第17話 街へ
雑踏の中、ふんふんと小さく鼻歌を歌うシトラスとともに、僕は街を歩いていた。
ことは、二日前にさかのぼる。
給料日の翌日。
僕がミネルバの過去を知ってしまったことに、ミネルバ本人が気が付いた。あるいは、エメリーあたりが話の中で口にしたのかもしれない。
それを理解したミネルバは、僕の言動の揚げ足を取って、「お前も俺を妖怪だと言うんだろう?」と告げるなり、僕のことを無視するようになった。
へそを曲げてしまったのだと、そう思う。
ミネルバは確かに以前盗みを働いていたのかもしれない。とはいえ人間の法が妖に当てはまるわけではなく、権力を持った妖たちが人間社会を荒らすことを好まずにミネルバを悪としているだけなのだ。そして今のミネルバは、そのような行為には及んでいない。
今は今、過去は過去。
僕はかつて人間で、そして現世では母を人間に殺された。
そんな僕だから、今と過去を割り切って考えることができて、ミネルバを悪と見るなんてことは決してしないのだけれど。それがミネルバに通じるかといえば、そんなことはなくて。
僕はその日と翌日を、ぎすぎすした空気の中でバイトに励むことになった。
そして今日。ちょっと距離を取りなさい、というエメリーの命令に従って、僕はシトラスに連れられて街を歩くことになった。
「ここ、入って」
相変わらず言葉少ななシトラスに連れられて僕が入ったのは、一軒の雑貨屋。生活の小物から、子どものおもちゃ、駄菓子のたぐいまでそろえている何でも屋のようなその店は、僕の少年心をくすぐった。
前世と現世を含めればすでに成人男性ほどの年齢には達している僕だが、狐としての体に精神が引っ張られているのか、あるいは二度繰り返していても精神年齢が一次関数的に伸びていくわけではないからか、まあ少々落ち着きがないらしい。ユキメに何度か暗に告げられて僕はひどくへこんだ。
まあそんなわけで、雑多な小物が所狭しと並べられたその店内は、まるで宝箱のように僕の目に映った。
僕はシトラスの背中を視界の端に収めながら、店のあちこちを見て回った。
色鮮やかなお皿、優しい森のにおいのするバスケット、ハサミ、髪留め、カラフルな水風船、折り紙、棒付きキャンディー……
そこはたくさんの宝物であふれていて、僕はそのすべてに視線を吸い寄せられた。
ふわふわとした足取りで店を出た僕を、シトラスは不思議そうな目で見つめて言った。
「何も買ってない?」
「うん。確かに楽しかったけど、欲しいと思うものはなかったんだ」
狐になってから随分欲が減っているような気がするのだ。いや、人間だったころからこんな性格だったかもしれない。病室には何もなかった。欲しいものは、買えるようなものではなかった。
健康な体、外遊び、父の来訪、仲のいい友人、明るい将来――
そのどれかを告げれば、張り詰めたような空気をまとっていたお母さんが壊れてしまいそうで、僕は願いを口にすることはなかった。
何か欲しいものはあるの、という母に対して首を振った時に見た、ひどく寂しそうな顔を思い出した。
僕は狐として転生して、そのほとんどを手に入れた。野山を駆け回れる体があって、外で遊ぶこともできて、友人と呼んでいいかはわからないけれどユキメをはじめとしてたくさんの出会いがあって、病に急かされない未来があって。唯一父はいなかったけれど、彼もまた、僕が、僕たち兄弟姉妹が生き延びるために死力を尽くしてくれたいいお父さんで。
僕は思い浮かべる望みをおよそかなえてしまって、そして今の僕の中心には、お母さんとの再会があって。
だから別に、何かが欲しいとは思わなかった。
枯れている、というわけではないと思いたい。
うん、師匠のニヤニヤ顔がうっとうしかったので、僕は首を振って彼のことを頭の中から追いやった。
突然首を振り出した僕を不思議そうに見ていたシトラスに、何でもないよ、と僕は答える。
「それに、お金はためておきたいから」
「……欲しいもの、ある?」
「会いたい人がいるんだ。だから、その旅費に、と思ってね」
ふぅん、とどこか納得いっていなさそうな相槌を打ったシトラスが、僕の手を取って歩き出す。
その目は、すでに次のターゲットにロックオンされていた。
移動屋台で売られていたのは、クレープだった。ちょうど列が途切れたタイミングで、シトラスはたくさんのブルーベリーが入ったやつと、抹茶のやつを素早く注文した。僕が口を挟むタイミングなんて少しもなかった。
「私のおごり」
「え、でも」
「いい。ついてきてくれた、お礼」
差し出された抹茶のクレープを困ったように見つめていたからか、シトラスは小さくため息をついて、げんなりとした雰囲気で話し始めた。
「私一人だと、変な目で見られる。でも、今日はまし。ハクトがいるから」
ああ、と僕は周囲から集まる視線を感じながら理解した。人間の姿のシトラスは日本人形のようにかわいらしい少女なのだ。視線は集まるし、その中には欲望に濁った感情もうかがえる。それに、小さな少女然としたシトラスが一人で歩いて入れば、迷子だろうかと親切に声をかけてくれる人も多いのだろう。
どちらかというと人見知りで、口下手な彼女にとって今日のお出かけは随分楽だったのだろう。
だから、僕はシトラスからクレープを受け取って、恐る恐る、けれど勢いよくそれに口をつけた。
嫌いだったはずの抹茶は、とても甘くておいしかった。
ハクトの姿に変化している僕の味覚はそれほど変わっていないはずで。だとすれば何が味を変えているのか、僕は考える。
シトラスと一緒だからだろうか?確かに、友人――と言っていいのかはよくわからいけれど、誰かと一緒に食べるのは楽しい。
それに、誰かからのプレゼントだからかもしれない。
僕はそれを証明するべく、手の中にあるクレープをシトラスの口元へと突き出した。
「一口どうぞ」
「ん」
抹茶とチョコと少しの生クリームのクレープにかぶりついたシトラスが、自分も、と僕に向かって紫と白のクレープを突き出してくる。
周囲からの視線に僕はわずかに顔に熱を感じながら、一口、それをついばんだ。
それは甘くて、そして格別においしかった。
誰かと一緒で、誰かと時間を共有して、誰かと一つのものを分け合って。
そんなありふれた、けれど大切なすべてが、とてもうれしくて、楽しくて、涙が出そうだった。
「……シトラス。この後寄りたいところができたんだけど、いいかな?」
僕の提案に、シトラスはすぐに頷いた。
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