第30話 エメリーとお化粧

 アニマル喫茶テルセウスで仕事をする妖は全員で六名。うち一名は店主の吸血鬼シュウ。彼は基本的に、営業日は毎日喫茶店に顔を出す。ただ、それ以外の全員が毎日店に顔を出すわけではない。

 週休二日。お店の休業日に加えて、基本的に全員が追加で週に一日休むことになっている。

 問題は人前に出られるレベルの人化が可能な僕とユキメとシトラスの三人は、二人同時に休むというのが困難だということ。

 おかげで僕たちは最高でも週に一日しかデートができていない。

 もっとも、休業日の一日も、なんだかんだ買い物やミネルバの鍛錬なんかでつぶれたりするのだけれど。


 それはさておき、平日の今日、お休みの日のエメリーは、朝から人化したうえで洗面所を占拠して何やら真剣に化粧をしていた。


「エメリー、今日はお出かけするの?」

「そうよ。気が散るから話しかけないで」


 食後で歯を磨きたいのだけれど、射殺すような視線が強すぎて僕はすごすごと引き下がることになった。シトラスといいユキメといい、このテルセウスで仕事をする女の子はみんな強い。ミネルバなんてみんなのことを姉御なんて呼んでいるし、僕もこうして逆らえないことが多い。マスターだけは気にしていないみたいだけれど。

 目元を塗り、まつげをくるりとやればエメリーの目はいつもよりもぱっちりとして大きく見える。赤くてつややかな唇は雨に濡れたリンゴみたいで、どことなく甘いにおいもする気がした。


「……香水、だよね。少し強くない?」

「いいのよ。あんたとは違って、今日会いに行く相手は獣タイプじゃないのよ」


 人化しているとはいえ、身体能力は獣の時とほとんど変わらない。何しろ妖術によって体を変えているとはいえ、その在り方からそっくり変化するわけではないのだから。

 骨格や筋肉的な意味で力が多少変化することはあっても、そもそも妖の力は体というよりは妖気に根差しているところもある。加えて外見への影響が小さな嗅覚ともなれば、人化の際に元のままになっていることもある、というか僕がそのタイプだ。

 おかげで僕の鼻は人化中も狐の時と同じ性能を誇る。実は体の一部だけを人化せずにおくというのは高騰テクニックらしいけれど、種族的に変化の術が得意な僕たち妖狐にとっては朝飯前だったりする。

 ちなみに、ユキメなどは僕よりずっと上手で、例えば頭部に狐耳を残すようなこともできる。獣の耳と狐の耳で二対。一方のみに聴覚を与えたり、耳だけでなく髪まで白くできたりと、ユキメの術の技量は僕の遥か上を行く。

 ユキメと違って僕は神なのに、この分野では彼女に勝てる気がしない。


 まあ、普段でもユキメの尻に敷かれているような気もしなくもないのだけれど。


「それで、エメリーが会うのってあの男の人?」

「あの、がどの男を指すのかいまいちわからないけれど、たぶん想像した相手であっているわ」


 思い出すのはお祝いの席でエメリーが料理を食べさせていた男の人。これといった特徴はなくて、思い出せるのはエメリーにあーんをされて恥ずかしそうに頬を染めていたこと。

 あの場にいたということは、彼は妖。そして妖術が得意な個体なのだと思う。

 人と言われても違和感の全くない人化の術をしていたからこそ記憶に残らなかったのだと気づいて、ふと、視界の中で存在を主張する、揺れる緑の髪が目に付く。


「ねぇ、エメリー。髪の色は緑以外にはならないの?」

「無理よ。そもそも私は人化の術だって長い時間をかけて何とか覚えたのよ。それ以上は無理ね」


 そんなことを言いながら化粧を進めるエメリーを見ながら、ふと、少し前から疑問に思ってはいたけれど頭の隅に追いやっていた思考が首をもたげる。

 人化の術の見た目は何に影響するのか。

 転生を経て妖狐になって人だったころの姿に変化するようになった僕は例外的存在。

 例えばシトラスやユキメ、それから八代なんかは日本人らしい色合いや顔立ちをしていて、この国では埋没して人間社会で生きていける。それに対してエメリーや朱雀のカエラなどは明らかに人の印象に残る容姿をしている。特に朱雀なんかはすごく神々しい……のだろうか。派手なイメージはあるけれど、神々しいかと聞かれると首を傾げたくなる。

 ま、まあ、時々威厳のある空気をまとうと、ああ、神様なんだな、って思う。


 つまり何が言いたいかといえば、エメリーの緑の髪はすごく目立つということなんだ。


「最近ではカラフルな髪の色をした人も増えたけれど、まだまだ少ないよね?」

「ええ。目立つのも絡まれるのもごめんだし、今日はかつらをかぶっていくわよ」


 それは盲点だった。なまじ妖術という手段があるだけに、代用手段を考えたことがなかった。そうか、そうすると、化粧による変装なんかも役に立つのかもしれない。変装するような機会は思いつかないし、そもそも妖術ですればいいと思うのだけれど。

 ただ、化粧をしている妖がエメリー以外に思いつかないし、お化粧をしているとはっきりわかると、化粧をしているから相手は人だと先入観を持ってしまうかもしれない。


「……何を鏡の中で百面相をしているのよ」

「うんとね、妖で化粧をするヒトは多いのかな、って」

「少ないわね。下位の妖は人化すらままならないし、上位の、それこそ神クラスの妖ともなれば妖術を使えば済むもの。中位の妖は……人の姿になってそこで満足するわね。たまに、明らかに人間社会で浮いているのに全く気にしていないようなのもいるわね」


 どこかとげとげしい声で言いながら、エメリーは眉毛やまつ毛に何かを塗り、金髪をかぶる。さらにはカラーコンタクト。

 徹底して埋没しようとしているエメリーが黒目黒髪を選ばなかったのは、明らかに日本人離れした容姿で黒一色だと逆に悪目立ちするからだろう。

 すっかりありふれた外国人――にしては容姿が整って見えるけれど――に変身したエメリーは、鏡の中で満足げに笑う。


「よし、いいわね」

「そろそろ使ってもいい?」

「ああ、洗面所待ちだったわね」


 すっかり忘れていたのか、待ちくたびれた僕を置いて、エメリーは鼻歌なんか歌いながら歩き去っていく。歌っていたのは、最近喫茶テルセウスでBGMとしてかかっている曲。バイオリンの音色がきれいなその曲の名前も知らないけれど、長く聞いていれば自然と耳にもなじむ。

 新緑の森の中、小川のせせらぎを思わせるそのリズムを思い出しながら、開いた蛇口に手を濡らした。

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