第9話
夕暮の街を歩く。
すぐ脇を、若い男女が通り過ぎて行った。ふと顔を上げ、ビルのモニターが視界に入る。映画の宣伝映像が流れていた。
てんねんズのナンバー3、桜かなでが映っている。彼女は主演女優の一人だった。無表情で映画の魅力を語っている。アイドルなのに小匙ほどの愛想もなかった。
桜ちゃんの映画一緒に観に行こうぜ、とサヨリから誘われていたことを思い出す。いまいちアイドルに興味を持てないわたしと行くより、アイドル好きの子と一緒に行く方が、何倍も楽しめるんじゃないかと思う。
サラリーマン風の男性に肩を押され、倒れそうになった。ガードレールの支柱に手を置き、バランスを保つ。しばらくその場に留まっていたら、小雨が降ってきた。
手のひらを上に向け、空を見上げる。ふいに思い出されるのは、ルームシェアを始める直前、水族館に出かけた日の会話だった。
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サヨリは、いつになく真剣な表情で巨大な水槽の前に立ち尽くしていた。背後から声を掛けると、天敵に遭遇した野生動物のように、びくりと体を跳ねさせた。
「驚かすなよ」
サヨリは恨がましい目をこちらに向け、ほっと息を吐き出した。それから、また水槽に目を向ける。カラフルな魚の群れが、自由に動き回っていた。
「不思議なんだよな……」
サヨリが呟く。何が、と訊くと、腕を組んで言った。
「あたしの実家、漁師なんだ。でも、あたしは生魚が食えねえ」
「サヨリ……水族館に来て言うことがそれ?」
呆れてしまう。
「マジな話だよ。なんでかな、って考えてたんだ。で、結論。ちゃんと理由があることに気づいた」
宝物の在りかを口にするような慎重さで、サヨリは言った。
「八歳か九歳の時だったかな。誕生日に、大量に生魚を振舞われたんだ」
「へえ、いいじゃん」
「その時、あたしはたぶん、一生分の生魚を食べたんだ。もう二度と食わなくてもいいくらいの量だった」
真剣な目をして言うものだから脱力してしまう。
わたし自身、誕生日に良い思い出はなかった。誕生日がいつなのか、人に訊かれても答えないくらい、誕生日を忌み嫌っている。大好きなサヨリにすら話す気になれなかった。
ふと、矛盾に気づく。
「あれ? でも、わたしが生魚を出した時、美味しそうに食べてたじゃん。残したことないよね?」
サヨリを見つめる。
しまった、という顔をしていた。人差し指で頬を掻き、口の端を引きつらせている。顔が朱色に染まっていった。
大きな魚が目の前を通り過ぎていく。それを見送りながら、「どういうこと?」と追及する。
サヨリは溜息をついた。それから、照れくさそうに続けた。
「お前のことが好きだからだよ」
「……え」
時間が停止したかと思った。
どういうこと、と訊こうとしてやめた。
わたしは微笑み、ガラス越しに、サヨリを見つめた。
「わたしも好きだよ。一緒だね」
「……そうか」
「うん」
「なら、付き合うか」
「うん」
手を繋いで、水族館を後にした。帰り道、サヨリはしみじみと言った。
「吐き出したいことがあったら、いつでも言えよ。いつだって訊いてやるから」
わたしは幸せを噛みしめながら「わかった!」と頷いた。
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中途半端な雨に打たれ、溜息をつく。
どうせなら土砂降りにしてほしかった。この程度の雨では、頭を冷やせない。
アイスでも買って帰ろうか。そう思い、コンビニに立ち寄ろうとしたところで、足を止めた。
見知った顔が二つ並んでいた。
サヨリと黒髪美少女だ。
相合傘で、コンビニの前を歩いている。どちらも楽しそうに笑っていた。サヨリの手にさげられた袋を見て、胸が締め付けられた。
水族館で貰える袋だった。二人で楽しんできたのだろう。光景が脳裏に浮かぶ。
「……仲良いなぁ」
あはは、と乾いた笑いが漏れた。
踵を返そうとして、動きを止める。
このままでいいんだろうか?
