第21話 再会とお礼と、離別

 人面犬に追われ、助けた少女の不思議な言葉に首を傾げながら、僕たちは日の当たる小路へと帰還した。わずかな人気のあるその道には、先に出て行った少女の姿はなくて。


 僕はフラフを一瞥してから、人通りの多そうなほうへと歩き出し――


「迷った……」


 途中から違和感はあったが、進めば進むほどに人気は減っていき、建物同士の間隔が開くようになり、そしていつしか、視線の先には林が広がっていた。

 道の両脇には畑と点在する家屋があり。

 林へと続く一本道の入り口には、かすれた文字が書かれた看板があった。


「……林光寺?」


 ずいぶん薄くなっているその看板に目を凝らして、そこで僕はようやく、日が落ちかけていることに気が付いた。

 旅に出て二日目の夜が、近づいていた。


 一日目は駅のホームで過ごした。けれどこの近くに休めそうな場所は見当たらなかった。もう一度空を見上げる。顔を上げれば、湿気を帯びた風が僕の髪を撫でていく。

 空の先、風が来た方向には暗い雲が広がっていて。僕は激しい雷雨を予感した。


「…………はぁ」


 仕方なく僕は広い林に背を向けて、畑広がるあぜ道を歩き始めた。とっくに行き先を間違っていると感じていたのだから、もっと早くに引き返せばよかったと、肩を落とすしかなかった。


「どうして教えてくれなかったんだよ……」


 自然とそんな恨み言をフラフに口にするも、彼は相変わらず僕の顔の横でふわふわと宙を漂っているばかりだった。多分、人面犬に追われてがむしゃらに狭い建物同士の間の道を走り抜けたために、彼にも現在位置が分からなくなってしまっていたのだ。だから、彼は僕を止めなかったのだ。

 考えてみれば、すべての道をフラフが把握しているなどありえないのだ。ここはおそらくはフラフにとっても大してなじみのない場所で、そんなフラフが主要なルート以外を詳細に記憶しているはずがなかったのだ。


 とぼとぼと歩く僕の頬に、ぽつりと雨のしずくが落ちてきた。

 次第に強くなっていく冷たい雨と、闇に飲み込まれていく世界。

 降りしきる雨の中、僕はただ一人歩き続けた。


 宿に泊まるとか、そんなことは僕の頭には思い浮かばなかった。僕は途中から知っている道に出たらしいフラフの指示に従って、見覚えのない夜の街の中を歩き続けた。


 ざあざあと降る雨の中、傘もささずに一人歩く少年姿の僕は、ひどくおかしく映ったのだろう。道行く人たちが、僕のことを見ては、視線をそらして歩き出す。話しかけるべきではないだろうと、皆がそんな顔をしていた。

 僕もまた、いろいろな感情に押しつぶされそうになりながら、疲労で重い体を引きずるようにして歩いた。


 お母さんの家は、思ったより遠くなかった。

 歩き出して一時間もたたないうちに、僕はそこへたどり着いた。そこへ、たどり着いてしまった。

 暗がりの中、僕はお母さんが住んでいる部屋だというそこを、明かりのついたその場所を呆然と見上げた。雨ににじむ世界の中で、その部屋はとても温かな思いで満ちていた。ただ一つ見えるその部屋の扉は、僕を迎え入れてくれるだろうか?

 僕は心の中で、お母さんに告げるべき言葉を組み立てていく。


 お母さんは、僕にどんな反応をするだろうか。

 無言で抱き着いてくるだろうか。

 先ほどの少女のように、突然の再会に大きく目と口を開けたまま体を固めるだろうか。

 あるいは――


 僕は雨の中、再会の時間を思い、そして一歩を踏み出して――


「ハクト?」


 強まった雨足が奏でる水音の中、その声はやけにはっきりと僕の耳に届いた。その声を、忘れたはずがなかった。記憶にある、お母さんの声。

 こんな声だったかな、と思いながら僕が振り返った先には、くたびれたスーツ姿の女性がいた。


 肩上で短く切りそろえられた髪、革製の手提げと一緒にスーパーのビニールを握り、もう一方の手では紅の傘を握っていた。真っ黒な瞳が、その赤い傘の下でこちらをじっと見ていた。

