第23話 残された者たち

「……なあ、あいつは、何だ?」


 立ち去っていくテルセウスの新入りを、ハクトを眺めながら、ミラは呆然とつぶやいた。

 動くことが、できなかった。一歩でも動けば、その瞬間に自分は死ぬと、久々に呼び起こされた獣の本能がそう告げていた。


 急激に人化中の姿を変えたハクト。その顔が、全てが黒に染まった瞳が、かつての友人のことを思い出させた。狂い、討伐された友人、麒麟のことを、思い出さざるを得なかった。


「新入り」


「んなこたぁわかってるんだよ!」


「彼はハクトという妖狐で、自己申告によれば変化の術と肉体強化の術を使う妖です。とはいえ変化の術も一人の人間の姿になることしかできず、肉体強化も理外の域には遠く及ばないものでしたが」


「変化に肉体強化……まて、自己申告によれば?」


「ええ。おそらく、彼の術は肉体強化ではありません」


「根拠はあるんだろうな?」


 今にも射殺しそうな鋭いミラの視線から逃れるように、喫茶テルセウスのマスターである吸血鬼のシュウは自分の足元へと視線を向ける。

 ミラもまた、シュウにつられるようにその視線の先を見る。


「…………?」


「わたしはつい先日まで、足を痛めていたのですよ」


「怪我か?」


「いえ、老いですよ。けれど今ではこの通り、昔のように杖なしで歩けております」


「……まさか、生命譲渡の類か?いや、それだと肉体強化もどきが使える説明が――」


「賦活」


 これまで無言を貫いていたシトラスの言葉は、焦りに空転するミラの思考を吹き飛ばした。


「んなあほな⁉それが事実だったら、あの新入りはこの国に久しぶりに誕生しようとしている大神ってことじゃねぇか!しかも生命神だぞ⁉」


「でも、マスターの足は治った」


「ほかにもいくつか、推測の根拠となりそうな事柄があります。シトラス君の心を若返らせたことや、近くにいる存在に活力を与えるような様子があったこと、それから、彼が偶然声をかけた旅の連れが、妖狐であると判明したこと」


「……偶然話しかけた相手がひよっこ妖狐だぁ?んなもん、天から隕石が襲ってくるより確率が……いや、そうか」


 ええ、とシュウはミラがたどり着いた答えを肯定し、そして。


「新入りが旅の連れを活性化させて妖狐にしやがったのか!」

「ハクト君がユキメ君を刺激して妖まで格を引き上げたのでしょうな」


 互いに、そう確信をもって告げた。


「つまり、なんだ?」


「あんた。知恵の獣とか名乗ってるくせに、どうしてこういうときに限っておバカなのかしらねぇ?」


「うっせぇ。いいから言え。どういうことだよ」


 ミラとシュウの言葉を聞いていたミネルバが、この後に及んでからかいの言葉を告げるエメリーを責め立てる。エメリー自身も今はミネルバをからかうのもほどほどにして真っすぐに彼の目を見る。


「つまり、彼には神としての適性があったってことね」


「は?神?ハクトの奴がか?いや……あー、神、なぁ?」


 ぐるぐると首を何度もひねりながら、ミネルバはハクトのことを思い出す。どこか儚げで、けれどどこか強く感じた妖狐。たった一つにしか変化できない妖狐の落ちこぼれで、けれどそんな妖術の力量不足にも関わらず、妖気に愛されているのではないかと思えるほど、ハクトは莫大な妖気を手足のように自由に操作していた。ただのバイトの荷運びにそのような術を発動しているのを見た時には、一体こいつは何をしているのだと、ミネルバはあきれ返ったものだった。

 そして、ハクトの近くにいるとなぜが活力が湧いてきて。ハクトが真っすぐミネルバに向けた言葉は、その全てが彼の心を強く揺さぶった。

 気が付けば店は生命力にあふれていて、マスターのシュウは老いを忘れたように動き回り、だらだらと転がるばかりだったシトラスは活動的になり、トゲトゲしいどころか触れた者皆切り裂くといった抜身の刃のようだったエメリーが一瞬で丸くなり、何よりもミネルバ自身が前を向くようになったことを自覚していた。


 ハクトが神様だと考えて、その認識はすとんとミネルバの心に落ち着いた。


「で、なんでそんな慌ててんだ?」


 そこまで思考が追いついて、だからこそミネルバにはわからなかった。まだまだ若い妖でしかないミネルバは、動揺を露わにするミラとシュウの言葉を待ち、そして。


「新入りは、彼は、妖気の感情に飲まれてしまった可能性があるってことだ。暴走して殺しを働くか、大地を滅ぼすか、とにかく、このまま放っておいたらろくでもない結果しかないだろうな」


