第20話 少女と妖怪と逃走

 人間社会の中で生活を始めてから、早一か月ほど。

 僕はもうずいぶんと人のいる生活に慣れていた――気がしていただけだった。


「ふぐぅ……」


 だが、人間社会は僕が想像もしないほど厳しいものだった。恐るべき人の波、入り組んだ道、すし詰めになったバス、行先の入り乱れた電車――


 僕は初めてのことだらけのその道程を、一歩、また一歩と、時に間違えながら進み。


 そしてかつて僕が住んでいた街に足を踏み入れた。


 感慨深さはなかった。何しろ、記憶に残っているこの街のことなど、家やかつて遊んだ家の近くの公園、保育園、学校、近所のスーパー、それから病院程度だった。僕はこの街のことをほとんど知らなくて、だから、この街に帰ってきた、というような認識をすることはできなかった。

 それが、ひどく寂しかった。

 まるで僕があの十数年をまっとうに生きていなかったと突き付けられているようで、僕はひどく苦しくなった。


 そんな僕の視界の端で、ふわふわとわずかに黄色がかった白い綿毛が浮かんでいた。

 渡り綿毛。世界を旅してまわるその綿毛の妖は、珍しいことに人間には見ることができないのだという。そんな渡り綿毛の一体は、道中で犬に食べられかけているのを僕が助けてから、ずっと旅についてきてくれていた。


 渡り綿毛のフラフは――僕が呼びやすいようにそう名付けた――とても博識だった。もうかなり長く生きているらしく、彼(彼女?)は人間社会に精通していて、そして時折道を誤りそうになる僕を、体当たりで止めてくれた。

 僕とフラフはボディーランゲージでしか語ることはできないけれど、僕は何度も、彼が「やれやれ」と肩をすくめているのを幻視した。

 そんなわけで、僕の素晴らしい旅の連れは、僕を見事に故郷へといざない、さらには僕の目的地まで案内してくれるという。


 お母さんは、僕が亡くなってからかつての家から引っ越したのだという。理由はわからないけれど、あの場所がお母さんにとって僕を思い出してしまう場所だからじゃないかと思う。

 そんなわけで、僕が目指すのは僕の家から三十分ほど歩いた先にあるアパートらしい。


 ちなみに、このあたりの情報は、事前に情報を伝達してくれた渡り綿毛の翻訳を行ったミネルバの言葉である。


 渡り綿毛たちの捜索方法は、対象の魂につながりのある相手の元まで飛んでいくというもの。

 そんな不思議な能力で見つかったお母さんとの再会が目前に迫って、僕は心臓がひどく早鐘を打っているのを自覚した。


 多分、僕は怖いのだ。

 僕は確かにお母さんの子どもで、けれどお母さんの子どもではない。僕はハクトだけれど、人間のハクトではなく妖狐のハクトなのだ。

 記憶に齟齬だってあるかもしれないし、そもそも前世の記憶すべてを思い出したと断言することだってできない。それに、十年余りも時がたてば、僕が変わってしまっているのは当然なのだ。

 男子三日会わざれば刮目して見よ、ということだ。


 僕はなだらかな坂道を登りながら、恐怖と、興奮と、その他たくさんの感情を抱えていた。


 そんな風にいろいろと考えながら気づけば人気のないさびれた道へと分け入っていた僕の足に、小さな衝撃が襲った。

 視線を下に向ければ、そこには五歳くらいの女の子がいて。彼女は僕の足にしがみついて弱々しく震えていた。

 少女に、見覚えはなかった。けれどどうしてか、彼女の姿を見て僕はひどく懐かしい思いに駆られた。

 誰か、僕の知人の子どもだろうか?そう思うけれど、僕の脳裏にそれらしい人物は思い浮かばなかった。


 四、五歳くらいの少女は、淡い紫のフリル付きワンピースに身を包み、その足はこぎれいな白の靴に収まっていた。頭には小さな麦わら帽子、肩掛けポーチには花柄の刺繍があった。大きな目に、ぷっくりとした頬、整った目鼻立ちは将来美人になることを予感させた。


「どうしたの?」


 僕は努めて優しく少女に話しかけた。視界の端で、渡り綿毛のフラフが上下に勢いよく飛び跳ねていた。少し邪魔だよ?


