空を思い浮かべながら、スズは昔に思いをはせる。それは、すでに完全な過去になってしまった狐時代のスズの思い出。そして、スズが伴侶に選んだ雄狐のことだった。


「あなたのお父さんは少しヒョロヒョロとした狐だったの。でも、ダンスだけはほかの誰よりもうまかったの。思わず目を奪われる、といえばいいのかしら。おいで、おいでって呼んでくれて、そうして一緒になって踊るの。それが楽しくて、わたしは彼を伴侶に選んだのよ」


 驚愕の事実。早くに亡くなってしまってあまり知らないお父さんが、そんな特技を持っていたなんて。そのダンスの力が遺伝していれば、僕もすぐにユキメの気を引くような踊りができるようになるのだろうか。

 踊りで気を引き、手を取り合い、見つめあい、キスを――


「なるほど、いける気がしてきたよ」

「本当?それじゃあダンスを覚えないとね」

「うん。必ずユキメといい雰囲気になってみせるよ。……でも、今のスズに教えられるの?」

「お母さんだから大丈夫!」


 スズの言葉を遮るようにフラフが叫び、「いい子ね」とスズがフラフをなでる。すっかり打ち解けたようで微笑ましい。最初は僕にくっついていたフラフだけれど、今ではスズと一緒にいる方が楽しそうに見える。

 僕が仕事であまり構ってあげられないというのと、スズを守るために僕はフラフに彼女と一緒にいるようにお願いした。

 今のフラフは特別な渡り綿毛となっている。それは僕の妖気を浴びて、僕の眷属になったからだそうで、ただの綿毛姿から自立行動可能な姿に変身することが可能だったりする。

 そんなわけでフラフはスズと、それからサツキの護衛として二人にくっついている。


「それじゃあ、来週の水曜日は大丈夫?」

「もちろん。保育園は休むわ……いいわよね」


 ずっとうつむいていたサツキはわずかに顔を上げて前髪の間から僕を見る。それからスズの方を見て小さくうなずく。

 やった、と手を合わせる僕たちの声を耳にしてしまって、サツキはさらに体を縮こませる。


 ちょいちょい、と手招きされて、僕はスズの口元に耳を近づける。


「ついでに、お母さんとの仲直りもしないとね」

「……ん」


 耳元にかかる息がくすぐったくて、身もだえしそうになりながらうなずく。

 よくできました、と胸を張るスズの胸元でポン、という音がして、手足である四つの芽と目口を出現させたフラフもまた「むん」と胸を張っていた。


 ああ、本当に仲がよさそうで、だから少し嫉妬してしまいそうだった。

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