第32話 エメリーの回顧
夏の日差しは言葉を失うほどに熱くて、すぐに汗で肌がべたつく。
落ちないように気をつかってはいるけれど、彼と会う前にもう一度化粧室で顔を確認しておきたい。
道行く人の隙間を縫って進みながら、ずいぶん人間社会に染まったものだと改めて感心してしまう。
少なくとも、かつての私からは考えもしないことだった。
私が生まれ育ったのは欧州の寒村近く、人が滅多に立ち入ることのない森だった。ただの蛇として生まれ落ちた私は、蛇として死んでいく、そのはずで。
けれど、ある日から森に人が何度も足を運ぶようになった。
移動民族だったその集団は、森の外延部に拠点を構えて居座る構えをしていた。長く放浪の旅を続けて来た国無き者たちの存在に、私は特に何を思うでもなく生きて来た。
もとよりただ一匹の蛇。人に遠く及ばない知能と、ただ獲物を食らって生き延びるための些細な本能と知恵を有しただけの存在だったのだから。
転機は、大人たちの言いつけを破って森に忍び込んだ少女が狼に狙われたこと。
何とか逃げる彼女は、けれど狼と距離を取ることができるはずもなく、絶望的状況にあった。
幸いだったのは、その狼がまだ大人になったばかりの、文字通りの一匹狼だったこと。
集団での狩りと得意とする狼の孤高の旅は並大抵のことではなく、その狼はやせ衰え、彼女が少しだけ生きながらえることにつながった。
けれど、幸運はその程度。逃げ惑う少女は茂みで皮膚を切りながら森を当てもなく走り、そうしてとうとう狼に追いついた。
奇しくも、私が登っていた、それほど太くない木の下で。
少女は狼の爪に倒れ、飢えた獣は息の根を止めるべく牙を剥き出しにして飛び掛かる。
その時、倒れた少女が幹にぶつかって枝が揺れ、ぼんやりと観戦していた私は空中へと投げ出された。
果たして、私は少女に飛び掛かる狼の上に襲い掛かる構図になり、鼻先に予想外の奇襲を受けた狼は情けない声を上げることになった。
それが、狼の命運を決めた。
少女の行方不明に気づいた大人たちは懸命な捜索の果てに何とか間に合い、狼を殺した。
そうして、男は慣れない声で私に向かって話し掛けた。
『エメリー?』
と。
今ならわかるのだけれど、当時彼が呼んだのは私ではなく、私の後ろにいた少女だった。けれど馬鹿な私はなぜか自分が呼ばれていると錯覚して首をもたげ、それから彼が握る血濡れた刃が恐ろしくなってそそくさと茂みへと逃げ出した。
果たして、凶爪に倒れた少女エメリーは死に、私はいつものように木々の枝から枝へと移動して獲物を狙う日々を送っていて。
そんな折、森の中を進む一段の姿を見つけた。
美しい服を身に着けた一人の老婆を先頭に、彼らは沈んだ表情で森を歩いていた。
何をしているのか、向かう先に、私は何となく進んで。
そうして、私は少女の葬儀に立ち会った。
自然の恵みを糧としてきた自分たちは死んで地に帰る。そのような信仰の元に、あの日狼に襲われた傷がたたった少女は森に埋められて、人々は口々にエメリーと呼んだ。
エメリー。
呼ばれていると思って、私はのこのこと茂みから姿を出した。
今思えば狼殺しの連中の前に姿を見せるなんてずいぶんと怖い者知らずだし、野生の本能はどこへ行ったのだと疑わずにはいられなかった。
ただ私は、彼らの前、盛り上がった墓土の上に登り、首をもたげて人々を見回した。
緑の小さな蛇。その蛇を、一人の男が震える声で「エメリー」と呼んだ。
その男は、倒れた少女の元に真っ先に駆け付けて、狼を槍で突き殺した男だった。
エメリー、と彼が呼び、私は首を上下させながら彼の方を見る。
男は、泣いていた。
エメリーが宿ったのだと、そう告げていたことを後から知った。
果たして、私は少女エメリーの魂が乗り移った蛇として、人々に「知恵ある蛇エメリー」と呼ばれることになった。