 彼女は、ゆっくりと顔を上げ、その涙で光る瞳を大きく見開いてじっと僕のことを見つめた。その目はすぐに僕の顔から横へとそらされ、ポカンと口が開いた。

 それから、ぱちり、と瞬きするとともに、目に湛えた水面から一滴の涙が零れ落ちる。

 僕はそっと、少女の目じりを指で拭った。


 少女は自分が泣いていることを認識したからか、あるいは僕の手をはねのけようとしたからか、フルフルと首を振って、僕の足に顔をこすりつけた。

 ジワリと、ズボンに冷たいものが広がった。


「何かあったの?」


 僕はもう一度、少女に尋ねた。

 ごしごしとズボンにこすりつけたことで乱れた少女の前髪を整えているうちに彼女の震えは落ち着き、けれど少し焦りのにじんだ顔で口を開いた。


「助けて、お兄ちゃん。怖いのが来るの」


「怖いのって……ッ」


 ぞわり、と鳥肌が立った。背筋に寒気が走り、もし狐の姿だったら全身の毛が逆立っていただろう。


 彼女は再び僕の足に、それも背中側に抱き着いて、僕の真正面を指さした。それがなくても、僕は自然の中で培った危険察知能力から、その接近を認識できていた。


 ひたり、ひたりと足音が近づいてくる。

 人気のない路地、その曲がり角の先から、何かが近づいてきていた。


 人間?多分違う。これはもっと……そう、妖。その中でも悪さを働く、妖怪のたぐいだ。


 僕は警戒心を跳ね上げる。場合によって妖術を行使しようと心に決めて。

 そんな警戒レベルマックスな僕の視界の先に、それは現れた。


 最初は、人間が地面を這っているのだと思った。長い黒髪で顔は見えず、その髪をずるずると引きずって、それは僕たちのほうへと方向を変えた。

 そしてすぐに、僕はそれが人間ではないことに気が付いた。

 体を動かすその腕は、毛におおわれていた。短い四肢も、毛深い胴体も人間のものではなく、それは跳ねるように、勢いよく僕たちのほうへと走り出した。

 ウィッグを付けた犬……でもなかった。

 振り乱した黒髪の奥から、その顔があらわになる。犬の顔に張り付いたそれは、ニキビの目立つ人間の女の顔をしていた。


 人面犬。それも、人間の特徴を色濃く反映した個体だった。


「恨めしい恨めしいああ恨めしい!どうしてわたしには美しい顔がないの⁉どうして私には愛らしい体がないの⁉許せない、許さない、こんなことあってはならないのよ!ねぇ、そこのお嬢ちゃん、あなたの体を私に頂戴。あなたのお顔を私に頂戴!その愛らしいすべてを、私に譲ってくれたっていいでしょ?私に、譲りなさいよぉぉぉぉぉぉッ」


 犬の耳が生えた人間の頭部を持つ犬の呪詛のような言葉を、僕の人間としての耳はキャッチできなくて。けれどそれがひどく恐ろしい言葉だと、僕はそう直感できた。

 とっさに少女を抱え上げ、僕は人面犬に背を向けて必死で走り出す。

 怖かった。もう全力で逃げたかった。もはや人間の視線なんてどうでもいいから、とにかくあれから遠ざかりたかった。

 けれど、そんな焦りと恐怖に脅かされた僕は、その腕の中の温かなぬくもりで我に返ることとなる。その腕の中には少女がいて。必死に僕の体にしがみつく彼女を守るためだと、僕は勇気を奮い立たせた。