 記憶にある彼女より大分老けていて、けれどまだ十分若々しいお母さんが、ぱちりと目を瞬かせる。


 その瞬間、僕の中に組みあがっていたすべての言葉が消失した。頭は真っ白で、けれど再会を喜ぶ思いが後から後から心の深いところから湧き上がってきた。体は歓喜で震え、僕は寒さも雨の不快感も忘れて、お母さんのもとへと一歩を踏み出した。


「お母さ――」


「やめて!」


 悲痛な叫び声が聞こえた。

 それは、金縛りのように僕の体を一瞬にして縛り上げた。体も、歓喜に震える心も、一瞬にして凍り付いたように止まった。

 動き出した僕の心は、疑問に埋め尽くされた。

 どうして後じさりするの?どうして、そんな顔で僕を見るの?どうして、僕に怯えているの?ねぇ、どうして――


 じりじりと後退しながら、お母さんは手に持っていた鞄も傘も取り落とし、空いた両手で体を抱きかかえる。


「あの子は、あの子は、死んだのよ!どうして、どうして今になって、私はあの子を見ているのよ⁉」


「お母さん、僕ね――」


「やめて、あの子の声で、その姿でしゃべらないで!お願いだから、やめて!」


 ざあざあと、雨音だけが僕の耳を揺さぶった。遠くの雑踏は、人の生活音は、すべて雨のカーテンに遮られて、僕の耳には届かない。

 そこには残酷なまでに、雨の音と、僕とお母さんの音だけがあった。


「ようやく、ようやく。あの子のことを忘れて、前を向けたのに。どうして今になって、私はあの子を見ているのよ……私は、私は……私が、おかしいの?」


「違うよ、お母さん」


「お母さんなんて呼ばないで!」


 両耳を抑えたお母さんが、絞り出すように叫ぶ。そのままお母さんは両手で髪を搔きむしる。じり、と僕は気が付かぬうちに一歩背後へと下がってしまっていた。

 雨がしみこんでいく黒髪が、顔にかかる。踊るように掻きむしられる髪は、少し前に見た女顔の人面犬の姿を僕に思い出させた。

 お母さんに恐怖した僕を、僕は信じられなかった。だって僕は、お母さんに再会するためだけに、ユキメと八代と別れて、旅をしたのだ。たった一度だけでいいから、言葉を交わしたくて。

 なのに、そう望んでいたはずの僕は、お母さんから今にも逃げ出そうとしていた。


 街灯に照らされて闇に浮かび上がった赤色の傘は、まるで地面に血が広がっているかのようだった。

 濡れた傘が反射する光が、一瞬形を変えた気がした。

 そこに僕は、最期を目にすることのかなわなかった兄の、あるいはお母さんの遺体を見た。


 ドクン、と心臓が激しく鳴る。

 落ち着け、僕。大丈夫だよ、僕。そう、自分に言い聞かせる。

 こうなる可能性だってあったじゃないか。心のどこかで怯えられる可能性だって、考えていたよね?

