第18話 喧嘩
夜。
少しうるさい心臓を落ち着けながら、僕は一つの扉の前に立っていた。
わずかに汗のにじんだこぶしでドアをノックすれば、奥からは機嫌の悪そうな声が聞こえてきた。
「ミネルバ、入るよ」
「ああ゛?」
来客が僕だとは思っていなかったらしく、ミネルバは大きく目を開いて、じっと僕のことを見つめていた。やがて彼は、その瞳に怒気と軽蔑を含ませて、僕のことをキッとにらんだ。
「出てけ」
「なんで?」
「いいから出ていけ!」
そうは言われても、僕はここで引く気はなかった。このままの関係でバイトを続けるのは苦痛だったし、何より僕はミネルバのことが嫌いじゃなかった。
ミネルバは口が悪いけれど、決して間違ったことを僕に教えたり、理不尽に八つ当たりしてくるようなことはなかった。
僕の先輩として、ミネルバは仕事内容を丁寧に教えてくれたし、間違っていたら叱ってくれた。
それに、僕はミネルバともっと話したかった。そうすれば、もっと楽しくなる気がするから。もっと、ミネルバと関係を深められる気がするから。
病室育ちで、そして家族とばかり過ごしてきた僕は、他人との接し方がいまいちわからなくて、あまり相手側に踏み込むことはなくて。だからユキメとの関係も腐れ縁の域を出なかった。
けれどミネルバは、そんな僕の懐にためらうことなく踏み込んできてくれた。少なくとも僕はそう思っていて、そしてミネルバがそうしてくれたことが僕はうれしかった。
だからこれは、僕の感謝の気持ちなのだ。
「こ、これ!」
声は震えていて、今度こそ一切言葉を交わしてくれなくなるのではないかと、僕は心に浮かぶ恐怖を押し殺しながら背後に隠していたその包みをミネルバの前に突き出した。
「……なんだぁ?」
くるりとミネルバが首をひねり、僕の真意を問うようにその鋭い眼光を僕に向ける。
僕はのどの渇きを覚えながら、絞り出すように言葉を告げる。
「その、ミネルバが本を好きだっていうから!」
「……だから?」
「だから、その、普段からの感謝の意味も込めて、プレゼントしようって!」
しん、と部屋の中が静まりかえる。ミネルバは黙ったまま、ただじっと僕のことを見つめていた。僕はどんどん不安になって、今すぐにこの場から逃げ出したくなった。
けれど今逃げれば、きっとミネルバとの関係は改善しない。だから僕は、勇気を振り絞ってミネルバと向き合った。
「笑いたいのか?無償奉仕を続ける俺に恵んで、自分の優位性を感じたいのか?なぁ、馬鹿にしてるんだよ?」
「してない!そんなこと、するはずないよ!」
「どうしてそんなことが言える!だってお前は俺の過去を知って、俺から離れていくんだろ⁉俺のことを馬鹿にしたように見下ろして、笑うんだろ!なあ、そうだろ!そうだと言えよ!」
それは、責めているようで、それでいて懇願しているようであった。どうかそうであってくれと、どうか自分のことを嫌ってくれと、そう言っているようだった。
ああ、とそこで僕は、ようやくミネルバが何を思っていたか、その末端を理解できた気がした。
ミネルバは、とてもまじめなのだ。知恵の獣と呼ばれるくらいに、そんな妖になるくらいに知識を獲得するのに貪欲で、そしてバイトにおいては一切手を抜かず、僕の目には彼はいつだって全力だった。
全力で、心から相手とぶつかって、全力ですべてに取り組んで、全力で生きていた。
彼はまじめで、だからこそ自分が許せなかったのだと思う。
盗みを働いた自分を。そして、ここで責められることなくぬるま湯に浸っている自分を。
きっと過去にはミネルバを責めるものもいたのだろう。けれど今の喫茶テルセウスは、彼にとってひどく居心地のいい場所だ。それこそ、奉仕だとは全く思えないような時間だ。
たとえ人間社会の法なんて知らなくて、だから盗みを働いていたのだとしても。彼は己の無知による罪を許さない。
ミネルバは、自分を赦すために、自分に厳しく当たってほしかったのではないだろうか?
