第12話 母を探して
――母を探すための旅。それにどきどきしていたのは、本当に最初の最初だけだった。
久しぶりに訪れた人間の世界には、大きな感動を覚えた。
高い建物、道を走る道路、たくさんの人の往来、街灯、電柱――
そこにはたくさんのなつかしさと、たくさんの初めてと、そしてたくさんの不安があった。
過疎化した村を歩いているうちは良かった。段々と周囲の景色が都会のものにかわって、自然が消えて行き。
そして僕は今、究極の難問を前にしていた。
――きゅるるるるる。
言うまでもなく、ボクのお腹が鳴った音だ。
これまで、僕は道中見つけた山や林に入っては、そこに鳴っている食べものを取って飢えをしのいでいた。当然そこは誰かの私有地なのだろうが、人間ではない僕には関係のないことだった。
最も、最初の頃は罪悪感で吐きそうになったけれど。
そんなことを考えていられたのも最初の内で。
都会へと向かうほどに、ボクが食料を手に入れられる場所は減っていき、そして僕は、飢えた。
当たり前だった。僕はお金を持っていなくて、化け狐として多少は飢えを耐えられるとはいっても限界があって。僕は段々と体力を削られ、けれど必死に歩き続けた。
何しろ、僕が――ハクトという人間が死んでから十三年の時が経っていて、その上僕が生まれ落ちた場所は、死んだその街から遥か遠くにあったから。
ハクトとしてのお母さんが今もあの街で暮らしている保証なんてなくて、何よりその道程全てを徒歩で向かうにはそこは遠すぎて。
僕はただ、必死に足を動かす他なかった、のだが。
芳醇な香りを感じて、僕はつい足を止めてしまった。
きゅるるるる、とお腹が鳴った。
突然足を止めた僕を不審気に見つめる通行人から逃げるように、僕は裏路地へと体を滑り込ませた。
人間の街は、とにかく無数の刺激であふれていた。匂い、音、気配、そのどれをとっても恐るべき情報量で僕のことを圧倒した。
はっきり言って、僕はひどく酔っていた。ハクトとしての姿だけは変化の術で完璧に変わっていられるとはいえ、その維持にはひどく神経を使う。もう何日も、下手をすれば一か月以上僕は人間の姿のままで、そのストレスのせいか少しずつ変化の術の効果が落ちてきていた。
真っ先に戻った狐の嗅覚は、排気ガスや街にあふれる無数の食品、それからペンキや工事重機のガスのにおいなど、とにかく僕の鼻を壊そうとしてきた。
それから聴覚が戻ってしまった時など、もう最悪の一言だった。
音、音、音、音。
音の洪水に飲まれて、平衡感覚がマヒして、そうして僕は貴重な栄養源を吐いてしまった。
そんな状態で、それでもかぐわしいと感じたその匂いが、少しだけ僕の心を落ち着かせていた。
深い森の奥で、熟成した木の樹液の匂いのようで、朝露の匂いのようで、大樹の幹の匂いのようだった。
僕は、しばらく人ごみから外れた暗がりでその匂いを味わって、そして。
ふらりと体が傾いて、壁に向かって手を伸ばして――
意識が、途絶えた。
こぽこぽ、と耳に心地よい連続音。
フシュー、と響いたのは蒸気がケトルから噴き出す音。
優しい匂いが鼻をなぜ、僕はゆっくりを目を開いた。
ひどく、地面が低かった。
深い茶色の、床――
「!」
それは、床ではなかった。
僕の目にはアンティーク(?)のように映る木目の美しい板は、テーブル。
ハッと顔を上げれば、僕の体の上からひらりと布が舞い落ちた。
僕が寝ていたのは、大きなバスケットの中だった。
僕は、狐姿に戻ってしまっていた。
慌てて周囲を見回せば、そこは山奥のロッジのような見た目をした、素朴な木の味わいがあるお店の中だった。
机から跳び下りる。
毛を逆立てながら、僕は静かに、けれど牙を見せながら周囲を見回した。
おかしな匂いはなし。
肌がひりつく感覚もなし。
敵はいないと、そう判断してもよさそうだった。
突如都会の街に現れた狐を保護する人間なんて、不審すぎて逆に怪しさ満点だったけれど。
とにかく僕は、落ち着いた足音を響かせながらこちらへやって来る一人の人物の到来を舞った。
「おや、目が覚めたようですね?」
店の奥から現れたのは、なんというか、英国紳士のような男性だった。
パリッとしたシャツに黒のズボン、同色のベストに暗紅のネクタイ、白と黒の混じった灰色の髪はオールバックできれいにまとめられ、左目にかけられたモノクルが渋さを出していた。ガラスの奥に光る瞳は、とても暗くて、深い知性を感じさせる黒色をしていた。手に握る黒い杖は落ち着いた金の装飾が持ち手部分に施された、シンプルゆえに上品なもので。わずかに足を引きずる動きをしているのは、その歳を思えば仕方がないのだろう。むしろそれによって不思議な貫禄が生まれてさえいた。
僕は警戒も忘れて、はああ、と彼の姿に見入った。
「ふふ、お気に召していただけたようで何よりです」
気障に一礼して見せた男性は、それからおどけるようにウインクを一つして、僕の前にたどり着いた。
「初めまして、若き同胞君。わたしはシュウ。このアニマル喫茶のしがないマスターをしております」
「キュウン?」(アニマル喫茶?)
