第13話 アニマル喫茶テルセウス

 アニマル喫茶テルセウス。それがこの店の名前だった。

 妖によって経営される、人間社会に紛れた喫茶店。従業員の妖たちは時に人間として、時に妖の姿になって「動物」として、人間や妖の客を迎え入れるそうだ。

 ここは妖たちが人間を知り人間に紛れるための訓練の場であり、妖同士の繋がりを広めるための場であり、妖が人間社会の金銭を確保するための場所でもある。

 妖たちは何世代も入れ替わりながら、このテルセウスを受け継いできたのだという。


「つまり、妖が動物姿になって癒しを提供する場所ってことだね?」


「おうおう、なめたこと言ってくれてんじゃねぇか。いいか、俺たちが癒すんじゃねぇ、人間どもが癒されるんだよ」


 「知恵の獣」ミネルバが鋭い眼光を光らせて僕の言葉を否定してくるけど、僕には何が違うのかよく分からない。


「そこの馬鹿は放っておきな。人間に対する敵愾心が強いせいか、未だに人化できないおこちゃまなのよ」


 「森の賢王」大蛇のエメリーがわざわざ人型になってミネルバを笑う。そんなことを言うエメリーも、意図しているのかいないのか、その目が蛇の縦に長い瞳になってしまっている。


「バッカ、俺ともなればやろうと思えば一分と経たず人化を覚えられるに決まってんだろうが」


「……ルバは、頑張り屋さん。いつも部屋で、練習してる」


 これまたミネルバを煽るように人化した「猫又」のシトラスが、ミネルバの努力に言及する。にやぁ、とエメリーが笑い、両手をわきわきと開閉しながらミネルバに近づいていく。


「へぇー、ふーん。なるほどねぇ……いやはやミネルバ君がこんなに頑張り屋さんだったとはねぇ?」


 エメリーが煽る煽る。脳の血管がはち切れそうなほどの怒りに体を震わせるミネルバだったが、知恵の獣というだけあって激情を理性で抑えこみ、ふん、と顔を背けた。


 ちなみに、エメリーとシトラスがわざわざ人化したのは、そうしないと人間の言葉を話すことができないからだ。そう考えると、ミミズク姿のままで妖狐の言葉を聞き取ったり、人間の言葉を話したりできるミネルバは十分すごいのだが、彼自身はそれに気づいていなかった。それに、エメリーとシトラスも、彼にそれがすごいことだと教える気はなかった。

 「有頂天になって人化の練習をしなくなるのは避けたいからね」というエメリーの言葉を思い出して、僕は口をきゅっと引き結ぶ。

 なんだかんだ言いながら、エメリーはミネルバに優しかった。

 そんなみんなから視線を外して、僕は並ぶテーブルを拭いていった。


 飢えと疲労で倒れた僕を、アニマル喫茶のマスターは雇ってくれた。そう、今の僕はなんとこの喫茶店の従業員なのだ。正直、交通費はもちろん食費すらない今の僕にとってはこの上なくありがたいことで、僕はこの店で数か月働き、旅の軍資金を手に入れることにしたのだった。

 急がば回れ、というわけではないのかもしれないが、このまま無茶をして徒歩での旅を続けるより、ここでお金を稼いでバスなり電車なりで行動した方が速く目的を達成できるというのは明らかだった。

 だから僕は、開店前と閉店後は人間の従業員として、必死になって働くのだ。

 とはいえ、いざお店が始まると可愛がられ要員でしかないのだけれど。まあ、その間も裏で事務員として作業をしているという扱いになるそうだから、不満はない。


 そう、不満はなかったのだ。


「わぁ、キツネちゃん!」


 どどどど、と足音を響かせて暴虐の嵐が勢いよく僕に近づいてきていた。

 僕は逃げたい思いを必死で押し殺して、その荒れ狂う厄災に立ち向かう――!


 というのは少し言いすぎかもしれないが、開店と同時にこの店に飛び込んできた小さな嵐――すなわち元気のいい人間の子どもは、僕を見つけるとそれはもう勢いよく飛びかかって来た。

 そしてそのまま、ぼふ、と僕の体に顔をうずめて、なにやら匂いを嗅いでいるようだった。


 ふ、ふふ、今の僕はお風呂に入って体をきれいにしてあるのだ。森の匂いが消えてしまうのは癪だったが、そのあたりは流石マスター、天然素材を使った、僕の鼻でも気にならない優しい匂いの石鹸を用意してくれていた。

 僕はマスターに体をごしごしと現れて進化したのだ!


 ああ、ちなみにマスターは吸血鬼という妖の一種らしい。長い時間を生きた蝙蝠が、ある時生物の血を吸ったことでその吸血対象の知識の一部を共有し、頭脳が活性化、そしてその生物へと変化することが可能な吸血鬼となるのだそうだ。

 そんなわけで、吸血鬼は血を吸ったことのある相手の姿をとることができるそうだ。だからマスターは人間の姿はもちろん、犬、猫、ネズミ、鳥、その他たくさんの姿になることができる蝙蝠なのだという。最も、最初に血を吸った人間のイメージの比重が大きいためか、基本的にその姿以外はひどく疲れてしまうので、滅多に他の姿にはならないそうだ。


 そして、マスターはこの店の店主であり、妖のミミズク、大蛇、猫、そして新たに狐を加えた集団のボスなのだ!


