第22話 泣きっ面に

 前世の心残りを果たして、妖狐としての格が上がって、あれほど上手くいかなかった妖術がひどくあっさりと使えるようになって。それでも、僕の生活に大きな変化が訪れることはなかった。


 僕は旅から帰っても、変わらずアニマル喫茶テルセウスで住み込みのアルバイトに励んだ。

 今月が終わったらどうしようか、それが今の僕の悩みだった。


 時折、不思議な目をしたミネルバやエメリーが僕の顔を覗き込むようになった。僕が不思議に首を傾げながら彼らのほうを見れば、ふたりとも肩をすくめて聞かせるようにため息を吐いてみせた。

 すごく息ぴったりな動作を指摘すれば、ミネルバとエメリーは顔を見合わせ、それからきぃきぃとやかましく言い合いを始めた。


 そんな何気ない日々が、好きだった。

 そんな些細な日常が、ありがたかった。

 今の僕にとってその時間は、何にも代えがたい大切な時間だった。


「おう、人に会いに行っていたんだって?」


 夜。

 相変わらず蜂蜜をジョッキで飲んでいるおかしな藁人形の一体が、僕にそう話しかけてきた。


「うん。少し遠出をしてきたよ」


「得るものはあったか?人間と妖では、想像もつかないほど価値観が乖離していることがあるからな。特に長い時を生きればそれは顕著だ。理解しているつもりでも、人間という存在が分からなくなることだってあるんだよ」


「それはおめぇが木に打ち付けられた時のことか?」


「ああ、あの別嬪さんが金槌片手に鬼気迫る様子で俺たちを神木に縫い留める様子は衝撃的だったよなぁ」


「あれだけ恨みつらみを込めて丑の刻参りに臨む人間は最近だと珍しいからなぁ。怪談が趣味で~とか、罰ゲームで、とかいうのが増えたよなぁ」


「まあ、新しい同胞の誕生が減ったのは寂しいが、いいことじゃねぇか」


「おいお前ら!俺を生んでくれた嬢ちゃんを悪く言うんじゃねぇよ!」


「いやいや、お前あの子が大好きすぎやしないか?」


「俺らはみんなそんなもんだろう?」


「年を追うごとにみんな同じに見えてくるからなぁ」


「昔は俺もあんなだったなぁ……」


 わいわいがやがやと騒ぐ呪いの藁人形たちは、今日も変わらずそこはかとなくおじさん臭を醸し出していた。

 ちなみに、最初に僕が話しかけられた藁人形がどの個体だったか、僕は一瞬で分からなくなっていた。みんなそろいもそろって同じような釘やら札やら髪の毛やらを身に着けており、藁で編まれた顔に違いもなく、同時にしゃべられてしまっては発言者を見つけることもできない。

 わちゃわちゃと押し合いながら酒――ではなく蜂蜜だが――を酌み交わしながら、妖たちの晩が更けていく。


 八代と朱雀の酒宴が懐かしかった。





 僕が懐かしくさえ思う顔ぶれは、何も妖たちだけではない。


「もふもふ!ひさしぶり!」


 たった三日ほど留守にしていただけなのに、今生の別れを経験したような悲痛な思いが混じった歓喜の声とともに、小さな少女が僕に突撃してきた。

 覚えのある声に、上手な撫で方。

 このアニマル喫茶テルセウスで僕が初めて接客(?)をした少女が、僕に抱き着いていた。


 ここには変わらぬ日常があって、けれど確かな変化も存在した。


「ほら、早く早く!」


「そんなにあせんなよな。きつねは逃げないだろ」


「うーん?でも、もうなでられるのまんぞく!ってなって歩いて行っちゃうかもしれないよ」


「そんなことないだろ。これまでだってずっとなでられっぱなしだっただろ。きっとコイツ、お前になでられてはなの下のばしてデレデレしてるんだよ」


「そんなことないと思うよ?ほら、このくりくりのおめめを見て!ほら、ね?」


「いや、その目がどう関係あるんだよ……」


 僕のことを撫でていた少女が、ぶつぶつと文句を言って足を止めたままの少年の元へと近づき、その子の手を引いて僕のもとへと連れてくる。

 彼もまた、この喫茶店の常連――の子ども――だった。そして、この少女がいない間に密かに僕を撫でていて、おそらくは五番目くらいに多く僕を撫でた存在だろう。

 もちろん、一番はお母さんだ。お母さんは鼻で僕のかゆいところをピンポイントで撫でてくれる、すばらしい慧眼を持っているのだ。

 二番は多分ユキメ。隣り合って眠っている間に、ユキメはよく僕の毛皮を触っていたから。彼女の美しい純白の毛には及ばないかもしれないけれど、僕の毛皮も胸を張って自慢できる艶加減なのだ。きっと、ユキメもその魅力に囚われたのだろう。

