第34話 恋バナ
ずぶぬれで帰り、人目に隠れて洗面所に向かった。
鏡に映って、自分がどれだけ悲惨な姿をしているかが突き付けられて、思わず遠い目をしてしまった。
髪のほうはカツラで隠れていたけれど、眉やまつ毛のほうはダメになっていた。緑のそれはきっとひどく目立っていたのだろう。
そう思うと、行きかう人が私と視線を合わせないようにしていたのも少しは理解できる気がした。
雨を吸い取ったカツラを脱げば、蒸れていた頭部があらわになって強い解放感を覚える。とりあえずタオルに手を伸ばそうとして、鏡越しに目が合って思わず悲鳴を上げかけた。
「ちょっと、シトラス。気配を消して背後を取らないでよ」
獣の本能なのか、時折気配を消して背後に現れるシトラスのいたずらは心臓に悪い。ややきつい声で注意をすれど、今日の彼女は口ばかりの謝罪を告げることはなく、じっと私を見ていた。
「失恋?」
「違――わないわ。ええ、そうよ。失恋したのよ。笑いなさいよ」
「なんで?」
右から左へ、こてんと首をかしげる子どもっぽい姿が、今日は妙に苛立つ。
「笑わない」
「そう。とりあえずどいてくれないかしら」
「……ん」
すっと横にどいてくれたシトラスだったけれど、その前を取りすぎて背中を向けてからも、体に視線が突き刺さっている感覚は消えてくれなかった。
それは着替えを済ませ、目元をある程度冷やしてからも変わらなかった。時折思い出したように女性部屋に顔をのぞかせたシトラスは、私がそこにいることを確認だけして仕事に戻っていく。
自分のことを子どもだとでも思っているのだろうかと、少し不快だった。
まさか、失恋程度で自殺でもすると思っているのだろうか。
なんて、つい先ほどまでそんなことを考えていたのだけれど。
彼のことを思い出してしまえば、少しは和らいでいた胸の痛みはすぐに強くなった。
全部が、ままごとだったのか。考えるほどに苦しみが体をしばり、涙がこぼれそうだった。
それでも、もうこれ以上彼のせいで泣くものかと、強く目に力を込めて耐えた。
夜が迫るほどに億劫さが強まっていく。喫茶テルセウスは決して大きな店ではない。建物内に設けられた居住スペースは狭く、だから男性と女性、そしてその他個人の部屋が一つ。一人部屋はマスターが使っていて、残りの部屋に男女別で詰め込まれている現状、夜になればシトラスたちが部屋に来る。
その時までに感情を抑えようと頑張るけれど、頑張るほどに痛みが胸を襲い続けた。
鈍い男連中は気づかなかったけれど、マスターはもちろん、ユキメも何かを察したようだった。
そんな彼女は、夜、ベッドの上に上ってからも何かを考えて眠れない様子だった。
静寂の中、降り続ける雨が窓をたたく音がやけに大きく部屋の中に響いていた。
黒猫姿になって小さなバスケットに収まっていたシトラスは、しばらくもぞもぞと動いていたかと思うと、やがてのっそりと起きだして床に座り込んで人化の術を発動する。
「……恋バナ」
「は?」
「恋の話をするの」
突然気が狂ったのか、シトラスは私の目をのぞき込みながら言葉を重ねる。気を遣っているのだろうか、その方向が見当違いにもほどがある。
一体何を言っているのよ早く寝なさい――言葉よりも早く、今度はユキメがすたっと床に降りてシトラスと並ぶ。
「早く話しましょう?」
こうなってしまってはもう二人はテコでも動かない。寝返りをうって背中を向けてせめてもの抵抗を示してみる。
結局、そんな二人の視線に耐えかねて、私はため息とともに体を起こす。
「で、何を話したいのよ」
「恋の話」
「それはわかったわよ。で、具体的に何を話すつもりなのか、って聞いてるの」
まさかただ突然思いついたように恋バナをしようと思ったわけではないだろう。私を気遣う意図があるのかもしれないけれど、具体的に何をしようというのか。
まさか私の傷口をえぐろうとしているわけではないだろう。
「ユキメ、話」
「私?ええと……最近ハクトが可愛いの」
一瞬にして女の顔に変わったユキメが、どこか蠱惑的に告げる。最初のころはこう、孤高の狼然としたところがあったけれど、最近ではそうしたところはあまり見かけない。
あまり、というのはハクトを尻に敷いているときには似たような姿を見せているから。
「あっそう。可愛くよかったわね」
「そうよね。可愛いのはいいよね。でも、ハクトは可愛いっていうのは嫌だっていうの」
「男は格好いいと言われたい生き物」
「そう。でもハクトは可愛いのよ?」
「わかってる。ハクトは可愛い系」
「あ、でも、ハクトを可愛いって言っていいのは私だけなの。だって、可愛い、って言われた時のハクトの顔は、本当に可愛いのだもの。あの顔は、誰にも見せたくないの」
一体私は何を聞かされているのか。
夢見る乙女のように頬を朱に染めたユキメは、ただいかにハクトが可愛いかと繰り返す。
シトラスもハクトが可愛いということには同意らしいけれど、私はそうは思えない。あの狐は可愛いというよりはまだ子どもなのだ。わんぱくさが抜けないだけ。
次第にユキメの話は最近ハクトとシトラスが怪しいという内容に変わっていく。なんでもハクトとシトラスが心を通わせているように見えるところがあるとか。
このお子様が一人前にやきもちを覚えたかと思えば少し感慨深いものがある。
「大丈夫。ハクトには興味ない」
「あんなに可愛いのに?」
「ハクトが好きだから可愛く見えるだけ。第一、ハクトは幼すぎる」
「へぇ?シトラスって年上好きなの?」
珍しい話題に思わず首を突っ込めば、彼女はフルフルと何度も首を横に振って、どこか困ったように眉尻を下げる。
「どちらかといえば年上のほうが好きだけれど、少ない」
「少ない?接点がないとか?まあバイトじゃあねぇ」
「違う。私より年上が、ほとんどいない」
そういえば、シトラスって何歳なのかしら。猫又で、少なくともこの喫茶テルセウスの最古参だってことは聞いているけれど、いつからここで働いているのかも知らない。
「シトラスって、いくつのなの?」
「さぁ?」
人間社会の空気を知らないユキメがずかずかと聞くけれど、シトラスが気を悪くした様子はない。
一つ、二つと指折り数えて、六つ目で止まる。六歳、ではないだろう。
「六回生きたから……ざっと百年以上?」
「六回?」
「そう。この生は六度目」
むふん、と胸を張る様子はとてもではないけれど百年生きているようには見えない。ただ、その言葉が嘘だとも言い難い。
猫の命は九つ。古くからそんな言い伝えがあるけれど、まさか本当だとは思わなかった。
「二度目の生から猫又になるの?」
「ううん。猫は生まれ変わっても猫。ただし、たまに変なことが起きて、猫又になる……生き返る?」
要領を得ないシトラスに二人で質問を重ねた結果、彼女は正確には七度目の生を送っていることが判明した。
六回猫として生きて、現在は六回目の生の続き、猫又として生き返ったのだという。妖になって少なくとも三十年くらいだろうと、そう告げる彼女はやっぱりそのような年齢には見えない。
小さな黒猫。ほっそりとした手足が美しい彼女は、けれど過去の人生の記憶すべてを有した長く生きた猫。
そう思えば、恋愛対象が高齢に偏るのは当然な気がした。
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