 少女一人守れないと知ったら、きっと八代師匠は僕をあざ笑うだろう。いいや、彼のことだから僕のことを叱るかもしれない。「俺が教えておいて、ガキ一人助けられないのか」って。


 僕は、走った。けれど人間の姿で、突進する犬にかなうはずがなかった。

 あっという間に追いつかれて、それを見ることができるからか、腕の中の少女が一層僕に体をくっつけ、ぎゅっと僕の服を握った。

 ふわりと、僕の鼻を懐かしい香りがくすぐった。深い森のにおい。あたたかな太陽の光と、水と土の合わさった、故郷の森のにおいがした。


 同時に、驚くほど色鮮やかに、僕の脳裏に過去の記憶がよぎった。森を走る僕の視界の中で前を行くお母さん。お母さんは軽やかに木の根や岩を飛び越えて、転んだり足を止めたりする僕たちを見ながらじっと待ち続け、そうして皆がたどり着くと同時に再び走り出す。

 森での訓練の景色は一瞬で消え。

 けれど僕は、お母さんの巧みなフットワークを思い出すように急カーブ。


 ぽっかりと顔をのぞかせる、真っ暗な隘路へとその身を躍らせた。


 ほこりとカビのにおいが充満した、うす暗い建物同士の間。雑多な物が並ぶそこを、僕は彼女を抱えて全力で走る。

 肉体を強化すれば、立ちはだかる室外機だって、ビール瓶ケースだって軽々と飛び越えられた。

 僕は走り、そして後ろで衝突事故が起き、甲高い悲鳴が上がるのが聞こえた。


「よし、これで……」


 それは、いわゆるフラグというやつで。圧倒今に回収されたことを証明するように、腕の中の少女が「ひっ」とのどをひきつらせたような悲鳴を上げた。


 走りながら、チラリと背後を振り返る。そこには長い黒髪をさらに長く生やし、それを手足のように巧みに操ってゆく手を阻むものを持ち上げ、背後へ投げ捨てながら走る怪物の姿があった。


 その歩みはわずかに遅くなり、けれどジャンプして飛び越える必要があるために速度が小さくなった僕と、減速度合いは変わらなくて。

 一瞬開いた差はあっという間に詰まっていき、さらには背後から飛来物が僕たちを襲った。


「はッ」


 地面を踏み、壁に両足と片腕をつき、飛来物を躱す。

 ガシャンと破壊音を響かせたガラス瓶のかけらが地面に広がる。


「よけた、避けたなぁぁぁぁ!」


 人面犬の叫び声が聞こえた。

 その姿は、すでに僕たちの真下で落下を待ち構えていて。


 片腕を伸ばす。鉄柵で区切られた小さなスペースにあった植木鉢をつかみ、僕はそれを全力で人面犬へと投げつけた。

 ガス、という鈍い音。それから、怒り狂ったそれを足場に着地して、僕は再び走り出す。


 鞭のようにしなる髪が、建物の壁にぶつかって傷をつける。一撃でも食らえば、強化している僕はともかく、腕の中の少女が無事で済まないことは明らかで。


 けれど、僕の力量ではそのすべての攻撃を躱すことなんてできなかった。


 足元に迫った髪を跳んで躱し、頭部を襲ったものは片手で払い、そうしてがら空きになった胴体部分に、鋭い一撃が襲った。


 全身に振動。体が車にはねられでもしたように勢いよく宙へと飛ぶ。平衡感覚は一瞬で麻痺して、ただ焦りだけが僕の心をとらえた。

 うまく着地しないとこの子が死んでしまう。けれどそんなの多分無理だ。今自分がどうなっているのかもわからないのに、どうやって――


 僕は、少女のことをぎゅっと抱きしめるしかなかった。

 ただ強く、強く抱きしめた彼女が、痛みを訴えるように小さく呻き。


 衝撃。

 勢いよく地面を転がって、けれど少女を守るように、僕は体を張った。


 あちこちが痛くて、けれど痛みに思考が飛ぶほどではなかった。それは、ただ必死だったから感じなかったのかもしれないけれど、肉体強化の術は僕の肉体の耐久力も強くするから、多分気のせいではなかった。