 三番は、不本意ながら師匠。特に、人化している際に乱雑に頭を撫でられた回数を考えれば、ユキメに匹敵するかもしれなかった。

 その次と次がこの少年と少女なのだから、いかに少年が僕の毛並みに夢中になっているかがわかるというものだ。


 そんな恥ずかしがりやな少年は、少女に手を取られたことで顔を真っ赤にさせていた。僕と視線が合うと、少年はキッと僕のことを睨み、それから照れをごまかすように視線をそらした。

 ほら撫でて、と少女が少年の手を取って、僕のことを撫でさせる。少年は顔を茹タコのように赤く染め、少女から離れようと小さくもがきながら僕の頭を撫でた。

 うん、実に初々しい。

 おませさんな少年は、けれど少年らしく少女のことより僕の毛並みに意識が向いたらしく、半ば現実逃避するように夢中で僕を撫で始めた。

 うん、その耳の裏側の付け根、実にいいよ。目の付け所が違うね。流石第五位!


 少年と少女のわちゃわちゃを見て女子会――女子といったら女子なのだ――を開く婦人たちと同様に、僕も温かな視線で二人をじっと見つめるのだった。






「はー、ったく、そろいもそろってあたしに面倒を押し付けるのはやめにしてほしいよなぁ」


 ぐてぇ、と机に突っ伏した美人・白虎のミラは、今日は目に入れても痛くないほど可愛がっているエメリーに抱き着きに行く気力もないようだった。


 時間はすでに日が暮れかかっている頃。店内にはすでにミラ以外の客はおらず、だから彼女は大声で妖関連の恨み言を口にしていた。

 正確には妖というよりは、その上位存在的な神のことみたいだったけれど。


「……青龍の爺はうごかねぇし、玄武の頑固野郎は国の安寧のためには片時も目を離すことはできない、なんて言って国をでねぇしよぉ」


 人化してテーブルに同席するシトラスに対してか、ミラはぐちぐちと同僚の言動を批判する。僕はミラの話を軽く聞き流して、今日の業務も終わりかと、背中をそらして腰を伸ばし――


「それに朱雀の奴も、美味い酒の情報が手に入った、とか言って行き先も告げずに消えるしよぉ」


「え、朱雀?」


 ――聞き覚えのある名前が聞こえて来て、僕は人目がある可能性すら忘れて人化し、ミラにそう尋ねた。


「お、おお。新入りは朱雀のやつの知り合いか?……若いうちから酒におぼれるのは感心しないぞ。悪いことは言わないから、あいつの友人だけはやめとけ、な?」


「いえ、僕はお酒は飲みませんし、飲めませんよ。それに、朱雀の知り合い……というか酒飲み仲間は僕の師匠です」


「へぇ?あの朱雀の仲間とは、さぞかし酒豪だろうな……んー、まて、今当ててやる。お前は妖狐だろ。だとすると師匠とやらも妖狐だろうな……稲荷の爺さんは酒好きだが一人でちびちび飲むタイプだから朱雀と杯を交わすタイプじゃねぇな。炎狐の奴は火酒ばっかで酒の味が分からないクソだって愚痴ってたし……んん?」


 どうやら妖狐という妖集団はザルな者が多いらしい。あるいは一部の妖狐が酒豪として名をとどろかせすぎているかだ。

 そんなことで神界隈で存在感を出さなくてもいいだろうにと、僕は妖狐という集団に呆れるしかなかった。ま、まあ?八代師匠も酒が関わらなければいい神様だしね。村の守り神として、もう何百年もひっそりと崇められて来たっていうくらいだから、いろいろと手を貸していたんだろうしね。


「……わかった。あいつだな!あの、爺臭い姿をした変わり者の……あー、ここまで出かかってんだけどなぁ」


「ちなみに、その爺臭い姿というのは、朱雀の趣味みたいですよ」


 ここまで、と喉仏あたりに水平に手刀を運びながら、ミラはうんうんと首をひねる。そんなミラに、僕はいじめっ子の気質がある朱雀に対する仕返しを仕掛けることにした。うん、別に間違ったことを言っているわけではないしね。

