第19話 再出発

 翌日、まだ目が腫れぼったい僕があくびを噛み殺しながら店内の掃除を始めようとした時。

 マスターとシトラスが、僕のことを呼び止めた。

 いつになく真剣な表情の二人を見て、僕はある予感を覚えた。

 ひょっとしたら、昨日の僕の独白を聞かれていたかもしれない。そして、僕が元人間だとわかって、気持ち悪くなってバイトを首にするんじゃないか――


 自分でも行きすぎだと思うほどのネガティブな思いになりつつ、僕はマスターの前に立った。


「今日から三日間。ハクトには連休を取ってもらおうと思います」


 どういうことだろうか、と僕はマスターとシトラスの顔を見比べる。それほど、僕の顔は腫れてしまっているのだろうか。あるいは、精神的に不安定に見えるのだろうか。

 まあ、正直どちらも間違ってはいない。秘密を打ち明けて肩の荷が下りたとはいえ、僕の心がすっかり晴れてしまうわけではない。僕の罪はなくならないし、それになにより。

 ユキメより先にミネルバに隠し事を話したことが知れたら彼女がどう思うか、僕はそんなことを考えて気が気じゃなかった。


 そんな僕の思いを知ってか知らずか、シトラスは少しだけ背伸びをして、僕の肩をポンと叩いた。


「ハクト、会いたい人がいる、でしょ?」


「あ、うん。よく覚えてたね」


 もう何日も前のことな気もしたが、シトラスに街で「会いたい人がいるから旅費として給料をためる」というような話をした記憶が頭の片隅にあった。あるいは、僕がある人物の情報を集めていたことを、シトラスは知っているのかもしれない。

 僕はひどく真剣なシトラスの顔を見て、首を傾げる。その無表情に、けれどどことなく焦りがにじんでいるような気がした。

 その思いの理由は、すぐに彼女の言葉によって明らかになった。


「人は、私たちが思う以上に儚いから」


 だから、思い立ったらすぐに行動しなければ手遅れになるのだと、シトラスは語る。

 それは、猫又として長い生を持ち、そして長い時間を生きてきた彼女だからこその言葉。

 僕は、ハクトとしてのお母さんが死んでしまう可能性などこれっぽっちも考えていなかったことに気が付いた。まだ普通に生きていると、その死は遠いものだと、そう思っていた。自然界とは違って、人間社会は死から遠ざかっている気がしていた。

 けれど、そんなことはないのだ。生きとし生けるものは皆、いつかは死ぬのだ。命は、たやすく奪われる。

 僕は狐としてのいくつもの別れで、それを知っていたはずだった。

 ああ、やっぱり僕は無知だった。


「わたしももうずいぶんと長い時間を生きてきた気がしますが、人間というのは、とかく儚い存在です。ほかの生き物に比べれば十分に長い時を彼らは生きているのでしょうが、それでも、わたしたちと言葉を、思いを交わす彼らは、必ず私たちよりも短い生を謳歌し、そして死んでいきます。彼らとわたしたちは、わずかな時を共にすることはできますが、たいていの場合ともに歩むことはできません。それほどに互いの生き方には差があって、だからこそ、その一瞬の交錯を大切にしてほしいのです」


 昔を懐かしむように、故人の姿を思い浮かべながら、マスターは僕にそう語った。だから、行ってきなさいと、僕はマスターやシトラスに背中を押されて、再び、短くも長い旅に出ることにした。