「それに、本家の方々を始め、神もまたハクト君の存在を知れば確実に動くだろうね」


「……まさか、ハクトを妖怪だと認定して、か」


 ミラとシュウは何も言わず、けれどそれだけが答えだった。


「何をしてんだよ、あいつは……」


 どうしようもない無力感に囚われながら、ミネルバはそうつぶやくしかできなかった。


「妖気に飲まれた神・禍津神。……潜在能力は大神クラスともなれば、無数の神が討伐に動くな。ったく、ド級の面倒事じゃねぇか!」


 ミラはヒステリックに叫び、シュウたちに挨拶も告げぬまま店を飛び出していった。


「……それで、どうするのかしら?」


 この中では一番ハクトとの関係が浅いエメリーは、自分が冷静であるべきだと言い聞かせ、努めて平静に尋ねた。


「――あいつが帰ってこれる場所を維持しよう」


 ミネルバは、これまで蓄えたあらゆる知識を総動員し、ハクトの考えを予測し、そして静かに、けれど力強く自分たちがすべきことを口に出した。


 そうして、アニマル喫茶テルセウスのマスター及び従業員は、己にできることをできる範囲で行い始めた。





 空を駆けるように飛び、白虎・ミラは出雲へと急いだ。

 その胸に広がるのは、すでに空気のごとく薄まっていた苦い記憶。

 かつて、ミラには悪友の麒麟がいた。多くの時をともにした親友で、けれどもう、いない。

 妖術に大きな適性を持ち、けれど心優しい友人は、妖気に宿った負の感情に飲まれて暴走、禍津神として暴れまわった。

 その友人を、神たちの軍勢を率いて倒したのが、何をかくそうミラだった。

 狂ったように暴れ続ける友人が、見ていられなかった。

 何度呼びかけようと、麒麟が自我を取り戻すことはなくて。

 少しずつ冷えていくその体を抱きながら、慟哭し続けた時間は、今でも色濃く思い出せた。


 同じ過ちは、繰り返さない。

 目の前で禍津神へと至ったハクトは、まだ妖気に侵されて間もない。

 今なら、妖気の負の螺旋からハクトを救い出せる可能性があると考えていた。

 そしてミラは、ハクトへと声を届けられるのは、おそらくは禍津神化の引き金となった結婚、その本人であるユキメ以外にはいないと考えていて。


「ッ、白虎様!一体どうされたのですか⁉」


 勢いよく飛び降りたミラは、その顔を焦燥と怒気に染めていた。震える矮小な神は、けれど様子のおかしいミラの来訪の理由を聞かねばなるまいと、その前に立ちはだかり。


「邪魔だッ」


 その一喝で、小神は気を失って地面へと崩れ落ちた。

 阻むものがいなくなった道を、ミラはずんずんと突き進み、そして。


 その最奥にいた女性の襟をつかみ上げた。


「おい、てめえ!」


 呆然とこちらを見つめる、丸い瞳が気に食わなかった。状況をまるで理解していない、無垢な瞳。


「どちら様でしょうか?」


 彼女は、ユキメは、静かにミラへと尋ねる。その顔には隠し切れない怒りと疲労がにじんでいて、けれど今のミラはそれに気づかない。


「新入りのやつが――ハクトって言ったか?あいつが禍津神化したんだよッ」


 ハクト、という名前を聞いてその目を輝かせるユキメのことが、ミラには理解できなかった。

 襟をつかんでいたのはミラのはずなのに、気が付けばミラのほうがユキメに押されるような体勢になっていて。

 前のめりにミラへと顔を近づけたユキメが、「禍津神?」と言いながら小首をかしげた。


「っ、ああ、知らねぇか。禍津神ってのは、妖気に飲まれて暴走した神のことだ」


 ユキメの顔に、無数の疑問が浮かぶ。

 ハクトが神になったという事実を、ユキメは知らない。そのような適性があったことすら、ユキメは知らない。

 ユキメは、神とハクトを結び付け、そしてようやく、そのハクトが暴走した、というところへと意識が追い付いて。


「どういうことですかッ⁉」


 今度はユキメがミラの襟をつかんで、その体を持ち上げて叫んだ。困惑、動揺、焦燥、怒り、ユキメが見せる感情の意味が、やっぱりミラには理解できない。


「あんたが結婚するって話を聞いて、そうなっちまったんだよ。今ならまだ間に合うはずだ。あいつをもとに戻せる可能性を持つのは――」


「どこですか⁉私はどこに――ああ、もうッ」


 びりりり、と邪魔な着物を両手で引き裂いて、ユキメはミラへと鋭い視線を送る。そこでようやく、ミラはこの部屋に誰もいないという異常に思い至った。

 部屋の中はもちろん、外にも気配一つなかった。九尾の結婚相手のはずであるユキメに、誰もそば付きがいないのだ。


「おい、お前……」


「早く案内してくださいッ」