それは、僕の思い違いかもしれない。
実はすべて僕の妄想で、ただ昔誰かに「妖怪」だと詰られた傷が心に深く残っているだけかもしれない。
けれど今、僕の目の前で怒りながらも泣いているように見えるミネルバに。僕は彼のために、言葉を探した。
「……僕はね。人間に、親を殺されたんだ」
いきなり何を言い出しているんだと、ミネルバはその大きな目を僕にまっすぐ向けながら、黙って僕の話を聞いていた。
「夏の暑さで食料がなくて、妊娠していた母に十分な栄養を与えるために、お父さんは人間たちの家畜を襲い、野菜を奪い、その果てに害獣として撃ち殺された。そして、お母さんも、同じ道をたどったんだ」
「……それで?」
低く、小さく、ミネルバは続きを訪ねた。多分、そうでもしないと僕が続きを話せないと思ったからだ。
そう、僕は、怖かった。
自分をさらけ出すことが。
それによって関係が変わってしまうことが。嫌われてしまうことが。
ぽろぽろと涙を流しているのを別っていて、しゃくりあげる喉が言葉を封じていて、けれど僕は、言わなければならなかった。
言う必要があった。
ミネルバのために。
そして、僕自身のために。
「発砲音が、したんだ。多分猟銃の音。それから、血の匂いがして、お母さんはそれっきり。僕は人間が憎くて、けれど、何もできなかった」
「人間を襲うのが怖かったのか?それとも、自然という枠組みから足を踏み外すのが怖かったからか?」
ミネルバに首を振って、僕は隠し事を口にする。
前に、進むんだ。
「……僕が、かつて人間だったからだよ。人間として生きて死んだ僕が、人間を恨むなんて、そんなことをお母さんは許さないと思ったんだ。だって、そんなのおかしいでしょ。お母さんは人間に殺されて、殺される原因の一端に、かつて人間だった僕を救うためという理由があって。……それじゃあ、お母さんが報われないよ」
そう言うことか、とミネルバがつぶやいた気がした。けれど僕は嗚咽に混じって、その言葉ははっきりとは聞き取れなかった。
代わりに、ミネルバはぐいと体を僕の方に近づけて、どこか責めるようなまなざしで告げた。
「どうしてだ?どうしてそう思う?」
「人間だった僕が人間を恨むなんて筋違いだからだよ。僕の兄弟姉妹であれば恨むのは当然の権利だよ。でも、僕はそうして動物たちを虐げ、食らって来た人間側なんだよ?僕は怨んじゃいけない、僕が人間を責めちゃいけない、僕が、人間に復讐なんてしちゃいけない」
そうは言いながらも、僕の心に広がる負の感情が晴れることはない。
でも、それでも、口に出せばどこか肩の荷が下りた気がした。
きっと、八代師匠はこうして僕に隠し事を暴露させるために、旅に出させたのだ。旅の恥は掻き捨て、というではないが、旅の解放感と一人旅の心細さが、きっと僕に本心を告げさせたのだ。
それはたぶん、僕にとっては大事な一歩だった。
何より、それを伝えたのがミネルバであったから。
「つまり、お前はこう言いたいわけだ。前世が人間だった自分には、親を殺した人間を恨む権利はない、と」
コクリと僕が頷く。
ミネルバの次の行動は手に取るようにわかって――
彼は僕の予想通り、はん、と一声あざ笑って、僕の頭に飛び乗った。
「いいか、ガキがいっちょ前に語ってんじゃねぇ。親を殺した相手が憎い?当然のことだろうが。復讐したい?大いに結構だ。だが、その前にまず、お前は自分のことを知れ」
ぐるりと僕の首を無理やりひねらせたミネルバは、そうして僕を鏡に対面させる。
そこには、泣きはらした目をした、同時に苦痛に顔をゆがませた僕がいた。
