第31話 ヤキモチ

 顔を洗い、見上げた鏡の向こうに見えた顔にぎょっと目を見開く。

 そこにはどこか虚ろな目をして笑っているユキメの姿があった。ゆうらりゆらりと、体が左右に揺れる。振り子のような、どこか見ていると眠くなる感じ。


「ユ、ユキメ、どうしたの?」


 尋ねる声はひどく裏返っていて、僕の動揺を表していた。これではなんだか詰問される犯人みたいだ――僕の思いを示すように、ユキメは背筋に寒気が走るようないい笑みを浮かべ、僕のほうに半歩近づく。

 自然と体は背後に向かおうとするけれど、そこには洗面台があって背中がぶつかる。

 それ以上は下がれない。

 ユキメがまた一歩、ゆうらりと近づく。


「……ねぇ」

「は、はい!何かな、ユキメ」


 ユキメの声を聴くのは好きだし、話をしているだけで幸せな気持ちになれる。彼女の笑みを見れば一日を頑張る元気が湧いてくる、そのはずなのに。

 今はただただ寒気を感じるばかりだった。

 一体僕は何をしでかしたのか。心当たりは思いつかなくて、恐る恐るユキメに問う。


「ね、ねぇ……何かしちゃった、かな?」

「ふぅん」


 これほどに怖い「ふぅん」は聞いたことがない。たった三文字。あるいはほとんど二文字。それだけで彼女の怒りが明確に表現されていた。

 考えろ。考えるんだ、僕。僕が何かをしたのは間違いない。じゃあ何をしたのかって言われると困るけれど、とにかく、何かをしたんだ。


 だったら、謝る?何をしたかもわからないのに?

 それは、違う。というか、怖い。だって、きっと謝った僕にユキメはこう尋ねてくるだろう。

 何に対して謝っているの?って。

 それは袋小路の質問だ。

 だから逃げるな、ごまかすな――


 ユキメのふわりとした唇が小さく揺れる。水気を帯びた柔らかなピンク色の間から、白い歯が見えて、そして。

 ごくりと喉を鳴らしながら、僕は一音たりとも聞き逃すまいと耳を澄まして。


「……ずいぶん、エメリーと仲良く話したわよね」

「…………?」


 首が九十度は傾いたんじゃないかって程にひねりながら、ユキメの言葉を咀嚼する。

 ええと、エメリーとの話のこと、だよね。それで、エメリーと仲良く話していて、ユキメが、怒ってる?


「え……可愛い」

「……………え?」


 きょとんとしたユキメと目が合う。ぱちぱちと、瞬くその動き一つが愛おしい。本気で分かっていないみたいで、しばらくしてユキメはキッと鋭い目をして僕をにらむ。

 けれどもう僕は背筋に冷や汗が伝うこともなく、ただ頬をゆるむのが抑えきれなかった。


「だって、ヤキモチを焼いてしてくれたんだよね?」

「……ヤキモチ?」


 心からわからないと言いたげにユキメはオウム返しする。

 彼女は僕とは違って、普通の生まれだ。普通と呼ぶには、生まれつき目を引く雪のような毛をしていたわけだから、きっと生まれながらにして妖狐ではあったのかもしれないけれど。

 それはさておき、ユキメは僕とは違って人間だった前世の記憶があるわけじゃない。彼女がどれだけの年齢なのか僕はよく知らないし、人間社会になじみのなかった彼女にはヤキモチ、あるいは嫉妬という概念がないのだろう。


 少し、迷う。ヤキモチを焼くユキメは可愛い。そういう感情を知らずに、けれどエメリーと僕が話していることに不満を持つところなんて、今考えると胸が高鳴って仕方がない。

 こんな時間を、もう少し堪能してもいいのではないか。でも、それは同時にこれからもユキメに冷たい反応をされるかもしれないということ。

 さらには、ヤキモチという言葉の意味を知った時のユキメの反応がわからないのが少し怖い。


「……あれ、ここでヤキモチの意味を分かってくれたほうがオイシイのかな」

「ヤキモチって、おいしいものなの?甘いの?」


 人の社会のことになるとまだ子どもレベルの知識しか習得していないのだから、今の僕の言葉で嫉妬が食べ物であるとイメージするのもおかしくない。ここで焼き餅――食べ物に連想しないのは、ユキメがお餅を食べたことがないから。そういえば、今年の正月は新米神様の妻として一緒に研修なんかに参加してくれて、二人で忙しくしていたっけ。

 そう、ユキメは、僕の妻なんだ。僕に尽くしてくれて、僕と一緒に幸せになろうと言ってくれて、僕がダメになりそうなときには引っ張り上げてくれる、すごく格好良くて優しくて可愛い子なんだ。

 そんなユキメが可愛くて、いつまでも見ていたくなる。


 けれどここは心を鬼にして、ユキメに指導をしなければならない。

 くっ、また一つユキメが賢くなって、無知で無垢なユキメが遠ざかってしまう。


「ヤキモチっていうのは、好きな人が他の人と話しているときに感じる不満のことだよ。もっと自分と話してほしい、自分だけを見ていてほしい、とられたくない……そういう感じかな」