いつしかそれは信仰となり、流浪の民は長い信仰の中でその土地に完全に根を張ることになった。
ただの一匹の蛇は、その頃には大蛇と呼ぶべきサイズに成長し、正式にエメリーという名前を得ていた。
いわゆる民族宗教の土地神・森の賢者。そうして、私はその土地に君臨していた。
数奇な運命は、一度では終わらなかった。
二度目、あるいはそれは流浪の民として生きていた彼らにとっては必然かもしれない悲劇が襲った。悪意が、牙を剝いた。
国に守られることのない民は、始まった戦争に巻き込まれてあっさりと瓦解した。逃げ惑い、果たしてどれだけが助かったのかもわからなくて。
私はただ、私をエメリーと呼んで慕ってくれた人々の死を、呆然と眺めていた。
人の死は理解していた。自分よりも儚いそれらは、けれど平穏な生活を送っていたはずで、それこそ弱肉強食の自然界を克服したと言える種族だったはずで。
そんな種族のどん詰まりが同族での争いなのかと、私は狂気に吠えた。
その日、私は神から転落した。
不幸中の幸いと呼ぶべきか、あるいはそれもまた悲劇の一端だったのか、私は堕ちた神・禍津神となるには力が足りなかった。小さな一民族に愛されて少しずつ力をつけていただけの私はまだ半人前の神で、一匹の妖に過ぎなかった。
だから、力が足りなかった。復讐するには、圧倒的に力不足だった。
人々を心の中で呪いながらも、完全に狂って殺戮に走ることもできなかった。
ひょっとしたらそれは、私を「森の賢者」と呼んで慕ってくれた彼らの祝福だったのかもしれないと、今なら思う。
私は、彼らによって知恵を授けられた。だから、人の強さを知っていた。数という力を知っていた。
ゆえに、私は怒りのままに人を数人殺して、大義を果たせずに殺される道を歩むことはできなかった。
旅を、始めた。
一匹の大蛇は生まれ育った森を出て、欧州の地を彷徨い、長い時の中で人の社会に紛れるための力を得た。
そうして、私は妖と呼ばれる存在に出会うことになる。
己と同じ、この世界に生まれ落ちた不思議な存在。通常の輪廻から外れてしまった命を有する者。
そんな妖たちの中でも、妖たちの指導者的存在の一人であった彼は、私に三つの選択肢を提示した。
一つ目は、復讐を諦めて、人間社会に生きていく道。
二つ目は、復讐を諦めず、ここで殺される道。
三つ目は、人間社会に紛れて生き続け、人を知る道。
馬鹿げていると思った。特に、三つ目。
今更人を知って何になると私は吠えた。
あの戦争を知らないお前が、何をふざけたことを語っていると。
私よりも若かった彼は、ただ静かに頷き、けれど、と言った。
戦争もまた、人との一部なのだと。全ての人間には遥か昔、大自然で生き抜くために魂に刻まれた生存戦略があって、それが今も時折顔を覗かせて悪さをするのだと。
そんなものに振り回されて殺された大切な民を嘆いた。
そんなもののために復讐の道を歩んだ私自身を嘆いた。
私は、四つ目の選択肢、目の前に立ちはだかる妖を殺す道を選んで。
あっさりと返り討ちにあった。
復讐だ何だと言いながら戦いを知らず、情報収集に生きて来た私が、彼に勝てるはずがなかった。何より、長い時間が私から神の力を喪失させていて、神の末席に座る彼とは力の性大きすぎた。
倒れ、けれど、そんな私を彼は殺さなかった。
『復讐は、もう無意味だ』
大地に仰向けに寝そべり、薄く広がる雲間に顔をのぞかせた太陽をぼんやり見上げながら言葉を聞いた。
『すでに、君の復讐相手はほとんどみんな死んでいるよ』
それが、復讐の終わりだった。ひどくあっけない。
ただ、人の儚さを忘れていた。それが、私の計画の破綻の理由だった。
沁みる青空から逃げるように目元を腕で覆って、私は泣いた。もう顔も思い出せないあの一族の民を思って、泣き続けた。