 だって僕は――ハクトは、死んだんだよ。

 ハクトという人間は、もう生きていないんだ。

 それなのに僕が目の前に現れれば、当時の姿と何一つ変わらない僕が姿を現せばお母さんが僕に怯える可能性だってあるって、そう考えていただろうに。

 だから。さあ、僕。

 お母さんが怯えていたって、告げるんだ。

 心残りを、告げるんだ。

 たとえ、独りよがりな僕の、自己満足でも構わないから。

 たった一言でいいからと、もう一度だけと、そう奇跡を願ったじゃないか。それを、今告げなくてどうするんだよ。


「お母さん」


 雨足が強まった気がした。

 叩きつけるような雨が、雨音が、僕の声を飲み込んでいく。

 闇が、僕の心に広がっていく。

 降りしきるしずくが、僕の髪をべったりと濡らしていて。髪から流れ落ちたしずくが、僕の頬を伝った。


 ねぇ、お母さん。

 僕はもう一度つぶやいた。いや、つぶやいたつもりだっただけかもしれない。

 だって、僕の心はあふれ出した思いでいっぱいになっていて、口は思うように動いてなんてくれなかったから。


 僕は、ハクトは、楽しかったよ。

 大人になれずに死んじゃったけれど、楽しいことはたくさんあったんだ。

 いつだって、僕の隣にはお母さんがいてくれたから。

 入院することになっても、お母さんがいたから、僕は寂しくなんてなかったんだよ。

 一緒にたくさんのことをしたよね。

 トランプをしたり、ゲームをしたり、テレビを見て笑ったり、病院の中庭を散歩したり。

 楽しかったよ。

 うれしかったよ。

 お母さんが一緒にいてくれて、幸せだったよ。

 だから、ねぇ、笑ってよ。

 僕が死んでしまっても、その大好きな笑顔を浮かべて、笑っていてよ。

 僕は大丈夫だよ。

 お母さんが立派に育ててくれた僕は、もう大丈夫だよ。

 だから、ねぇ。

 だから、そんな顔しないでよ。

 もう一度、僕の名前を呼んでよ。

 僕に笑いかけてよ。

 お母さん。

 お母さん。

 お母さん。

 お母さん――


「お母、さん。早くに死んじゃって、ごめんね。でも、でも、僕は幸せだったよ。幸せだったんだよ……だから、」


 だから、この思いのすべてを一言に乗せて、僕はお母さんに告げるのだ。頬を濡らしたそのしずくが、再会を喜ぶ涙だと信じて。


「大好きだよ。育ててくれて、ありがとう。お母さん」


「消えて、化け物!」


 僕はきっと、笑っていた。あの時のように、あの日々のように、きっと笑えていた。

 ねぇ、そうでしょ。

 僕はちゃんと笑えていたよね?

 僕は、僕は――


 気が付けばお母さんの姿は、僕の目の前から消えてなくなっていた。

 僕はただ、雨の中でそこに立ち続けた。


 空を見る。泣いているように、降り続ける雨。

 そのしずくが僕の目に入って、目じりから流れていった。


 僕は多分、泣いていた。


 カタン、と耳に音が届いた。


 ゆっくりと顔を向けた先には、扉を開けた少女の姿。

 今日、人面犬から助けたあの子が、そこにいた。


「-――」


 少女が、何かを告げた気がした。

 多分、「泣いてるの?」と言ったのだ。


 僕はただじっと、少女を見つめる。

 少女の姿が扉の向こうに消えて、ぱたりと、その戸が閉じた。

 それから、彼女に背を向けて歩き出した。


 心残りは果たせた。前世からの願いは結末を迎えた。

 だから、これでよかったのだ。これで、十分なのだ。

 温かな抱擁も、再会を分かち合う言葉も、別に求めてはいなかった。

 ただ一言、僕を生んで育ててくれたお母さんに、お礼を言えればよかったのだから。


 雑踏の中、僕は背後をチラリと振り返る。

 そこには、鮮やかな黄色の傘をさし、きょろきょろと周囲を見回す少女の姿があった。片手には、闇夜に溶けて消えて行ってしまいそうな大きな傘。

 慌てたように周囲を見回す少女は、迷子の子どものようだった。


 ゆくべき道を見失った、迷子の子。


 多分、それは少女ではなく、僕にふさわしい表現だった。


 アパートの階段を下りてくる足音を背に、僕は夜の街へと消えていく。






 一歩、踏み出すたびに心臓がドクンと強く鼓動を刻んだ。


『化け物』


 お母さんの声が――あの人の声が、僕の耳の奥で響いた。


 一歩を踏み出し、カチリと何かがはまる音。あるいは何かが、欠けた音。


 濡れる地面を踏みしめた僕は、いつの間にか真っ黒な狩衣を着ていた。

 空を見上げる僕の顔に激しく雨が降りつけて。けれどその水滴は、僕の顔を濡らすことはなかった。


 そうして僕は、妖狐として一歩前へと踏み出した。


 多分、この再会と別れをきっかけに、僕という存在は大きく変化した。

 大切な者を見つけて、いろいろなものを捨て、そうして僕は真っすぐ未来へと歩き出したのだ。


 僕を慰めるように、あるいは励ますように、視界の端でフラフが雨に濡れることもなくふわふわと世界を漂っていた。




 神無月ももう終わり。

 冬の到来を予感させる冷たい雨は、止む気配を見せなかった。

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