「いいか。復讐がしたくてたまらない、親を殺した奴が憎いって考えてるやつが、そんな辛い顔をするかよ。お前は復讐に心囚われているのが辛いんだ。かつての同胞に憎しみを向けるのが辛いんだ。その事実から、目を背けるんじゃねぇ。お前は、一つの個だ。一つの生だ。お前はお前が思うように生きればいいんだよ」
「でも、でも!僕だけが、僕だけが知っていたはずなんだ!兄弟姉妹の中で、僕だけがお母さんを止められたはずなんだ!食糧不足の中で、森での生活の中では食べたことのないほど美味しい肉や野菜をお母さんがどこから取って来るかなんて、少し真面目に考えればすぐわかったことなんだ!もしわかっていれば――」
「止めた、か?無理だろ。察するに、人間から盗まなければお前ら一家は死んでいたんだろ。それをお前は、止められねぇよ。気づいていたとしたら、せいぜい母親と一緒に、今とは別の罪の意識にさいなまれていただけだったろうな」
「それでも、僕は知っていたんだよ。人間社会も、そこでの食事も、食料不足で山から下りる害獣のことも、知っていて、何もできなかったんだ」
「だったら良かったじゃねぇか」
「…………え?」
何を言っているんだと、僕は顔を上げる。不信と、怒りと、それから困惑で心かき乱されながら、僕は涙で歪んだ視界の先に、真剣な表情のミネルバを見た。
「そりゃあ、無知の知ってやつだ。お前は、情報を知っている気になっていたんだよ。情報ってのは、それを使って考えて、理解して初めて知識になるんだ。ただ頭でっかちに情報を吸収して賢くなって、それで自分は『賢者だ』なんていって学びをやめてしまうのはただの愚者だ。いいか、考えることをやめるな。思考を止めるな。結論を疑え。そうして、自分の無知を自覚しろ。そうして、もがき続けろ。それ以外に、お前はきっと自分を赦せねぇよ」
ひどく苦いものを噛みしめたような顔で、けれど力強く、ミネルバはそういった。
その言葉は、僕の心にしみわたった。
ミネルバが、無知がゆえに罪を働いたように。
僕の行いも、無知ゆえのものだとして。
それでも、ミネルバは己の罪を赦せない。
それでも、僕は自分の愚行を赦せない。
罪は、罪だ。
どう取り繕ったって、罪以外のなにものにもなりはしない。
だから、二度と同じ過ちはしないと、その重荷を背負って、生きていくのだ。
お母さん。隠し事をしていてごめんね。
それから、危険を冒してまで人里まで下りて食料を手に入れて来てくれてありがとう。
僕たちを育て上げてくれて、ありがとう。
僕は、人間が憎いよ。お母さんを殺した人たちが、許せないよ。
でも、人間がそれだけではないって、知ってしまってるんだ。
この店の客も、みんないい人ばかりなんだ。
だから、さ。
僕は、人間を恨んでもいいかな?
そうしていつか、自分勝手に人間のことを、そしてお母さんを助けられなかった僕のことを、許してもいいかな?
そんなの当たり前じゃないの――そう、お母さんが笑った気がした。
なんだか、とても心が温かかった。
それから、僕は床に落としてしまっていた本を拾い上げて、改めてミネルバにプレゼントした。結局何が言いたかったのか、何をしたかったのかよくわからなくなってしまったけれど、その本の存在が、僕とミネルバが腹を割って語り合い、そして心を通わせた証だった。
僕とミネルバは、友達になった。
だから、そう。
「この本は読んだことはあるが面白くねぇぞ?お前、本選びのセンスがまるでねぇな?」
そんなミネルバの言葉だって、僕は軽く受け流して見せるんだ。
まあ、後で仕返しはするけれどね。
けれどそれが、友達ってものなんじゃないかな。
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