そんな私を、彼はじっと聞いていた。
神々の使いをしていた彼は、私の監視役あるいは後見となって、私は妖社会で生きることになった。
かつては神であった、今ではちっぽけな一匹の妖となった、森の賢者という言葉等鼻で笑わずにはいられない無知で無能な蛇。
彼は私を人間社会の中の、一つの喫茶店で働かせた。
アニマル喫茶テルセウス。そこに務めてからも定期的に彼に会い、蟠りは消え、いつしか思いは恋に代わっていた。
そんな生の全てを思い出したのは、きっと、彼の言葉の衝撃に、走馬灯のように過去がよぎったから。
「……何て、言ったの?」
カフェのテラス席。
待ち合わせに過ぎなかったそこで、彼は淡々と、まるで人形のように同じ言葉を繰り返す。
「別れよう、と言ったんだよ」
「な、んで」
自分でもわかるくらいに震えた声で、何とかそう理由を聞き返した。
頭の中でぐるぐると彼の言葉が巡り、幸福だった時間が流れ続ける。それらは全て過去になろうとしていた。
黒目黒髪。この国の人間社会に埋没している長身痩躯のどこか神経質そうな彼は、コーヒーで口を湿らせる。それはまるで、悪魔がヘドロを、人間の悪感情を凝縮した液体を啜っているようにも見えた。
色白な肌の中、やけに赤い唇だけが目についた。
その赤から、吐息がこぼれる。落胆とも疲弊ともつかないため息。
「もう、君は独り立ちできるだろう?」
「え?」
「君は、もう十分に妖として生きていけることを証明した」
口をはさむのは許さないとばかりに、彼は事務的に言葉を重ねる。
その声に、感情が見えなかった。想いが見えなかった。
恥ずかしそうに笑う彼が、渋い顔をしながらかも仕方がないと着いて来てくれた彼も、ブラック業務に精神をすり減らしながらも私のためにデートに来てくれた彼も、いなかった。
そこにいるのは一人の神。
日本国の、今では大神の一柱となった神・八咫烏。あるいは三足鳥。
「これは、恋じゃなかった。ただ、君が社会に慣れるための試用期間だった」
それは、これまで交わした想いの全てを、時間の全てを、育んで来た愛を、職務だと切り捨てる言葉。
すべては虚構だった。作り物。紛い物。
淡々とそう言ってのける彼は、けれど確かに、私が愛したヤタのはずだった。
どこか死を羽織っているような陰険さを纏い、彼は私に何も言うことなく歩き去る。
気づけば周囲は薄暗くなっていて、気温も下がっていた。
彼の声だけが、何度も、何度も頭の中で回り続ける。
好きだよ、と言った。僕もだよ、と彼は答えた。
忙しくてあまり時間が取れないかもしれないけれどと、そう言いながらもデートには一度も欠かさずに来てくれていた。
それが、全て、職務だったから?
不穏因子であった私が妖として生きていけるか、確かめるための仕事に過ぎなかった?
どう、受け止めればいいの?上司からの命令だったって、嘘の恋だったって、そう理解するしかないの?
これまで交わした想いは嘘ではない――そんなことは、さっきの彼を見てしまっては口が裂けても言えなかった。
嫌よ。私は、あなたのことが好きなのよ。
たとえ嘘だったとしてもいいの。私はただ、あなたに一緒に居てほしい。隣に、いてほしい。
それさえもかなわないの?それすらも、できないの?
見上げる空には、かつてのように太陽が顔を覗かせていはしなかった。そこには当然、逆光の中で私を見下ろす彼の顔もない。
今にも落ちてきそうな灰色の天蓋がにじむ。
ぽつり。鼻先に雫が落ち、瞬く間に空が泣き始める。
頬を伝っているのが涙か雨か、私にはわからなかった。
――もし、私が再び復讐に動きだしたとしたら。
今度こそあなたは私を殺しに、再び私の前に姿を現してくれる?
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