「うん。ハクトは私のものよ」


 照れの一つもなく告げられて、むしろ僕が恥ずかしくなる側だった。

 そういえば、ユキメにはあまり羞恥の概念がない。最初のころは人間状態で服を着ていなくても何も気にしなかったくらいだし。

 最近では少し改善したけれど、そもそも人間とは感性が違うのだから、ここで恥ずかしがるのはおかしいのかもしれない。


「ハクトは私の夫だもの。他の妖のところへ行ってはだめよ。私だけのハクトなんだから」

「……うん。わかってる」

「私よりもハクトが好きな妖はきっといないわ。私が、ハクトを一番愛しているのよ」

「うん、わかった。わかったから」

「ハクト、愛しているわ」


 告げるその目は、けれど心なしか笑っている。

 もしかして、揶揄われたのだろうか。


「どうしよう。ハクトが可愛いわ。可愛くて仕方がないの。顔を真っ赤にしちゃって、照れているのよね」

「そ、そうだよ。ユキメが愛しているって言ってくれるから、うれしくて、恥ずかしくなっちゃったんだ」

「うれしいのね。私も、うれしいわ。私が好きだって言うと、ハクトはうれしくなるのよね。楽しい気持ちになるのよね」


 楽しい、だと少しニュアンスが違う気もするけれど、まああっている。

 怒涛の攻撃にたじたじになっていると、ユキメはふわりと笑って、ぎゅっと抱き着いてくる。


「好きよ、ハクト」

「……僕も好きだよ、ユキメ」


 好き。その言葉を伝えるのにはすごく緊張して、口に出せば心臓がバクバクするけれど、それでも、緊張を上回るいとおしさが体を満たしてくれる。

 大切なんだ。一緒に旅をして、苦楽を分かち合って、僕のことを守り、救い、愛してくれる相手。等身大の僕を見てくれる妖狐。

 僕はただ、ユキメとのめぐりあわせに、運命と呼ぶべきものに改めて心から感謝をした。


「ねぇユキメ、確認をお願いしたいのだけれど――」


 そんなことを言いながら、エメリーが再び戻って来る。

 彼女の目に映るのは、狭い洗面所で抱き合う僕とユキメの姿。


「お邪魔したわね」


 言いながら、エメリーはすすすと扉を閉めて去っていこうとする。


「ちょ、ちょっと待って。ほら、ユキメ。さっきのが誤解だって、そう教えてもらったら」

「……そうね。エメリー、私ね、ヤキモチを焼いていたの」

「はいはい。御馳走様」

「御馳走様?」

「お幸せにってこと。ああもう、ほんと、少しは場所をわきまえてくれないかしら。こっちまであてられそうになるのよ。特にミネルバが見たら一日中陰鬱な空気をまき散らすわよ?」


 仕方なく、という顔をしたユキメは、ちょいちょいと手招きされてエメリーのほうに向かう。エメリーはユキメの耳元に手を当て、僕から口を隠すようにして何かをユキメにささやいて。

 瞬間、ポン、と音が聞こえたように錯覚するほど、一瞬にしてユキメの顔が赤く染まる。

 エメリーはどこか得意げに僕を見て鼻で笑う。


 く、どうしてユキメにそんな羞恥心に満ちた顔をさせることができるの!?


「エ、エメリー!あ、あのね……」


 真っ赤な顔をしたユキメがエメリーに縋り付き、ぽしょぽしょと話をする。

 甘すぎる――一瞬にしてそんな顔をしたエメリーは、「お幸せに」という捨て台詞を残して、逃げるように去っていった。

 後にはどんな声をかけていいかわからない僕とユキメが残される。


 瞳をうるませ、上目遣いをするユキメがちょこちょこと近づいてきて、そっと僕の手を握る。


「あのね……子どもがほしいなって、そう言ったらどう?って」


 瞬間、僕の意識は銀河まで吹き飛んだ。太陽系を飛び出し、けれど僕はその中に小さく見える地球に、確かにユキメの存在を感じ取っていた。


「ハクト、ハクト?どうしたの?遠い目をしていたけれど」

「な、なんでもないよ。……そう、だよね。僕たちは夫婦なんだよね」


 紅潮したユキメの頬に触れる。熱が、じんわりと手のひらに伝わってくる。

 恥ずかしいのか、あるいはいとおしさがこみ上げるからか、ユキメは僕の手のひらに頬をこすりつけるように頭を揺らす。

 そんな彼女が、いとおしい。

 じっと見つめていれば、ぽすりと僕の胸元に額を当てる。

 今のはキスのタイミングだったんじゃ――そう思って、わかった。そもそもユキメはキスということを知らないのかもしれない。

 そう思いながら胸の中のユキメを見ようとして。

 ふと視線を感じて目を向ければ、そこには目玉が零れ落ちそうなほど目を見開いたミネルバの姿があった。


 ミネルバが見たら一日中陰鬱な空気をまき散らす――


 エメリーの言葉が脳裏をよぎる。


「あ、ミネル――」


 呼びかけるよりも早く、彼はまるで弾丸のようにその場から飛び去って行ってしまった。

 不思議そうにもぞもぞと胸の中で顔を上げたユキメが、下からのぞき込むように僕の顔を見ながら首を傾げる。


「ミネルバがいたの?」

「うん……その、ね。今日のお仕事は少し大変かもしれない」


 ふてくされて部屋に引きこもるか、あるいは店内の高くに設置された止まり木に止まったまま降りてこないか。

 とにかく、ミネルバが仕事をしないだろうことは確かで。

 そしてきっと僕に責任があることになって、忙しい時間を送ることになりそうだった。


 思わずこぼれたため息のせいか、ユキメが少し迷ってから、つま先立ちになって僕の頭をなでてくれる。

 こみ上げる愛おしさのままにユキメを抱きしめて、元気を取り戻す。


「よし!仕事に行こうか!」

「うん。相談はまたあとで、ね?」


 思わずもつれそうになった足を踏み出し、何とか転ぶのをこらえる。

 まったく、心臓に悪いんだから。


 スキップを踏みたくなるほどの気分で向かった僕はミネルバのことをすっかり忘れていて、数分後にどこか殺気立った彼の視線を浴びて現実に引き戻されることになるのだった。


 しゅん。

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