第33話 エメリーの失恋

 雨が、降っていた。

 夏の雨はぬるく、凍えることはない。ただ、今は、そのぬるさが嫌だった。

 進む道には希望があると、未来があると、そう思っていた。けれどその道はどん詰まり。袋小路に陥って、そこへ導いてきた人は、私のことなど好きではないと、そう告げて消えた。


 あの、冷たい雨が懐かしかった。

 森を潤す、恵みの雨。

 同じ恵みであるにも関わらず、大地にしみこむこともかなわずにアスファルトに散る雨水とは違った、生まれ故郷の冷たい雨。

 あの雨に打たれていたかった。

 あの雨に打たれながら、死にたかった。


 苦しみがあった。地獄があった。

 長く生きてよかったことなど、何もなかった。

 あるのは多くの人間を看取った記憶。病死があり、衰弱死があり、戦死があった。

 殺された絶叫が、痛みに苦しむうめき声が、耳の奥に残っている。

 あの日、私を倒した彼の言葉も、この胸の中にある――その声は、もはや裏切りへと続く憎い言葉に転化しつつあった。


 憎い。恨めしい。辛い。悲しい。

 とめどなくこみ上げる涙が、雨とまじりあって頬を濡らす。

 濡れているのか、水に覆われているのか。たたきつけるように降り続ける雨は、絶えず私の頬を濡らし続ける。


 一人、雨の街を歩いた。傘を差す人々の中を、孤独に歩いていく。

 本当は今頃、二人でショッピングに出かけている予定だった。秋物の衣服を見て回って、衣服に無頓着な彼を着せ替え、自分好みの服を着てもらって癒される予定だった。

 はかなく消えた幸福を思うと、心がひどく傷んだ。


 化粧が剥げようが、服が透けようが、張り付いた衣服で体形がはっきりしようが、どうでもよかった。人の視線も、気にはならなかった。


 誰も、私に声をかけない。人によっては、傘を下げて視界を多い、関わるまいと心なしか足早に私の横を通り過ぎる。

 馬鹿げている。どうして私は、こんなところにいるのだろう。人の社会に紛れて、埋没して、生きているのだろう。

 こんな、冷たい血の通っている人の中で、どうして生きられると思ったのだろう。


 決まっている。それは、彼がいたからだ。彼が隣に居続けてくれたから、私は今日まで生きてこられた。


 あぁ、もう、どうでもいい。

 死んでしまおうか。

 それとも、避けるように通り過ぎていく人を、ここで殺してしまおうか。

 そうすれば彼は飛んで帰ってきて、私をまっすぐ見てくれるんじゃないだろうか。

 馬鹿なことをしたな、なんて言いながら、それでも私を目に映してくれるんじゃないだろうか。


 もしそうなら、私は――


「大丈夫ですか?」


 ふっと、雨の音が消えた。いや、雨の音が、遠ざかり、けれど大きくなった。

 視線を上げれば、曇天を覆うように傘が差されていた。夜になってしまったように、視線を闇が閉ざしていた。

 首を巡らせれば、自分が濡れるのをいとわずに傘を私の上に向ける男の姿があった。

 彼を、ヤタを思わせる長身痩躯の男。どこか病的な肌の白さとか、眼の下に浮かべたクマまでがそっくりだった。


 幻だと、そう思った。

 彼を求めるあまり、私の心が作り出してしまった幻想。今もまだ私を思い、私のために行動してくれる理想の彼氏。非現実。


「……」


 無言で歩き出すけれど、雨が頭頂部を打つことはない。私が歩くのと一緒に、傘も動く。

 反響したやや低い雨音が耳朶を震わせる。雨が来ないから、涙ばかりが頬を濡らす。


 もう一度、視線を横に向ける。

 そこにやっぱり、男がいた。彼によく似た男が、けれど彼は決して浮かべないだろう自信なさげな顔で私を見ていた。


「……何なのよ」


 何をしているのか。何をされているのか。

 脳は思考を放棄して、ただ、口は衝動のままに動いていた。


「あなたに、傘をさしています」


 そんなことは見ればわかる。馬鹿なのか、この人は。

 ああ、馬鹿なのか、可愛そうに。

 憐れむことで、少しだけ気分が戻った。人を憐れんで気持ちを持ち直すなんてずいぶんと嫌な存在になり下がったと思うけれど、どうでもいい。人にどう感じようが、どうでもいい。興味がない。知ったことか。

 知ったことかと、思うのに。

 彼はいつまでも、いつまでも、私と並んで歩き続ける。


 とぼとぼとした足取りはやがて早歩きに代わり、気づけば私は走り出していた。

 彼もまた、私の隣を走る。傘を私のほうへ差し出していて走りにくいだろうに、引き離すことはできなかった。

 ぎょっとした目で私たちを見た通行人が道を開ける。

 そんな道を、私たちは二人並んで走り続けた。


 人並みも信号も私を止めることはかなわなかった。

 私たちは走り、走り、そして、小さな公園の前で力尽きて倒れこんだ。


 これほどまでに走ったのはいつぶりだろうか。

 脳に酸素を必死に送り込みながら、ぼんやりと考えて気づく。そういえば、全力で走ったことなんてないかもしれない。だって、彼はおしとやかな女性が好きみたいだったから。だから、私は走っていない。