 ……まあ、ミミズクと大蛇と猫と狐で、なおかつ初見の狐がいれば、子どもたちが誰に近づいていくなど明らかだった。


 僕は襲来した子どもにモフモフされながら、これでいいのだろうか、と僕の次にこの店の新顔だというミネルバに視線を向ける、が。

 僕が先ほどエメリーに煽られるミネルバを無視して作業してたためか、彼はつーんと顔を背けて、僕のヘルプの視線を無視した。


 ど、どうすればいいの?このままなすがままに――ひゃん!


 これまで誰にも触らせたことのないお腹に手が触れて、僕は全身にしびれが走った。な、なんといか、気持ちいいのに不快というか、とにかく、今すぐに逃げ出したい衝動に駆られた。

 でも、我慢、我慢だ。今すぐ動いてしまっては、僕に全体重を預けるようにもたれ掛かっている子どもが怪我をしてしまうかもしれない。そうなっては僕はバイト初日でクビ、そして宿無し金なしでどこかで野垂れ死んでしまうかもしれないのだ!

 ……なんか、最近心の中の独り言が激しくなっている気がするけれど、気のせいだろうか。そう、ユキメや八代たちと別れてから、一段と激しくなったというか、一人旅をしていたころに戻ったというか……


 まあ、だからその、ね?そこであらあらうふふ、と子どもがはしゃぐ姿を見て優しい笑みを浮かべている育ちのよさそうなお母さん。ぜひ僕の背中によじ登ろうとする子どもを止めてくれないだろうか。ね、怪我したら大変だと思うし、僕の綺麗な毛がぐしゃぐしゃに絡まってしまいそうなのだ。だから、ねぇ!


 その時、ひょいと僕の背中に軽い者が飛び乗った。それは、救世主シトラス。通常はありふれた黒猫の姿をしている彼女は、妖としての本性を現すと尻尾が二つに分かれる、一度死んで生まれなおした「猫又」という存在。転生というあたりに僕は内心でシンパシーを感じていた、この喫茶店でマスター以上の最古参であり、バイトたちのリーダー。

 現れた救世主は、「にゃ!」と一声鳴いて子どもの意識を引き寄せ、ゆらりゆらりと尻尾を揺らす。

 まるで猫じゃらしのような抗い違い魅惑の尻尾に視線を吸い寄せられた子どもが、そのしなやかな尾に手を伸ばし、けれどするりと回避されてしまう。


「あー!」


 ひょい、と地面に飛び降りたシトラスを追うように、子どもが僕から体を話してそちらへ手を伸ばす。

 僕は解放された!


 少し心落ち着けようと、僕は床に座り込み、そして。


 ドスン、と新たな嵐を背中に感じた。


 ゆっくりを首をもたげれば、そこには小さな刺客!ふわふわのボブカットの幼女が、僕の毛皮の海に飛び込みながら、ふわふわ、と夢見心地につぶやいていた。

 そうだろう、僕の毛はとてもふわふわなのだ!この毛並みに関してだけは、僕はユキメよりすごいのだと自信を持って言えるのだ。何しろ、この毛皮はお母さんにも美しいと言ってもらえたものなのだ。だから僕は、その美しさを維持し、さらに艶を出しさらさらにするために気を使ってきたのだ。艶のために食べるものを考えるのはもちろん、僕は川で水浴びをたくさんする綺麗好きな狐なのだ。

 まあ?これまでの旅でかなり艶が落ちてしまっていたのだけれど、そこはリンスと櫛でちょちょいと、ね?別にズルじゃないよ。そう、ただマスターの櫛さばきを受けて、僕がシュウのことをマスターと呼ぶようになっただけでね。

 彼の技術はすでにマスタークラスだったのだ。だから僕の中で彼は(櫛)マスターなのだ。


 新たな少女は、先ほど僕に体当たりをかましてきた少年よりも丁寧に僕のことを撫でてくれた。だから僕も、お礼と共に、彼女を楽しませてあげようと可愛らしく鳴いてみたのだ。

 うん、眼をきらきらさせた彼女の方が可愛いと思うよ?だからそのね?男、というか雄の僕に対して「可愛い」と連呼するのはちょっとね?別に嫌じゃないんだよ?


 まあ、そんな可愛い少女が「め!」してくれたおかげで、台風のような少年も丁寧な手つきで僕のことを撫でてくれたので、彼女は僕の中で天使に格上げされたのだ。


 そうして、子どもたちという台風に翻弄され、大人な女性に撫でられ、女子高生にきゃっきゃとテンション高く撫でられて、僕の喫茶店での初日の接客を終えたのだった。


 ……接客というのは、果たしてこのようなものだっただろうか?

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