ミココの「気持ちに蓋をしている」という言葉が蘇る。
サヨリの「いつでも吐き出せよ」という言葉も思い出された。
体から力が抜けていく。倒れそうになった。あはは、と笑ってみる。OLふうの女性が、ぎょっとした顔をこちらに向け、離れていく。
うじうじと考えるのは自分らしくない。
どうせ関係は長続きしない。初めからわかっていたことだ。
水面下の関係でいよう、と最初に提案したのはわたしだった。わざわざ周囲に関係を言いふらさなくていいでしょ、と主張したのだ。サヨリはすぐに了承した。でも、本音では、そういう関係にうんざりしていたのかもしれない。皆に祝福されたいと感じていたのかもしれない。
サヨリは水面下から浮上しようとしている。わたしにそれを止める資格はない。底の底で、見上げることしかできない。
なぜなら、わたしは終わるという前提で今の関係を維持してきたからだ。
実は、「水面下の関係でいよう」と言った時から、終わりのことを考えていた。
公言すると、別れた時に、周囲から気を遣われる。別れた人達として見られる。それが嫌だったのだ。
……ああ、なんて自分勝手なんだろう。
こんな人間を、ずっと傍で愛してくれる人間なんているわけがない。
わたしは、二人の背中を見つめた。少しずつ遠ざかっていく。
足を動かした。自分の意思に反して、歩幅を広げていく。
最初は足が縺れ、転びかけた。なんとか体勢を立て直して、歩調を速める。
二人の脇を通り抜けた。足を止めて振り返る。
サヨリは、大きく目を見開いていた。なぜここに、と呟いている。
美少女は、きょとんとしていた。目をぱちくりさせている。
手の震えを抑え込んでから、わたしは口を開いた。しかし、なかなか言葉は出てこなかった。
みじめな気持ちになる。考えるのは向いてない。つくづくそう思った。
わたしはすべてを諦めた。すると、視界が開けた気がした。二人の表情がよく見えた。
心の中のもやもやのすべてを、言葉と共に吐き出していく。
「サヨリ……ありがとう。楽しかったよ。こんなわたしを好きでいてくれて……ほんと、ありがとう」
意思に反して涙がこぼれた。顎まで垂れ、地面に落ちていく。おかしいな、と口の中で呟いた。家族に捨てられた事実を受け入れてから、わたしは嬉しいこと以外では泣かなくなった。もう二度と、悲しいことで泣くことはないと思っていたのに。
サヨリは傘と袋を手放して、近づいてきた。不安の色を浮かべている。
「おい、どうしたんだよ。大丈夫か?」
「どうだろう……。駄目かも……」
「こっち来い」
抱きしめられる。優しく背中を擦られ、温かな気持ちになった。
しばらく胸の中で涙を流す。もう大丈夫そうか、と訊かれ、うん、と頷いた。サヨリが離れていく。
美少女が、居心地悪そうに佇んでいた。申し訳ないことをしたな、と思う。
わたしはこの後、どうなるのか。
裁判の結果を待つ被疑者のような気持ちで、その場に佇む。どんな結果でも受け入れるつもりだった。覚悟は決まっていた。
サヨリは、傘と袋を拾い、真剣な顔を浮かべた。
「紹介が遅れたな。この子は……」
「わたしが自分で言います」
美少女が前に出る。表情が硬かった。何を言われるのか、と身構えていると、美少女の表情が、ふっと緩んだ。雪解けを感じさせる優しい笑みだった。
「わたし、佐藤凪です」
「凪……? えっ?」
記憶に引っかかるものがあった。思わず、「嘘……」と呟いてしまう。
美少女は、目を潤ませながら言った。
「久しぶり、姉さん」
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