「ほーん、人間に会うための旅、なぁ」


 慌ただしく準備を進めていた僕の部屋にやってきたミネルバが、僕から話を聞いて首をかしげる。


「かつての知り合いに会うのか?」


「知り合いというか、お母さんだね」


「場所はわかるのか?引っ越していたり、すでに死んでいたり、それを考えていないわけじゃないんだろ?」


「大丈夫。実は藁人形さんたちに相談に乗ってもらったことがあってね」


 はちみつ好きな彼らは、僕が人を探しているという話を聞くと、渡り綿毛さんたちに頼み、情報を集めてくれると胸をたたいた。

 それももう一週間ほど前のこと。

 今の僕は、再び喫茶店を訪れた藁人形さんたちから、お母さんの情報をもらっていた。


「今となっちゃあどうでもいいけどよ。お前、どうして俺たちは呼び捨てなのに、藁人形の奴らは敬称つけて呼んでんだ?」


「え?うーん、なんでだろ……あの陽気なおじさんみたいな藁人形さんたちは、藁人形“さん”って感じだからかな?」


「わけわかんねぇな……ま、気をつけろよ。枕元に化けて出てこられちゃたまんねぇからな」


「友人の死が悲しくて涙で枕を濡らすばかりで夜も眠れなくなっちゃうからだね?」


 ばっかちげぇよんなわけねぇだろあれだあれわざわざお祓いを頼むのが面倒っていうかむしろそんなことしたら俺も一緒に祓われちまいそうだろうがったく――


 ぶつぶつと文句を言うミネルバに、僕はまっすぐ向かい合う。


「それじゃあ、行ってくるね」


「おう、行ってこい!」


 僕はミネルバと、それから扉の向こうから顔をのぞかせてひらひらと手を振るエメリーに告げて、喫茶テルセウスを出発する。


 目指すは、かつて「ハクト」として僕が生き、そして死んだ街。

 そこにまだ、お母さんはいるはずだった。


 たった一つ、心に引っかかった心残りを胸に、僕はわずかな心細さとさみしさを振り切って、人間の世界へと一人で歩き出した。





「いいの?」


 立ち去っていくハクトの背中を眩しそうに眼を細めて眺めていたアニマル喫茶テルセウスのマスターであるシュウ。彼のことをじっと見つめていたシトラスの質問に、シュウは少し寂しそうに笑った。


「ええ、いいのですよ。かわいい子には旅をさせよといいますし、これは彼にとって必要なことですから」


「でも、帰ってこないかもしれない」


「承知の上ですよ。それに、その時は、彼はこのような場所には収まりきらない器を持っていたということです。遠くから伝わる彼の武勇伝でも聞くことができればそれで十分ですよ」


「……訂正して。ここは、すごくいい場所」


 スッと目を細めたシトラスが、シュウに言葉を改めるように求める。その言葉が、シュウの心を強く揺さぶる。

 努力はしてきた。けれど、いつだって暗中模索の日々だった。ただ、お客様の笑顔を指針に歩いてきた。

 その日々が、作り上げたアニマル喫茶テルセウスという場所が、少なくともシトラスにとっては「すごくいい場所」だったと知れて、シュウは目元を強く抑えた。


「この歳になると涙もろくていけませんね。……ええ、ここは素晴らしい場所ですよ。わたしと、あなたと、エメリーさんと、ミネルバさんと、ハクトさんと、たくさんのお客様と、そして旅立っていった多くの先人たちのおかげで、素晴らしい場所となりましたからね」


「そう。ここはいい場所。そして、ハクトがいれば、もっといい場所に、なったかもしれない」


「ハクトさんは、素晴らしい方でしたからね」


「ん。面白くて、いいやつだった」


 無表情で淡々と告げるシトラスの瞳に、けれど長くかかわってきたシュウは楽しそうな光を見た。そしてシュウもまた、シトラスに強く頷いて見せた。


 ハクトが来てから、アニマル喫茶テルセウスは変わった。かつてはエメリーとミネルバがぎすぎすと言い合いを続け、シトラスは無関心を貫き、シュウは店の経営で手いっぱいで、お客さんの笑顔もあまり多くなかったようにシュウは記憶していた。

 それが、ハクトが店に来てから、良い風が吹き始めた。ハクトという潤滑剤を挟んだエメリーとミネルバは言い合いこそ続いていたがその言葉からはトゲが抜けて円滑なコミュニケーションの手段となり、シトラスは心動かし、来店客は笑顔にあふれ、シュウは自分のやってきたことが強く肯定されているという認識から精神的な余裕が生まれ、やさぐれていたミネルバは前を向き、エメリーもさらに努力をするようになった。

 そして何より――


「その足、もう大丈夫?」


 シュウの手には愛用の杖はなく、そして彼は足を引きずることもなく動けていた。


「彼のおかげなのでしょうね。肉体強化、でしたか?」


「んーん。多分、違う。肉体強化で、治癒はできない」


 断定的なシトラスの言葉を受けて、シュウは長い指を顎に当て、思索にふける。そして、彼の頭をよぎったのは。


(やはり“賦活”でしょうかね)


 肉体を強化するのが、副次的な効果でしかなくて。お客様を含めて周囲の者に活力を与え、シュウの脚を癒し、精神がフラットになって興味関心に心動かされなくなっていたシトラスの精神を若返らせる。

 そんな術は、力は、賦活、あるいは活性化。それしか思いつかなくて。


 周囲のすべてを活性化させるその力は、文字通り神が持つ力で。


 その片鱗に祝福を授かったシュウは、どうかハクトの未来がよきものでありますようにと祈りながら、少し寂しくなる日常を思った。


「さて、わたしたちも仕事を始めましょうか」


「………今日は昼寝の、気分」


「だめですよ。ハクトさんがいなくなってしまった分、人手が必要ですから」


「ミネルバ、ずるい。私も人化、忘れる」


「何を言っているのですか。……さあ、行きましょうか」


 まるで祖父と孫娘のような掛け合いをしながら、ふたりは開店準備のために店内へと入っていった。

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