同胞という単語よりも、一国一城の主だということよりも、真っ先にボクが首を傾げたのは、その単語に対してだった。
「おや、まずそこに考えがいくとは、中々鋭い観察眼をお持ちのようで」
本当はどう思っているのか少しも悟らせない完成した笑みを浮かべた彼は、それでは場所を変えましょうか、と僕に背を向けて店の奥へと歩き始めた。
僕はわずかな恐怖と好奇心を抱きながら、彼の後を追った。
ただの狐にしか見えないはずの僕の言葉を聞き取ったことといい、間違いなくこの喫茶店のマスターはただものではなかった。
超能力者?霊能者?陰陽師の末裔?あるいは――
同胞、という彼の言葉が頭をかすめた。
つまりは、と僕がそこまで考えたところで、シュウはバックヤードへと続く扉を開いて、僕をその中に案内した。
そこには、数匹の動物がいた。
フクロウ(ミミズク?)に黒猫、そして緑の蛇。
彼らは――と僕がシュウに尋ねようとしたその時。
「おうおう、ずいぶん威勢のいい若いモンが来たじゃねぇか。この俺を差し置いてボスとまず言葉を交わすとは、ずいぶんなってない奴だな?」
そんなドスの聞いた声が、フクロウの口から飛び出した。
一瞬、空耳化と思った。目を凝らしても目の前で口を開いて追加で何かを言っているのはフクロウで。耳をそばだてても、彼以外から声が聞こえているわけでもなかった。
「……ええと?」
僕は困って、年功序列とは、なんてことを語り始めたフクロウについてシュウに尋ねた。
「説明が必要でございましょうね。では、まずはわたしどもがあなたに危害を加える存在ではないことを理解していただきましょうか。同胞殿?」
そう告げるなり、目の前にいた長身のシュウの姿が消えた。
そして、いつの間にかそこにいた真っ黒な蝙蝠が、きゅいきゅいと鳴きながらボクの周りを飛び始めた。
喋るフクロウに、消えたシュウ、そして突如現れた蝙蝠、同胞という単語。
これだけ情報が与えられれば、もう答えは出たも同然だった。
「キューン」?(妖怪?)
ふむ、と言葉を止めたフクロウが首を百八十度ほど回転させながら、その金色の瞳で僕のことをじっと見つめた。
「正確には妖だぜ。俺たちは知性のない怪物とは違うんだよ。だから妖怪という表現は避けてくれや」
低音ボイスでそう告げたフクロウは、それからよっと、黒混じりの白い翼を広げて飛び立ち、僕の頭に乗った。
「初めまして、俺がお前の兄貴分になる知恵の獣ミネルバだ」
「……ええと、フクロウのミネルバさんですね」
「ばっきゃろう!オレはミミズクだ!この俺の立派な羽角が見えないって言うのか⁉ずいぶん曇った目ん玉してやがんな?つついてくりぬいてやろうか⁉」
「いえ、あの……見えません」
「さっきまで見えてたはずだろうが!」
ぎゃんぎゃんと目を言いながら頭の上で跳ねるミミズクのミネルバに困った、僕は救いを求めるように周囲を見回して――
「あんた、うっさいわよ?」
気が付けば人に姿を変えていた蛇が、緑髪をたなびかせながらミネルバに吠えた。とたんにミネルバは僕の頭の上で止まり、沈痛な声を響かせる。
「ッ、すんません姉御!なってない新入りの教育につい熱くなってしやいやした!」
そう言いながら緑髪の美女の谷間に目を向けるミネルバの目は親父臭いものだったが、ハクトはそれに気が付かない。
「まったく、少しは落ち着きを持ちなさいよ。ねぇ、シトラス?」
「……ん。ルバ、落ち着き、大事」
一方、美女の方もミネルバの露骨な視線は慣れたものなのか、ふいと視線をスライドさせて、もう一人の同僚へと顔を向けた。
シトラスと呼ばれたのは、日本人形のような少女だった。唐草模様の着物を着た彼女は、その真っ黒な瞳をくるくると動かし、ミネルバのことを見つめる。
う、とミネルバがうろたえ、そして止まり木の方へと飛び立った。
「第一、ここで人化できないのはあんただけなのよ?先輩気取りたいんだったら、それくらい覚えなさいよね?」
「ああ゛?こんな若造が人化なんて『できるでしょうね』——ボス⁉」
ふわふわと空中を漂っていた蝙蝠が一瞬にしてあのいぶし銀のような老年の男性に変化し、ミネルバに告げる。
ミネルバは動揺しているのか、しきりに首をひねり、それから僕のことをじっと見つめて来た。
「おいお前、恥ずかしがらなくていいから言えよ。人化……出来ねぇだろ?」
できないも何も、その手の技は一応は妖狐である僕の得意分野だ。
僕は妖気を活性化させて、ひょいと軽く全身に力を入れる。
そして、見下ろされるばかりだったミネルバと顔の高さを合わせて、言ってやったのだ。
「すごく簡単ですけど、もしかしてできないんですか?」
ぐ、とミネルバが呻いた。
やるぅ、と名前は知らない蛇女が笑った。
ぐ、とシトラスが親指を突き出した。
仲良きことは美しきかな、とつぶやきながら喫茶店マスターのシュウが満足げに頷いた。
こうして、僕の新しい日常が始まりを告げた。
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