 僕は慌てて、腕の中の少女の姿を確認する。

 彼女は、わずかに涙でにじんだ眼を僕のほうに向け、責めるようににらんでいた。痛い、と小さな声が僕の耳に届いた。


 ほっとしている余裕なんてなかった。

 背後の破壊音は続いており、憎き人面犬はもうすぐそこ。

 人間の足では逃げられない。

 けれど少女を守りたくて、逃がしたくて。


 僕に残された選択肢など、一つだった。


「いい?今から何があっても驚かず、僕にしがみついていてね」


 僕は少女を背負う体勢になると、全身をめぐる妖気へと干渉した。体表をめぐる妖気の流れを止め、人化を解く。

 視線が低くなって、背中では困惑した声を上げた少女が、それでも僕との約束をきちんと守って僕の毛皮をきゅっと握った。


「キャン!」(行くよ!)


 僕は走った。走って走って、障害物を最短ルートで、最速で乗り越えて、人面犬を引き離した。都会の人面犬と、少女一人背負っていても山奥で駆けずり回っていた、肉体強化の術も使える妖狐の僕。体力でも能力でも僕が人面犬を上回るのは、当然のことだった。

 とても高揚しながら、僕は都会の入り組んだ路地を駆け抜けた。


 人通りのある道へ続く暗がりで、僕は再び人化して、ぽんぽんと少女の頭を撫でた。僕の肩に顔を乗せるような体勢になっていた少女は、もぞもぞと体を動かして背後を確認し、それから恐る恐る地面へと足を下した。


「もう大丈夫だよ。悪いお化けは去っていったからね」


 去っていったというよりは逃げ切ったという言葉が正しかったが、僕はそう言って、ポカンと目と口を見開いて僕のことを見つめる少女の頭を撫でた。そういえば、彼女は泣き叫ぶこともなく、ただじっと狐になった僕の背中に乗っていた。

 怖くはなかったのだろうか?あるいは、突然のことに少女が目を白黒させている間に特急列車ハクトは停車したのだろうか?


 答えは出なかったけれど、少なくとも少女は、僕に怯えることはなかった。

 それどころか、目をキラキラとさせて僕のことを見ているような気がした。

 胸にあたたかいものが広がった。同時に、ひどく恥ずかしさがこみあげてきて、僕は少女から顔をそらした。


「大きくなったのね」


 僕が狐から人間に戻ったことを言っているのか、彼女はにぱっと笑って。そしてちょいちょい、と僕のことを手招きした。

 そして彼女は、膝を曲げて屈んだ僕の頭にその小さな手を伸ばし、ゆっくりと、いつくしむように僕の頭を撫でた。

 魔性の手だと思った。この少女は、きっといつか、あまたの動物たちを魅了する癒しの撫で術を身に着けるだろうと。そんな片鱗を感じさせる手つきに、僕は状況も忘れて頭を撫でられ続けて――


 少女の顔が近づく。

 視界いっぱいに彼女の頭が近づいて、そして。

 ぺろり、という生暖かく水っぽい感触に、僕は勢いよく体を起こした。


「…………へ?」


 手を伸ばしたそこは、かすかに濡れていて。

 そして目の前には、楽しそうに笑う少女の姿があった。


「またね。狐さんと、ふわふわした子」


 そう言って、彼女は日の当たる世界へと、隘路の先へと消えていった。

 僕は動揺を心の奥に押し込みながら、視線を自分の横に向ける。


「ふわふわした子…………?」


 そこには、人間には決して見えないはずの、僕の今の相棒である渡り綿毛フラフが漂っていた。

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