 ミラが朱雀に「お前って爺趣味なのか?」と言って、朱雀がうなだれる光景を思い浮かべる。僕はそんな楽しい光景が繰り広げられることを予想してにやりと笑った。おっと、いけない。言動がどんどん師匠と朱雀に近づいている気がする。全く、親を見て子は育つっていうし、僕はお母さんのような狐になるつもりだし、そんなふうにあるつもりなんだよ?なのに師匠達のせいで、僕は自分がおかしな方向に進んでいる気がしてならないんだよなぁ……。


 相変わらず「あと少し、確かあいつは」とつぶやいているミラの横ではシトラスがテーブルに手をついて立ち上がっていた。そして、シトラスは「めっ」と僕に手を伸ばし、額にデコピンを浴びせて来た。


「……人化の時は、もっと周りを見る」


「あ、ごめんなさい。次からは気を付けます」


「ん。わかればいい」


 むふー、とお姉さん風を吹かせて満足したらしいシトラスは再び席につこうとして、けれどちらりと視線をやった。

 どこか心配気に揺れる瞳を見て、僕は首を傾げるばかりだった。最近、ミネルバとエメリーもそんな視線を僕に向けてくるんだよね。

 僕はちゃんと目的を果たして、無事に旅を終えたんだよ?だからこれからは、僕は前を見て生きていくんだよ。


「ハクト――」


 一度視線を伏せたシトラスが、覚悟を決めたように僕の名前を呼び、そして。


「分かったぞ!八代の奴だな!」


「あ、うん。そうだよ。八代が僕の師匠だよ」


「そうそう、あの白髪の爺な。いやぁ、よかったぜ。とうとう青龍のやつ見たくボケちまったかと思ったわ。ま、あたしはまだまだ現役だけどな」


 ぱちぱちと目を瞬かせて僕とミラの間で視線を彷徨わせたシトラスは、それから何も言うことなく椅子に座りなおした。一体どうしたんだろうか?


「にしても朱雀と知り合いとはなぁ。世間は狭いってやつか。まさかテルセウスにあいつと関わりがある奴がいるなんて、ほんと、奇妙な縁があったもんだ」


「僕も驚いたよ。あのいたずら好きで酒豪で子どもみたいな朱雀の友人に、ミラみたいな妖がいるなんて思わなかったよ。あ、朱雀の知り合いってことは神様?」


 眉間にしわを刻んで少し怖い顔をしたミラに、僕はためらいがちに修正を試みた。神様ともあろう存在は、たかが妖と間違えられることが嫌なのだろうか。師匠や朱雀はそのあたりのことは全く気にしなさそうだし、ミラもどうでもいいとか言うタイプだと思ったんだけどなぁ。


「あー、いや、別に怒っちゃいねぇよ。ただ、なぁ……朱雀のやつとは友人というか、やっぱり同僚、いや、腐れ縁っつうのが一番しっくりくるか」


 そんな僕の予想に反して、ミラが反応していたのは全く別のところだった。友人に友人と思われていないなんて、かわいそうな朱雀……。


「同僚?」


「ん?知らんか?まあこのあたしらはこの国の神じゃないしなぁ。四神っつって、朱雀、玄武、青龍、そして白虎のあたし、大国を……大国がある土地を、守ってるんだよ。で、朱雀はその同僚ってわけだ」


「はー、朱雀がまじめに仕事を……してるの?想像できないよ?」


「はっ、新米にそんなことを言われてちゃあアイツも形無しだな。どんどん言ってやれ、あの阿呆も、お前に言われ続ければ少しはまともに仕事をするかもしれねぇしな」


「いや、それはずいぶん希望的観測というか……」


「わかってるっての。…………はぁー」


 これまでの会話で気力が完全に底をついたのか、今度はミラは額から勢いよくテーブルに顔を打ち付け、そのまま動きを停止させた。ゴン、という音にシトラスが肩を跳ねさせ、鋭い視線でミラを睨んでいたけれど、ミラはどこ吹く風といった感じで、全く反応を見せることはなかった。


「……そういえば、今日は仕事帰りですか?」


 以前目にした時とは違い、やけにフォーマルなミラの服装に、僕は半ば独り言のように告げた。けれど流石は神様。ミラは顔を上げることはなく、疲れた声音で肯定して見せた。


「ああ、ちょっと祝い事があってな。そのおかげで挨拶周りだよ。ったく、せっかくしばらく休暇になってひたすらエメリーを愛でに通おうと思ってたんだがなぁ……そういやぁ、新入りは八代と、朱雀の弟子か」