 あの日、彼と出会ったその時から、私は彼と足並みをそろえて歩いてきたのだから。


 地面につけた背中は土交じりの水を吸い上げて、きっと汚くなってしまっているだろう。けれど、かまうものか。彼と並び、彼に染まり、彼を染めようとしていた私なんていらない。そんな私は、土色に染めて、壊してしまえ。

 そう。もう、すべてがどうでもいいんだから。


「……足が速い、ですね」


 私の隣、疲労困憊で座り込んでいた男が言う。スーツ姿の彼は、私と同じかそれ以上にぐっしょりと濡れていた。差していた黒い傘は、近くに転がって雨に打たれていた。

 その布の表面をしずくが伝って流れ落ちるのを、私はぼんやりと眺めていた。


「……ねぇ」

「どうかしましたか?」

「結局、あんたはどうして私を追いかけて走っていたのよ」


 虚を突かれたような顔をした彼は、あごに手を当てて真剣に考え始める。一体何をそんなにも考えることがあるのか。


「……目が離せなかったんです。あなたの泣いている顔から、目が離せませんでした」

「泣いてないわよ」

「そんなに泣き腫らした顔をしているんですから、一目でわかりますよ」


 化粧が剥げた素顔以上に残念な顔。きっと、化粧が中途半端にはがれて醜い姿をさらしていたのだろう。ひょっとしたら今もそんな顔になっているかもしれないとは思ったけれど、この見ず知らずの男に何を思われても知ったことではなかった。

 よく見られたいけれど、すべての男によく見られたいわけではない。私は、自分が望む相手にだけ美しい姿を見てほしい。


 だから、こんな男の視線なんて、どうでもいい――その、はずなのに。


 気づけば私は起き上がり、膝に体をうずめるようにしていた。

 降り続ける雨が背中に打ち付ける。彼は黙ったまま。あるいは、何かをささやくように言ったのかもしれないけれど、その声は雨音にさえぎられて私には届かなかった。


「……送りますよ。このままでは風を引いてしまいますし」

「別に、いいわよ。ここから近いし」

「でも、送ります」

「何がしたいのよ。言っておくけれど、向かうのは職場よ」

「家を知ろうとしているわけじゃありませんよ」


 誤解するなと端的に言うのはなんだかためらわれて、けれどあいまいな言葉でも彼はちゃんと真意をくみ取る。

 そして、そのうえで頑固に私を送っていくのだと繰り返す。

 そのうち問答が面倒臭くなって、私は言われるまま彼が再び手に取った傘の下に入ることにした。

 打ち付ける雨音をぼんやりと聞きながら、慣れた道を歩く。

 最初のことは町を歩くだけで新鮮で、故郷とは違う人種の人を見るたびに怒りが胸にこみ上げた。

 初心は、すでにはるか遠く。記憶の中でゆがんだその記憶には、ただ憎悪しか残っていない。

 楽しい思い出も、幸福な日々もあったはずなのに。そういった感情はすべて、激情の燃料としてくべられてしまったかのように姿を消していた。


 悲しみが、再び足もとに這いよる。彼に振られた悲しみ。

 けれど、今の私は一人ではなかった。少なくとも、孤独ではなかった。

 名前も知らぬ相手と二人歩く町は、ほんの少しだけ新鮮に思えた。


「何があったのか、聞いてもいいですか?」

「男に振られただけよ。私、重い女なの」


 冗談めかして告げるけれど、大した反応は帰ってこなかった。

 ただ、すみませんという声が聞こえるだけ。


「謝罪も同情も求めていないわよ。あんたにそんなことをされても、少しもうれしくないわ」

「そうですか。……僕は、正直に言えば逃げたかったんです」


 突然独白を始めた男は、私が聞いていようがいまいがお構いなしに話し続ける。まるで勝手に降り続ける雨のように、話とは止まらない。

 世間一般に言うブラック企業に勤めていること。月の平均残業時間が六十時間を切ったことがないこと。人格否定の言葉が飛び、心を壊した同僚が一人、また一人と姿を消すこと。


「でも、辞められないんですよ。辞めますって、その一言が喉元に引っかかって出てこないんです」

「ふぅん」

「……別に何か励ましを期待していたわけではありませんけれど、たんぱくですね」

「他人事だもの」


 勝手に話し始めたのはそっちなのに、変な期待をしないでほしい。ただまあ、場をつなぐには十分な話だった。


「ここでいいわ」

「もうすぐそこですか?」

「ええ。……傘、助かったわ」


 特に役に立ってはいませんと、彼は苦笑を浮かべる。

 まあ、すでに私はずぶぬれだったのだから無駄であったのは確かだ。

 ただそれでも、その傘に意味はあった。

 空が降ってきて世界を押しつぶすんじゃないかなんて願望は、杞憂は、空を閉ざした黒い傘によって消え失せたのだから。


 一人、雨の中に出る。

 肩を打つ雨は少し冷たく思えた。

 テルセウスの裏口に回るその一瞬、横目にとらえた彼はまだそこでじっと立っていた。


 一人孤独に、雨に濡れた灰色の街に立ち尽くす彼は、大きくなっただけの迷子の子どもに見えた。

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