 ユキメの大声が聞こえたのか、遠くからどたどたと足音が響き始める。近づいてくるその集団に気付いたユキメが、盛大に顔をしかめる。

 怒りと、吐き気と、あとは、侮蔑だろうか。ミラはどこか別世界のように、ころころと表情を変えるユキメの顔を見ていた。


「ユキメ様何を……白虎様⁉」


「お、おお、邪魔してるぜ?」


 扉を蹴破るように入ってきたのは、小さなかむろ姿の狐たちだった。狐、とわかるのは彼らの変化の術が未熟なために、その頭から耳がのぞいていたり、尻尾が出ていたり、狐顔だったりするからだ。おそらくは九尾の配下。その集団は手に一様にさすまたを持っていて、とてもでないがレディの部屋へ踏み入るにはふさわしくない装いだった。

 困惑するミラを無視して、ユキメが怒気を周囲にばらまく。


「邪魔なのですよッ!」


 腕を振る。その一手で、子狐たちはユキメのことを見失う。すぐ目の前にいるはずなのに、彼らにはユキメのことが見えず、においも辿れず、音も聞こえず、感じることすらできない。

 けれど、彼らは少々力量不足とはいえ、幻惑の術に対抗するすべを身に着け始めていた。

 子狐たちはユキメの術の発動と同時に、一斉にユキメがいた場所へ向かってさすまたを突き出した。気配がなくても、捕まえられたという事実すらあいまいにされても、そこにユキメがいるという事実は確かなはずだから――


 そうして突き出された複数のさすまたは、けれどユキメ自身にはただの一つも届くことなく。

 子狐たちが互いに互いの得物を突きつけあう、おかしな空間がそこに出現した。


「……なんだぁ?」


 ユキメの幻惑の術は、世界に幻を生み出す術――ではない。その本質は、対象への精神干渉であった。視覚に干渉すればそのものが見る世界に幻を生み出せるし、聴覚に干渉すれば幻聴を、触覚に干渉すれば触感すら与えることができる。そうして多数の感覚を巧みに誤認させれば、そこには方向感覚すらあやふやになった上で同胞たちへと得物を突きつけあう混乱した集団の完成、というわけだった。

 ユキメは子狐たちを撃破したことに満足せず、けれど一層焦りを浮かべて、ミラの手を引いて走り出す。


「早く行きますよ。でないと――」


「でないと、何だ?」


 渋い声が、まるで波紋が広がるように不思議な響きを持って空間に広がっていった。それは、ユキメの幻惑の術に干渉し、子狐たちを幻の世界からすくいあげる。


「……九尾」


 苦々しい顔で、ユキメは男の名前をつぶやいた。

 まるで見せびらかすように九本の尻尾を臀部に生やす壮年の男。すらりとした長身に、鋭い糸目、まさしく狐といった風貌の男は、けれど現代風のブラックスーツに身を包んでいるあたりがひどくアンバランスだった。


「そこをどいてください……というか、退け。邪魔なのよッ」


「はッ、わが妻はずいぶん威勢がいいな?それでこそ俺の妻にふさわしいというものだ」


 怒るユキメ、笑う九尾。

 ここにきてようやく、ミラはふたりの結婚の実態を認識し始めた。

 おそらく……間違いなく、ユキメは不本意に結婚の情報を流布され、半ば監禁されていた。ハクトの名前を聞いた際のユキメの変わり様を思えばその心がどこにあるかは明らかで、それは間違いなく、目の前でにやにやと笑っている男には向けられていなかった。


「相変わらず、男尊女卑が大好きなくそ野郎だな」


 一触即発な空気の中、張り詰めた空気にミラの罵倒が伝播する。


「ああ?おいなんつった白虎。俺はくそ野郎じゃねぇ、九尾様だ。たかが四神の一柱に過ぎないお前が、この俺の言動に否をいう権利はねぇんだよ。男尊女卑?はっ、弱肉強食は世の常だぞ?男が偉いんじゃない、強い俺が偉いんだよッ」


 ゴウ、と激しい風が装飾の施された柱の並ぶ廊下を吹き抜ける。九尾の姿が変貌し、そこには巨大な狐の姿をした、真っ白な怪物が存在した。その圧に充てられた子狐たちが、泡を吹いて倒れていく。

 牙をむき出しに、九尾は笑う。

 そしてその対面には、人化の術を説いた白い虎――白虎ミラの姿があった。


『お前とは一度白黒つけておきたいと思っていたんだよ』


『ははッ、お前が俺に勝てるわけがねぇだろうが。時間の無駄だ、無駄ッ』


 白い獣が二体。体からあふれ出す妖気の量はほぼ同量。

 ユキメにとってははるか遠い、化け物たちがぶつかり合いを開始する。


 ミラと九尾が、ぶつかり合う。


 そして九尾がふと思い出すころには、ユキメの姿はとっくにその場から消えていた。

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