 思い出したように師匠と、それから朱雀の弟子であることを確認されて、僕はいつまで新入りと呼んでくるんだろうと思いながら、ミラの言葉に頷いた。


「うん。師匠のところに遊びに来た……ああ、いや、最初は多分師匠に『こいつらを指導してやってくれ』って言われて来たんだと思うけど。朱雀は僕たちに妖術を見せてくれて、それからもちょくちょく酒を飲むついでに術を教えてくれたよ」


「はぁー、あの朱雀がねぇ。あいつ、やっぱり爺趣味か……いや、まて」


 急に真剣な口調になったミラ。だが相変わらず机に突っ伏したままの姿であり、その落差が激しかった。それから、ミラはぶつぶつとつぶやき、やがて勢いよく顔を上げた。

 その額は、テーブルにこすりつけていたからか、赤くなってしまっていた。


「おい、新入り!」


「もう新入りというほどじゃないと思うけど――」


「そんなことはどうでもいい!それで新入りは八代の弟子だったな⁉」


「え、うん。そうだけど、八代、何かやらかしたの?神事で酔いつぶれたとか、祝いの酒を勝手に飲み干したとか?」


「いや、そうじゃねぇよ。ああもう、こんなところに面倒事の元凶の関係者がいたとはなぁ!」


 わずかに血走った眼で、怒気すら纏いながらミラが僕の肩を強く握った。万力のような怪力で、僕の肩がきりきりと締め上げられていく。食い込む指が痛くて、けれどそれどころではなかった。

 そんなミラの異常を察知してか、シトラスが人化中にも関わらず「フシャー」と警戒の叫びをあげ、ミネルバが「おいおいどうしたんだよ」と僕の方へ飛んできて、エメリーものっそりと頭を起こしてこちらを向いた。


「新入り、さっきお前『僕たち』って言ったよな?お前のほかに弟子がいたわけだ」


 周囲から視線が集まるのも気にせず、ミラは再度の確認を取る。


「うん。そうだよ。僕の友人で――」


「ったく、アイツの結婚であたしが迷惑こうむってんだよこん畜生がッ」


 怒りの咆哮を上げたミラの体から、恐るべき妖気の奔流が迸った。それは物理的には何の影響も及ぼさず、けれどあらゆる生命に死の恐怖を抱かせた。

 ミネルバとエメリーが苦しそうに床に倒れ、シトラスも息を荒くしながらテーブルに手をついてミラのことを睨む。

 何事かと、大きな足音を立てながらマスターが裏から飛び出してきた。


 この場でただひとり、思考が困惑に飲まれていた僕だけは、ミラの威圧に飲まれることはなかった。


「結婚……?」


「そうだ、夫婦の契りを交わすんだよ」


「………………誰が?」


「ユキメってやつだよ。……ああ?なんだ、お前何にも知らねぇのか。まあこっちとしてもいきなりな話だったし、まだこっちの方には話が伝わってねぇのか。お前の妹弟子?姉弟子?のユキメってやつだ。白い狐だって話だったな」


「ユキメ、ユキメが……結婚?」


 あのユキメが、結婚する?

 確かにユキメは可愛い。何年も共にいた僕のひいき目を抜きにしても美しくて、ちょっと抜けているところが可愛くて、愛おしい存在だ。

 そんなユキメが、結婚――


「あ、相手は⁉まさか師匠じゃないよね⁉」


「相手は九尾の奴だよ。そういやぁ、あいつも酒豪だな。ただ、大勢を集めて宴会を開くのがタイプってやつで、朱雀の奴は趣味が合わないって言っていやがったか。ああ、あの阿呆が神を山ほど呼んで宴を開くとか言うから、出雲にいた無関係のあたしまで怒涛の仕事が押し寄せてきやがったんだよ。ったく、酒宴の準備くらい仲間内で用意しろってんだよ」


 九尾。流石にその名前は僕も聞いたことがあった。

 曰く、妖狐の最上位の存在で、およそありとあらゆる妖術に適性がある、力の化身。暴れんぼうと名高くて、以前師匠がアレだけは好かないと酒の席でぼやいていたことを思い出した。

 そんな九尾と、ユキメが、結婚…………


 うん、きっと、とってもお似合いなんだろう。

 真っ白で美しくて、幻惑の術という珍しい妖術に適性があるユキメ。

 お相手は妖術の王と言って過言ではない、妖狐の頂点に位置する九尾。

 もはや、これ以上のカップルは存在しないと言える二人組だ。

 九尾っていうのは、こんな冴えない一匹の化け狐とは比較にもならないほどの、すごい妖狐なんだろうなぁ。

 あれ、どうしてだろう、なんか、涙が出てきたような――


「おいおい、大丈夫かお前?」


 少し呆れたような声音のミラの声が、僕に届くことはなかった。

 僕の心の中には、走馬灯のようにユキメの顔が、ユキメと過ごした日々が、ユキメとの思い出が溢れていたから。

 笑うユキメ、困惑したユキメ、怒って見せたユキメ、寂しそうだったユキメ、はっちゃけていたユキメ、寒そうに丸まっていたユキメ、愛おしそうに僕の毛皮を舐めてくれたユキメ、僕に抱き着いてきたユキメ、惜しげもなく美しい体をさらす人間姿のユキメ、二本足で走ろうとしてすっころんだユキメ、涙目のユキメ、歓声を上げていたユキメ、冷え冷えとした目で師匠を見ていたユキメ、僕のことを温かな目で見ていたユキメ、僕の隣で眠るユキメ、ありがとうと寝言で僕に告げたユキメ、僕と抱き合いながら雪の日を過ごしたユキメ、雨で毛皮が体にぺったりと張り付いたどこか煽情的なユキメ、楽しそうにはしゃいでいたユキメ、朱雀に対してしたり顔を浮かべるユキメ、怒ったユキメ、笑ったユキメ、悲しんだユキメ、怯えたユキメ、幸せそうに僕に微笑んだユキメ――


 ああ、僕の心はこんなにもユキメであふれていた。ユキメ以外なんて存在しないほどに、僕の心はユキメで占められていた。

 ユキメが、大切だった。

 出会った時から、一目で僕はユキメに恋に落ちていた。けれど当時の僕はお母さんを失ったことで自分を責めていて、ユキメを思う余裕なんてなかった。人間だった頃の心残りが絶えず頭の片隅で自己主張を続けていて、ただの一匹の妖狐として生きることを僕が許さなかった。

 そして、僕は自分事にかまけて、ユキメと別れて旅に出た。

 これは、僕への罰なのだろうか。

 思いを告げず、思いから目をそらし、ただ幸せな日常に甘えて、一歩を踏み出すことをしなかった僕への、罰だろうか。

 あるいは、みすみす狐としてのお母さんを死なせてしまった僕は、これくらいの目にあって当然とでも、どこかの神様が思っているのだろうか?ひょっとしたら、独りよがりに人間だったころのお母さんの前に現れて、自分勝手に思いのたけを吐き出してお母さんを苦しめた罰だろうか。


 うん、たぶん罰だ。

 考えれば考えるほど、僕はろくなことをしていなかった。


 みんなを、傷つけた。

 僕はただ、誰かを傷つける存在だった。

 うん、僕は、そんな駄目な奴だ――


 僕はそう、自己完結して。

 そして、雨に打たれたあの日そうであったように。

 僕の中で何かが組み変わった。


 ふわりと、風が舞い上がる。髪は長く伸び、背も高くなり、そして何より、白目が真っ黒に染まって。とはいえ、最後の変化に僕が気づくことはなかったけれど。


 僕はまた何かを捨て去って、違う存在へなるために手を伸ばした。


 ひどく色の薄れた世界で、目の前のミラが僕に何かを言っていた。

 マテ、それに、ヤメロ、だろうか。

 どうして、そんなに焦った顔をしているのだろうか。

 シトラスもエメリーもミネルバも、どうしてそんな辛そうで、苦しそうで、悲しそうな顔をしているのだろうか。

 僕のせい?

 僕がここにいるせい?

 うん、きっとそうだよね。こんな僕がここに居たら、みんなに迷惑が掛かるよね。


「短かったけれど、今まで楽しかったよ。ありがとう。……それと、ごめんなさい」


 僕は、きちんと笑うことができていただろうか?

 お母さんを怯えさせるような顔を、していなかっただろうか?


 それだけが心残りで、けれどもう、それ以外には僕の心には何もなかった。


 ユキメの存在を心の奥底に封じ込め、僕は喫茶テルセウスから一歩を踏み出した。

 僕を止める者は、誰もいなかった。

 誰にも、僕は止められない。

 馬鹿げた妄想をしている子どもみたいなことを考えながら、僕はその、温かで愛おしい居場所から外の、苦しい世界へと歩き出した。


 でも、どうしてだろうか。

 ひどく目の前がにじんでいた。

 別に雨が降るような天気でもないのに。


 そうだ、これがいわゆる狐の嫁入りってやつだ。

 そう思えば、そう望めば、空からぽたりぽたりと、雫が降り始めた。


 晴れ晴れとした空がどこまでも広がっていて。

 見上げる僕の目に落ちた雨が、目尻から流れ落ちて頬を濡らした。


 これから、どこへ行こうか?

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